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第66話
「もういい」
口淫の最中、アールがそう云って自分の前から離れた瞬間、浮遊していたハルの意識が体に戻った。
「ごめん、アール。あの、ちゃんとする」
立ち上がって引き止めるハルに背を向けたまま、アールは溜息を吐いた。
「身の入らない奴にやらせるほど、不自由してない」
「・・・ごめん」
水曜日の夜だった。この年はちょうどクリスマスがこの日に当たっていた。
語学教室もこのひと月はクリスマスの装飾で派手に飾られ、受付の女性社員達は普段着ている制服の上にサンタクロース衣装のケープを羽織っていた。髪には支給されたのか自前なのか、それぞれトナカイやベルのモチーフの髪飾りをつけ、毎度ハルに愛想を振りまいてくる女性スタッフに至っては、クリスマスカラーのネイルアートまでしていた。町中が賑やかな空気に包まれる中、ハルはいつもと変わらずにアールのフラットに来ていた。
アールは煙草に火を点け、キャビネットに背を向けてもたれた。最近、アールはハルの眼を正面から見ることが増えた。
「何考えてる?」
「・・・別に何も」
「質問に答えろ。これじゃどっちが付き合ってやってるのか分からない」
「ほんとに何もないよ。わざわざお前に聞かせる話なんて」
「そうか、分かった」
アールはそう云って煙草を口に咥えると、空いた手で椅子にかかっていたシャツをハルに向かって放ってきた。
「今日はもう帰れ。心ここにあらずの人間を相手にするほど暇じゃない。今からならまだ代わりが呼べる」
アールはそう云って裸身にバスローブを羽織った。突如、追い出しにかかられハルは焦った。
この三日間、何処にいても何をしていてもスーズのことばかり考えてしまっていた。
莫迦正直にこんな相談をアールに持ち掛けても、嘲笑されるだけだと思う。でも、一人にはなりたくない。特に今日のような日は、一人でいたら周囲の賑やかさに押し潰されてしまう。
「アール」
呼びかけた時、アールはミネラルウォーターを取り出すために冷蔵庫を開けていた。
「訊きたい。どうして今の彼女と結婚しようと思った?」
ハルは自分の父親が母を愛していると感じたことは一度もなかった。ハルの中の父親像は希薄で、何故結婚したのか分からないほど、両親は互いに無関心だった。二人が会話をしている時を思い出そうとしても、離婚直前の諍いの光景しか浮かんでこない。だから分からない。これから結婚しようという、誰かの夫になろうというこの男の気持ちがハルには想像できなかった。
アールは何も云わずにハルの眼を見つめていた。一見、泰然とした態度に見えるが彼の眼の色に若干の途惑いが生まれたことをハルは感じていた。
「仕事で碌に会えなくて、デートだってドタキャンするような女なのに、どうして?本当はそういうので嫌になることだってあるだろ?」
アールの瞼が神経質に歪んだ。心臓が深く下垂していくような感覚にハルは陥る。深く息を吸い、長めの瞬きをした。
「彼女を悪く云いたいわけじゃない。知りたいんだ」
「・・・仕方ないだろ。あいつは仕事が好きだし、頼りにされてるんだから」
「だって、そんなの本当かどうか分からない。仕事だの出張だのって云っておいて、他の誰かと寝てるかも」
「お前、喧嘩売ってるのか?」
「違う。頼むから教えてよ。殴ってもいいけど、答えを聞かせて欲しい」
冗談で訊いてるのではないと伝わったのか、殴られることはなかった。アールは答えた。
「それが一時の迷いなら、そんな簡単にあいつと別れるつもりはない。第一、俺が今お前と何をしてたか考えてみろ」
「お互い様だから許せるってこと?でも、もし気の迷いじゃなくて彼女が本気だったら?最初は遊びのつもりでも、そのうちに気が変わることがあったら?」
「別れてやる」
何の迷いもなくきっぱりとアールは云った。
「俺は俺なりに本気でナコを愛してるつもりだ。だから離れた方があいつが幸せになれるっていうならそうしてやる」
「それが愛?何をされても許すことが?」
「違う。理解しようとすることだ」
ハルは項垂れた。先程アールに投げて寄越してこられたシャツを膝の上で握り締めていた。
「人のことなんか理解できるわけないだろ?」
「当たり前だ。俺は理解しろって云ってるわけじゃない。理解しようとする姿勢が大事だって云ってるんだ。むしろ、相手のこと全部分かったつもりになってる奴ほど手に負えないものはない。俺にはナコの云ってること全部が嘘か本当かなんて分からない。けど、信じようって決めてる。あいつの立場や抱えてるものを分かってやりたいと思ってる」
ハルはふっと笑った。
「そこまで彼女が好きなら、何でお前はこんなことしてるんだよ?寂しさに耐えられないからだろ?愛を維持するために相手を裏切るなんて矛盾してる」
「そうだな。けど俺は体の関係以上のことには絶対ならない。たとえお前と何千回セックスしたってお前を愛したりはしない」
流石にこの発言は後味が悪かったのか、アールの顔にほんの僅かな後悔の色が垣間見えた。
「・・・週に一回。何があってもそれ以上は会わないのは情を移さないためだ。それに、お前は単に怖がって誰も愛してこなかっただけで、寂しさから人を利用してるのは俺と一緒だろ」
確かにそうだった。大体、どの立場で自分はものを云っているんだろうとハルも思った。
「確かに、俺は遠くにある真実の愛だけで生きていけるほど強くはない。ナコはそれを知ってる」
アールはキャビネットから離れ、テーブルにあった灰皿に灰を落としに行った。
「だからあいつは、何も知らないふりをしてくれた」
「・・・何を?」
「お前みたいな相手がいることだよ」
ハルは息を呑んだ。
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