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第65話

あぶれそうな情欲に掻き立てられつつも、事態が思い通りに運ばない苛立ちと焦燥感からハルは衝動的にスーズの腕を掴もうとした。 「お願いですから触らないで下さい」 そう云ってスーズは後ろへ下がった。怒りからくる拒絶というよりは、ハルに触れられるのをひどく恐れているようだった。 それでも構わずにハルは接近しスーズの襟元を掴んで口唇を近づけた。結局自分はこういうやり方しかできないのかと思う。今回は口唇が触れ合う前に、スーズが強くハルの肩を押した。踏みとどまれなかったハルは後ろにあった店の壁に背中と頭の半分を打ち付けた。これまでで一番明確な拒絶だった。 「人の気も知らないで好き勝手してくれますね」 「それはこっちの台詞だよ。普通はここまでされたら一発くらいヤるもんなんだよ、莫迦っ」 怒りを含んだスーズの声にハルは思いきり放電してしまった。 周辺を歩いていた人々の視線がハルとスーズの方に集まった。場所が場所だけに完全に酔っ払いだと思われている。 壁にぶつかった背中と後頭部が痛かった。何よりその拒絶の強さにハルは傷つていた。 昂奮しているハルの眼を見て、先に冷静になったのはスーズだった。 「すみません、つい。痛かったですか?」 ハルはスーズを睨みつけ、体勢を立て直した。 「あの、喧嘩するのはやめましょう。別に私達、憎み合ってるわけじゃない」 「もう手遅れだよ。お前だって怒ってるんだろ。だったら気の済むようにしたらいい」 「あなたのことは好きです」 その言葉にハルは全身の力が抜けていくようだった。 「難しい人だけど、情が深い。あなたはとても魅力的です。こんな人の誘いを断るなんて、私はほんとに莫迦だ。多分、この先一生後悔すると思います」 「・・・なら何で」 云いながら泣けてきた。涙なんか見せられない。 こんなに楽しい一日を過ごした後で、こんな風に云い争うことは悲しい。セックスさえできれば全てを取り戻せる気がする。好きだと云ってくれるなら何で突き飛ばした?どうして応じてくれない? 気を紛らわそうとして煙草を取り出した。だが手先が震えて点火器をつけることができない。 「誰かを無理矢理忘れようとした経験はありますか?地獄ですよ」 弱々しくそう云ってから、スーズはハルの手から点火器を取った。一度眼を合わせてから火を点けてくれる。ハルは無闇に煙草を深く吸い、少し噎せてしまった。 「ここで抱き合うのは簡単なことです。でも私にはその一回が重い。あなたを忘れるまでに何度も傷つくことが分かってる。あなたにはまた会いたいんです。あなたと寝てしまったら、それは二度と叶わない」 「何でだよ?会えるよ。会いに来ればいい」 「どの立場で?恋人としてですか?あなたがどんなに寂しがり屋か私には分かってます。あなたと私は似てるから。強い孤独を知ってる分、誰かの手が離れるとすぐ不安になる。誰かが傍にいないと自分を見失う。私もです。親友とのことがあったあの日から今日まで、私が寝た相手がアールだけだったと思いますか?」 どういう表情でその質問を受け止めればいいのかハルには分からなかった。 この男を非難する資格なんかない。あのユニの誘いでさえ、利用したことがハルには何度かあるのだ。もし初体験がもっと早く訪れていたら、自分だって同じようなことをしていたと思う。 「私がどんな人間か分かったでしょう?結婚のことがショックだったから、一時的な気の迷いでアールのような相手を求めてたわけじゃない。元々私はこういう人間なんです。周りにはそんな私と割り切った付き合いをしてくれる学生が何人かいたんです。私も割り切って彼等と付き合ってた。でもあなた相手に割り切れない。あなただけは違う。特別なんです」 これが今のスーズからの精一杯の告白だった。 「もう親友の時のような、あんな思いはしたくない。・・・最近やっと、そのことから立ち直れそうなんです。あなたに出会ったからだと思う」 結婚する予定などないのだと云ったところで何の気休めにもならないことがハルには分かっていた。それに自分達が、遠距離恋愛には向いていないことも。こんな純情は続かない。もし今夜結ばれても、別れが訪れてひと月もすれば、もう寂しくて堪らなくなっている自分が容易にハルには想像できた。きっと手近なところに手を伸ばしてしまうだろう。そのうち、どれほど自分が相手を好きだったか、恋い焦がれていたのか忘れてしまう。人間とは薄情な生き物なのだ。そういう風にできている。孤独は人を殺すから、そうならないように本能が近くにいる体温を欲しがるのだ。 「二か月付き合ったつもりになって失うぐらいなら、私は永遠に友達のままでいることを選びます」 「スーズ」 「私を決して裏切らないと云うのなら、一緒に私の国に来て下さい。向こうで仕事を探して、そしてもう二度とこの国には帰らないで欲しい」 それっきりだった。ハルが答えを用意できないでいるうちに、スーズはその場からいなくなってしまった。楽しかった土曜日の残骸が、ハルの胸に突き刺さっていた。

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