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第68話
スーズに云われた通り、ハルは郵便でピンバッジを返すことにした。どうしても最後のところで電話をかける勇気が出なかった。電話に出てもらえたとしても、今の自分はスーズと何を話していいのか分からない。このまま一度も会わずに彼と別れてはいけないと思うのだが、アールがいなくなって間もない今、下手に会えばこの前の二の舞になることは分かっていた。
とにかく彼の大事なものだけでも返してやらなければという思いで、バッジを包んで郵便局に持って行った。書留を選んだのは追跡サービスでスーズの手許に戻っていることが確認できるだけでも、自分にとってはささやかな救いになると思ったからだ。物を一つ入れただけではあまりにも寂しすぎたので、ハルは手紙を入れることにした。それに何より、封筒のこの空間を埋める手紙を書くことが自分とスーズを繋ぎとめる最後のチャンスのような気がした。
あれから色々考えたけれど、やはりスーズの選択が正しかったと思う。スーズならきっと許してくれる。ハルは、もしまだ間に合うのなら自分を友達にして欲しいと手紙に綴った。
本心ではなかったけれど。
スーズの云うことは頭では理解できた。けれど人は賭けに出なければならない時もある。生死に保険はかけられても、人生に保険はかけられない。情動にブレーキをかけ続けたって穴には落ちる時は落ちてしまう。そして戻れない。その穴からは甘い蜜が絶えず沁み出していて、人の心を絡め取る。
ハルはあの時、たとえたった一度でも結ばれたかった。本気だった。たった一度きりのチャンスを、これまで自分は幾度となく逃してきたから。そしてそれを逃せば二度とその機会は訪れないことを知っているから。
体は感情を裏切るものであることをハルは随分前に学んだ。
スーズに対する思いとは裏腹に、持て余した体は行き場を求めた。
アールがいなくなってからあれほど嫌がっていたユニとの逢瀬にハルはずぶずぶとのめり込んだ。これまでからは考えられないほどの頻度で彼と夜を過ごした。
最初、ハルは他のことで気を紛らわそうとしたが酒も仕事もハルを救ってはくれなかった。以前のように忙しければ良かったのだが、退職届を取り下げなかったハルはもう社内ではほとんど責任のある仕事をしておらず、業務の大半がユニやその他の社員への引き継ぎ作業だった。出張も休日出勤もほぼなくなり、躍起にならずとも定時に帰ることができるようになった。だがたとえ、定時に帰ることができても、もう語学教室でアールのレッスンを受けることはないのだ。酒の量は日に日に増え、眠りも浅くなった。夜中や朝方に眼が醒めると、胸が苦しくて死にそうだった。
今、交信できるのはユニしかいなかった。
ハルに応じる気があると分かると、ユニはいくらでも求めてきた。けれどアールの代わりを求めて飛び込んだはずの男の腕の中でハルの瞼に必ず思い浮かぶのは、一度も肌を合わせた経験のないスーズのことだった。
ある夜、ハルは寒さを堪えて残業しているユニをずっと会社の外で待っていた。すぐ下のコンビニで珈琲と使い捨て懐炉を一つ買って正面玄関前のベンチに坐っていた。する仕事もないのにただデスクに坐って残業代を稼ごうとしているなどと思われるのは気詰まりだったので外へ出ている方が気が楽だった。上司も課の同僚ももうほとんどハルとは碌に口も利いてくれない。今も変わらないのはユニとブランだけだった。
終業時刻を一時間近く過ぎたところでユニは出て来た。彼は外でハルと顔を合わせた瞬間、滅多に見せない驚きの反応を示した。そしてほんの少し足早に近づいて来ると、無言のままハルの顔を見つめた。
ユニとは昨晩、近くのホテルで抱き合ったばかりだった。摩擦の熱が体の奥深くに火を宿すのではないかと思うほど、激しく彼はハルの中で侵食を繰り返した。ハルは自分の内側が剥がれ落ちて溶けていく錯覚を見た。それなのにその翌日、こうして待ち続ける必死さを彼はどう思っただろうか。自分は少し神経がおかしくなっているのかも知れない。
ユニに見つめられていたのは時間にして数秒だった。意味のある視線だと分かる。ハルの口から吐息が漏れる。彼の琥珀色の眼に焼かれそうだった。時々、ハルはユニの放つシグナルが分からなくなる。彼はたまに途中から違う言葉を遣って交信をし始める。それはきっとすごく大事なことを訴えかけているに違いないのだけれど、ハルには分からない。そしてユニの眼の奥に湛えられている熱に耐えられなくなっていつも先に眼を逸らす。
この時もそうだった。ユニは交信を中断したハルの肩を軽く押し、いつもとは違う道へハルを誘 った。
着いたのはきれいなコンドミニアムだった。駅からも徒歩五分という好立地で、部屋の面積もハルの住んでいるフラットの倍近くあった。そこがユニの自宅だった。彼はそこに一人で住んでいた。
賃貸なのかと訊くと、分譲だと云う。どうやったら自分達の給料でこんな部屋が買えるのかハルは訝しく思ったが、あれこれ詮索して彼の機嫌を損ねるような真似はしたくなかった。もう自分にはこの男しかいないのだ。
玄関を入ると真っ直ぐな廊下の奥に、バルコニーに面した十二畳ほどのリビングがあった。その脇に、スライドドアを挟んだ別室があるのが分かったが、そのドアはきっちりと閉ざされていた。
ハルはシャワーを借りた後、入れ替わりでユニがバスルームへと姿を消している隙に、その部屋を覗いてみた。閉ざされた空間には、クイーンサイズのローベッドとヘッドボードに置かれた赤いステンドグラスのランプ、そして備え付けのクローゼットがあるだけだった。ひんやりとした空気が顔にあたる。五畳ほどの空間だった。部屋に対して寝台が大きいことにハルは少し違和感を覚えた。
その後も室内に眼を凝らしていると、唐突に首筋のあたりに触れられてハルはびっくりしてその部分を押さえながら振り返った。何だか湿っぽい。同時にふわりと優しい香りがハルの周囲に広がった。どうやら香水を塗りつけられたらしい。爽やかで明るい香りだったが、これはハルが普段つけている香りでも、ユニのそれでもない。
何をするのかと云いかけたハルをユニは眼の前の暗い部屋へ押し込んだ。
ハルは脱衣所に用意されていたベージュのバスローブを裸身に羽織っていた。シャワーを終えて出て来た時、先程脱いだハルの服はユニによって脱衣所の外へ持ち出されていたため、そこにあったバスローブを着るしかなかったのだ。
ユニは、夜目の利かないハルの体を広い寝台に横たえてバスローブを捲り上げ、太腿の間に口づけをし始めた。舌先が当たる。思いもよらないことをされて、と云うよりは単純にくすぐったさでハルは身を捩った。うっかり声を漏らしそうになったが何とか堪えていると、顔の横の髪を撫でられ、頬に触れられ、肩のあたりに顔を埋められて深く息を吸う音が聞こえた。
何だろう、とハルは思った。いつものユニと違う。いつもはこんな風に始まらない。ユニの手つきは異様に優しかった。香水をつけた箇所を探し当てるかのように彼の鼻先が首や肩のあたりに当たり、その流れで口唇が重なった。唾液を混ぜ合う、劣情を引き出すようなキスが常だったのに、今日のそれはいつもよりずっと控えめだった。ハルは熱をもってそれに応えてみたが、相手の反応にいつもの性急さは戻らない。
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