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第64話

「そんな大事なものだとは思わなくて、悪かった」 「いえ、今思えばあの時、何も知らないあなたに捨ててもらった方が良かったのかも知れない。きっとその方が踏ん切りがついたと思います」 「そんな話聞いて捨てられるわけないだろ」 「もちろん今となってはあなたに重荷を押しつけるつもりはありません」 スーズは掌を上にしてハルに差し出してきた。 「自分で見切りをつけます。あれを、返して頂けますか?」 一瞬スーズに触れられるのではないかと思ったハルは、そうされるのが嫌なわけではないのに咄嗟に体を後ろに引いていた。誤魔化すように自身の項のあたりに触れる。 「ごめん。・・・今日は持って来てないんだ。そのこと、忘れてたわけじゃないんだけど」 「そうですか。分かりました」 スーズは再び坐っていた椅子に背中を預けた。 店を出ると身を切るような寒さが襲ってきた。 スーズはハルに、後で今通っている大学の敷地内にあるドミトリーの住所をメッセージで送ると云った。もし今後会えそうもなければ例の飾りをそこへ送ってくれという。 「またお会いできればそれが一番いいのですが、時間が過ぎるのは早いものですからね。あなたもお忙しいでしょうし」 「なあ、これから取りに来ないか?」 ハルの言葉にスーズは顔を上げた。 「その飾りのことだよ。今日ちょっとうちに寄ってくれればすぐに渡せる。前に来ただろ?駅からタクシーに乗ればすぐだよ」 頼むから断らないでくれ、とハルは思った。だが眼を合わせた瞬間その切実さを感じ取ってしまったのか、スーズは口許に表面的な笑みを浮かべてその誘いを辞した。 「いいえ、私は帰らなくては」 行けばハルに迫られることを察している様子だった。居酒屋に入店したのが夕方一番でかなり早かったので、まだ時刻は夜の八時頃だった。 「何で?まだそんなに遅くないだろ」 スーズが決して了承しないということを分かっていながらハルはそう訊ねた。案の定スーズは断り文句を考えるのに苦心している。どうしてなんだとハルは思った。出会った頃はもっと上手に嘘を吐いていたじゃないか。 「意味、分かってて断ってる?」 その質問に対し、肯定するような間があった。 「親友のことなら気にしないで下さい。同情を買うような話し方に聞こえたなら申し訳ありませんでした。でも、あなたにそういう形で慰めてもらおうとは思ってない」 「お前、アールと寝たのは寂しかったからだって云ってたじゃないか」 「ええ、半年も異国にいれば寂しくもなる」 「親友が結婚したからだろ?今はまだその時よりましかも知れないけど、その時は受け入れられなくてつらかった」 違う、今なおスーズは親友のことが忘れられないのだ。結婚、という言葉にスーズは敏感に反応した。明らかに傷ついていた。それから二人とも押し黙った。他人の傷口に無闇に触れてしまった気まずさがハルを襲う。 「アールと別れろって命令した時に、云っただろ。あいつの代わりが欲しいなら俺が責任持つって」 「アールのことならいいんです。もう何とも思っていません。云ったでしょう。単なる遊びだったんです。誰にだって魔が差す時はある」 けれど一旦火が点いたハルの気持ちはなかなか収まらなかった。スーズに断られるのはこれで二度目なのだ。一度目は正気を疑われるほど誘い方に問題があったが、今回は親密の度合いも冷静さもあの時とは違う。それなのにどう切り込んでも拒絶されハルの自尊心は傷ついた。 「俺じゃだめなのか?」 スーズが唾を飲み込むのが分かった。彼は頑なにハルの顔を見ようとしなかった。 「やめましょう。あなたには申し訳なかったけれど、誰かに話せたことで整理できた気がする。他人の気持ちなんて、いくら考えたって分かるわけないのにぐずぐず悩んで、無駄なことですよね。以前、あなたを寂しい人だと云ったけど、私の方こそ寂しくて卑しい人間です。いつまでもふられたことをいつまでも根に持って、被害者みたいな話し方であなたのような優しい人間の同情を引こうとしてる。気にしないで下さい。私の気持ちを思いやってくれてるんですよね。でも、あなたも人に同情する度にそういう形で相手に踏み込むのは良くない。自分を大事にすべきだと前にも云ったでしょう?」 「俺には踏み込んで来たくせに」 「・・・駅に行きましょう」 スーズはあくまで落ち着き払った様子でハルの肩に触れ、帰り道へ促そうとした。だがハルは動かなかった。 「その親友の代わりにしていいよ」 「・・・何云ってるんです」 「ほんのちょっとでも似てるなら」 どうしてそんな言葉を口にしてしまったのだろう。今夜は離れたくない。本当は好きになってしまったのだと、お前の孤独に恋をしてしまったのだと正直に云うべきだったのに。 「だって今夜しかないんだろ」 「やめて下さい。どうしてあなたはそうなんですか?」 スーズの声は強い非難の色を帯びていた。ハルに正面から向き合ったその眼からは激しい動揺が感じ取れた。 「云わせてもらいますけど、代わりが欲しいのはあなたの方なんじゃないですか?」 「何云ってる」 「アールの代わりですよ。あの人にはっきり別れを切り出せないのは、一人になるのが怖いからだ」 予期しない言葉ではあったが、アールと手を切ることに不安を感じていたのは事実だった。一人でも平気だなんてことは、とてもハルには云えない。 だからスーズの言葉をどうしても否定できなかった。心では、そうじゃない、お前となら理解し合えると思ったからもっと一緒にいたいと思ったんだ、と云っていた。 あんなに人と人が理解し合うことを否定していたのに。自分と同じ思いをした人間と知り合いたいとも思わなかったのに。そんなものを求めているのならグループセラピーにでも行けばいいのだと思っていた。 今なら分かる。自分の持っている何かと相手の何かが反応して、全力で否定しても抗っても惹かれてしまう、見えてしまう、強力な磁力が人と人の間に働く時がある。 スーズのような、自分の深いところを理解してくれる、同じ匂いのする相手には、もう会えない気がする。抑圧されてきた不器用な少年の魂にハルは共鳴してしまった。きっとこんな相手は他に見つけられない。 そう心の底から思っていたのに、この時スーズは触れられるほど近くにいたのに、僅か数十センチの距離をハルは言葉で繋げなかった。一体何を云えば自分の体の奥深くにある本当の気持ちを分かってもらえるのだろう。この世にはあまりに色々なことが起こる上に、人だって説明しきれないほど多くの感情を抱くのに、それを伝える手段が言葉とセックスしかないなんて、あまりに人間は雑につくられすぎている。 「誰に対してもそういう態度だと、いつか本当に取り返しのつかない誤解を招きますよ。あなたは一晩でも誰かが傍にいればそれでいいんでしょうけど、誰かの代わりなんて、私はごめんです」 「誤解を招いたのはどっちだよ。そんなに初でもないくせに、今日ずっと思わせぶりなことばかり云ってたのはお前の方だろ。大人を揶揄うのも大概にしろ」 「揶揄ってなんか」 二人はもうほとんど云い争っていた。お互い、相手に動揺させられたことで気が昂っていた。

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