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第67話

「知ってたのか?彼女」 「正確にはお前じゃなくて、別の遊び相手のことだけどな。スーズの前に、火曜日に来てた女だ」 そこでハルは初めてアールが付き合っていた他のセックスフレンドの話を聞いた。 厄介な女だった。 最初はそれと知らずに付き合った。用心深い、物分かりのいい女だと思っていた。関係を繰り返しても交際を迫ることもなく、服や下着、化粧品など持ち物の管理もしっかりと行い、使用済のコンドームや自分の髪の毛をビニールにまとめ、きっちり持ち帰る女だった。火曜日の夜に寝るだけの関係だと約束したはずだった。だから油断していた。 アールの恋人は泊まりに来た朝、いつも早くに出勤する。きれい好きで、ごみの収集日に当たるといつもごみ出しを進んでやってくれるのだが、いつだったか、彼女がごみをまとめた後で、アールがもう一度その袋を開いたことがあった。朝食作りの際に出た生ごみをそこへ入れてしまおうと思ったのだ。そして縛ってある結び目を解いたところ、使用済みの丸めた生理ナプキンのごみがまとまって出てきた。 アールの恋人がこの部屋に来るのは一週間ぶりで、彼女とは前の晩に愛を確かめ合っていた。生理中であればいつもセックスを断る。しかも彼女がこの部屋を訪れたのは昨晩なのにどう考えても使用済生理用品の量が多い。 前回のごみ出しは三日前だ。このごみはどこから出てきたものだろう。よく見ると明らかに恋人のものではない色のマニキュアを塗った爪と、更に化粧品の欠片がごみの一番中に混在していた。 アールが自宅に連れ込んでいる女は恋人の他に、もう一人しかいない。 遊び相手の女は確かにアールと過ごした日、自分で出したごみを全て持ち帰っていたが、その代わりに自宅から持って来たごみをアールの家に持ち込んでいたのだ。 後日、問い詰めるとわざとやったとあっさりと女は白状した。開き直った様子で、自分が出したごみの一部を、アールの部屋にあるごみ箱の底の方に忍ばせていたのだと答えた。気づくのが遅いと嗤われたという。 「笑える。ごみ箱のチェックなんて基本中の基本じゃない。浮気相手を出入りさせてる割に警戒心が薄いのね。私みたいな相手の行動は警戒しなきゃ。彼女、もう随分前から気づいてるんじゃない ?」 何故そんなことをしたのかというアールの問いにその女は、 「ゲームみたいなものよ。どこで気づくかってね。それに、どうせあんたみたいな外国人はこの国の女がほいほいついて来るって甘く見てるんでしょ。寝た後になって、恋人がいるけどそれでもいいか、って何?舐めてるでしょ」 元々精神的に破綻を来した女だったのか、アールと交際を重ねる中で狂っていったのか、それは分からない。手を切った途端、女はストーカーになった。 「・・・その後は?」 「何もない。その日は俺がもう一度縛り直したごみ袋を持って、ナコは何事もなかったように出て行ってたよ。もしかしたら前もそういうことがあったのかも知れない。いつから気づいてたのか分からない。未だに何も訊けてない」 「じゃあその、問題の女の方は?」 「しばらく家の周りをうろついてたよ」 これまで持ち帰った使用済のコンドームもその女は捨てずにため込んでいたらしい。狂愛の手紙とごみが交互に投函される日々が続いた。尾行られるのはしょっちゅうで、洗濯物を盗られたこともあるという。わざわざ雨の日の翌日に一目で女物だと分かる傘を玄関の前に置いて行かれたりもした。 「ある時、玄関を開けてナコを出迎えたら後ろにその女がいたんだよ。流石にぞっとした。度が過ぎてると思って後日、うちの周りをうろついてるのを見計らって警察を呼んだよ。それ以来、来なくなった」 あのライラックの傘はもしかするとその女が置いて行ったものだったのではないか。ハルの頭にあの鮮やかな花柄が浮かび上がった。 「その女のことには何も触れずに結婚を申し込んだ。はっきり云って、俺は罪滅ぼしを早くしたかったんだと思う」 アールは表情を隠すようにグラスを呷った。 「・・・あいつ、半分泣いて半分笑って、死んじゃいそう、だなんて云うから」 いとしい人と手を取り合えた時、死んでもいい、と人は思うのだろうか。それとも、相手のために一日でも長く共に生きようとうち震えるのだろうか。ハルは知らない。この歳になっても、身勝手に恋をすることしか知らない。 「・・・でも、いつかその恋人に裏切られるかも。お前がしたことに、本当に全部気づいていて今も根に持ってたら」 「もしそうなった時はその罰を受けるしかないだろ」 アールはホットワインを作っているようだった。おずおずとハルがキッチンに行くと、アールはシナモンをかけたホットワインを二人分作ってくれた。 「裏切られるのが怖いなら一人で生きるしかない。完璧な愛情なんかもらえない。お前だって完璧な愛情を相手に与えられない。でも永遠に努力し続けることだ。それができるうちは、そいつのことを愛してるって云えると思う」 この場に不似合いな、低く鈍い音が二人の間で響いた。音の主はハルだった。実は空腹だった。今日は今の今までそれを感じることなく過ごしていた。 「・・・昼以降何にも食べてなくて」 アールは脱力した様子で再度、冷蔵庫を開けた。そこからタッパーを一つ取り出し、次に冷凍庫を開けた。ハルは酒で使う氷を手前から出すぐらいで、あまり庫内の奥を見ることはない。アールは上段トレーをスライドさせて下からまた別のタッパーを取り出した。ちらっと見えただけだが、庫内はきれいに整頓されていた。アールが取り出したものと同じ容器が、庫内にはまだたくさんあった。 「それ何?」 アールは何も云わずにタッパーの一つを電子レンジに入れ、ハルにテーブルにつくよう促した。 少ししてからハルの眼の前に美味しそうなビーフシチューとサラダが出された。 美味しかった。人の手がかけられているのを感じた。 アールの彼女が作り置きしておいた料理だとすぐに分かった。 「彼女、料理巧いんだな」 「料理だけじゃなくて家事全般できる女だよ」 アールは食事をするハルの向かいに坐り、先程のワインを呑み続けていた。 料理がとても美味しかったので、思わず夢中で食べ進んでしまい、ハルは食事中ずっと口を利かなかった。 そしてハルはこの時初めて、料理には人柄が出るということを知った。 料理を食べている間、ハルにはずっと自分がこれを食べてしまっていいのだろうかという迷いが最初あった。けれどせっかく用意してもらったのだからと一口、また一口と食べているうちに、ナコという女の明るさをしみじみと感じた。トマトベースのビーフシチューは濃厚だが何となくさっぱりした後味もあった。話しやすくて素直で、しっかり者の髪を短く切り揃えた女が見えるようだった。ああ、彼女は強い人だ、と思ったのは料理のスパイスの所為だろうか。食べ終わる頃には会ったこともない彼女に好感が持てそうな気持ちにすらなっていた。 「ありがとう。とっても美味しかった」 ハルはそう云って皿を片付けようとした。 「俺もお前に訊きたいことがあった」 ハルは手を止め、席についたままアールを見た。 「前に、俺とこうやって会ってたこと、後悔してないって云ったよな。何でだ?」 食後の唐突な質問に、ハルはすぐには口が利けなかった。温くなったワインを呑み口を拭う。 「マゾだからか?」 アールの端的な質問にハルは噴き出した。 「確かに、それもあるかも知れない。でも俺はお前が好きだったから」 云いながらアールと初めて会った頃のことを思い出す。何だか懐かしかった。 「会ったばかりの時、俺の声とか眼を好きだって云ってくれただろ。・・・お前は憶えてないかも知れないけど。それから、俺と寝るようになってからもたまに好きだって云ってくれた。気紛れに餌を与えるみたいに。その頃にはお前が本気で云ってるんじゃないってことぐらい分かってたよ。ただ自分の云うことを聞かせたいだけだって」 ワインはハルの喉に余熱を残して通り過ぎていく。 「分かってても嬉しかった。誰かに好きだなんて云われたことなかったから」 それからアールを見上げた。 「お前といる時は寂しくなかった。一度も。だから逃げなかった」 誤魔化しだったとしても、痛みを伴っても、アールといることで乗り越えられてきた夜がある。だからどんな時も彼を恨むなんてことはできなかった。 「お前、楽な恋愛はできないな。苦労するぞ」 「そうかなあ」 アールはハルが片付けようとまとめた皿を受け取り、キッチンの流しへ持って行った。何となくハルは猫のようにアールの後ろをついていった。 「なあ、こんな俺でもいつか誰かとずっと一緒にいられるようになると思う?」 「だから云っただろ。そいつといるために努力しろ。それ以外にない。何もしないでただ愛されようって云うなら、それは虫が良すぎる」 シンクに食器を置き、水で汚れを流しながらアールは続けて云った。 「そうだな、もしお前と、もっと前に出会ってたら」 アールは確かにそう云いかけた。水の音に紛れていてもハルにはその言葉が聞こえていた。 だが続きはなかった。何かに気づいたようにアールの視線がほんの僅かに動いた。そして何事もなかったように黙り込み、水を止めてテーブルへ戻った。 「そう云えばお前、料理だけはしたことないな」 アールは批判するわけでもなく、少し笑って云った。話題を変えたかったのかも知れない。 「作れって云われたこともないけど」 「云われなきゃやらないのか」 「余計なことするなって云うくせに」 「好きじゃないんだろ、作るの」 「分かってるじゃん。俺にできるのは食べた皿をきれいに洗うことだけ」 「俺も料理はしない。でも珈琲だけにはこだわってる」 ハルはアールが初めて淹れてくれた珈琲のことを憶えている。 初めての夜が明けた朝、ただ一度だけアールはハルと共に起きてきた。 前の晩の償いのように眼の前に置かれた珈琲はいい色をしていた。深い味わいがあって、何故だか仄かな甘みを感じた。 「飲みたいな」 「珈琲か?残念だな。今は豆を切らしてる」 「云えば買って来たのに」 ハルがそう云うとアールは初めて本物らしい笑顔を見せた。それは自身の美しさを利用していない、不意に宿った不器用な笑みだった。 「また今度淹れてやる」 だがそれきり、アールと会うことはなかった。 翌週の水曜は大晦日で、語学教室は休みだった。 年明け、最初の水曜日にハルは授業の予約を入れていた。だが、アールは来なかった。たまに廊下で顔を合わせる感じのいい男性講師がその日の担当だった。 帰り際、それとなく受付の女性スタッフにアールのことを訊ねると、年末のレッスンを最後に退職したと云う。 言葉が出なかった。 「退職?」 「はい・・・え、ご存知なかったんですか?」 「・・・じゃあ、もう来ないってことですか?」 受付の女性は、後方のデスクで作業をしている事務担当の女性の方を振り返り、眼を合わせた。話の内容が聞こえていたらしく、事務の女性はすぐに立ち上がって受付カウンターまでやって来た。 そしてアールの契約が先月末で終わっていることを教えてくれた。 「ハルさんは体験レッスンの際も、彼がレベルチェックの担当だったんですよね。てっきり挨拶ぐらいはしているものだと」 ああ、今日がその日だったか。 いつか会えなくなるのだろうとは思ってはいたけれど、一言ぐらいあると期待していた。やっぱり、最後の最後まで彼は傷つけてくれた。 立ち尽くす自分を、受付のスタッフ達がどう思ったかハルには分からない。不自然なほど落胆した印象を与えてしまったのかも知れない。 「彼と連絡をとることがもしかしたらまだあるかも知れません。そうしたらハルさんが残念がってらしたって、伝えておきます」 「連絡先、分かるんですか?」 切迫した様子でそう訊ねてきたハルに、二人の女性はどちらも若干怯んだ表情を見せた。 「すみません、本社の方では緊急時のために連絡先は把握しているかとは思うんですけど、その、個人情報なので、生徒の皆さんにお教えすることはできないんです」 女性達の表情を見て、ハルは我に返った。一度深く俯きそれから営業用の笑顔を引っ張り出して、軽く呻くような声を出した。英語のDVDをいくつも借りているのだと云った。返す約束だったのに忘れたまま帰国しちゃったんだな、などと真っ赤な嘘を云ってみせると彼女達の顔色が明るさを取り戻し始めた。きっともらっちゃっていいんだと思いますよ、と返され、その場の和やかな空気をすっかり取り戻してからハルはその場を立ち去った。 その足でアールが住んでいたフラットに行ってみた。通い慣れた部屋は雨戸が閉め切られ、扉の郵便受けにはチラシが何枚か挟まっていたが、人が住んでいる気配はない。もともと表札は出していなかった。 いつも来ていた時間よりは早かったが、フラットそのものは去年までと何も変わっていない。鬱金桜の樹は相変わらず我関せずといった風に闇に溶け込んでいる。駅からここまでの道程の中でも、これまでと変わったところなど何一つなかった。 インターフォンを押して待ってみる。少し間を置いて、もう一度押した。 ここへ歩いて来る時、既に反対側にあるこの部屋の雨戸が固く閉ざされているのをハルは眼にしていた。 この扉の向こうが見たかった。アールはまだここにいて、今はただ、死んだようにあの寝台で眠っているだけなのかも知れない。 あの煙草の匂いの浸み込んだローテーブルも、手動の珈琲ミルも、酒と彼女の作り置きの料理が詰め込まれた冷蔵庫も。 けれど決してそんなはずがないことは分かっていた。 最後に彼とキスをしたのはいつだったか思い返してみる。でも同時に忘れなければとも思った。 今でもアールのことを思い出す時、彼と出会ったのは四月の半ばだったのに、いつも晩秋から冬にかけての光景が真っ先に浮かんでくる。彼が幸せであればいいと思う。もしかしたら何処かでまた会うことがあるかも知れない。 けれどこの時は、たった一言、別れを云わせてくれなかった彼を、何より、何一つ具体的なことを聞こうとしなかった不甲斐ない自分を憎んだ。 そしてもう二度と、誰ともこんな別れ方はしない、決してさせないと誓った。

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