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第69話

ハルは、やめて欲しい、と思った。 まるで恋人にするような手つきがハルの中に拒絶を生んだ。 だが今日、縋りつくように彼を待っていたのは自分の方なのだ。そう思い止まったハルは、しばらくじっと耐えて相手の好きにさせていた。ユニはスライドドアを一分の隙間もなく閉めてしまったので、室内は真っ暗だった。ユニとてほとんど手探り状態に違いない。 これまでハルはユニと寝台を共にする時、どんなセックスにも応じてきた。情欲に駆られてだとか、ましてやユニを満足させたいとかそういった感情からではない。嫌がる素振りを見せると容赦なく殴る蹴るといった暴行に晒されるからだ。 アールも大概暴力的な男だったと思うが彼は手を出してくる時、くっと表情が変わるので、ハルとしても殴られる準備というものができる。ユニの拳は不意に飛んでくる。顔色一つ変えず眉一つ動かさずこの男は人を痛めつける。躊躇いや罪悪感を微塵も感じていない様子を見ると、限度も知らないのではないかと思われる。だからハルはたまに外で彼に逆らうことはあっても、基本的に寝台の上では大人しくしていた。 だがこの男の暴力には耐えられても、愛撫には耐えられない。自分でも不思議だった。前日とは打って変わって、いつまで経っても自分の領域に侵入してくる気配のないユニから、遂にハルは顔を背けた。 「嫌だ」 ハルは初めて寝台の上でユニに向かって口を利いた。 「嫌なんだよ。お前にそういう風にされたくない」 ユニが一瞬呼吸を止めたのが分かった。ハルは手を伸ばして枕元のランプを点けた。 こんなことを今夜ずっと続けるつもりならここを出て行こうと思っていた。これまでただの一度たりともこんなことをされたことはなかったのに。 こんな風にされたら、明日からユニを憎めなくなってしまう。ずっとこの男の体を利用するだけのつもりだったのに、それだけでは済まなくなってしまう。 単純としか云いようがないが、ハルがユニからの愛撫を嫌がる理由はそれだった。 以前、アールが愛し合う真似事として試みてくれた遊び半分の愛撫に、ハルの心はアイスクリームのように溶けてしまった。けれどもちろん、アールにとっては気紛れに過ぎない。愛撫してくれたその手で突き放され、乱暴に扱われることには耐えがたいものがあった。本気にしてしまった自分が惨めだった。本当は軽く撫でられるだけでも自分の心は容易く動いてしまう。 自分を傷つけたこの男に、心まで奪われたくはない。 それハルは、ユニが気紛れだけでこんなことをしているわけではないと分かっていた。 この男の中に潜む心の闇に、ハルは気づいていた。 自分は身代わりにされている。 お前が欲しいのは俺じゃない。お前が愛撫したいのはこの体じゃないだろ。 「お前、昔ここで、誰かと住んでたのか?」 ユニの視線が凍りついた。 寝台だけでなく、食器棚や冷蔵庫のサイズを見ても、彼が以前ここで誰かと暮らしていたことは明らかだった。単に空間にゆとりがあるから大きい家具を選んだわけではない気がする。そもそもこの部屋も、ずっと誰かと住むつもりで買ったのかも知れない。若い男一人には広すぎる。加えてユニ一人では選びそうもない色のソファやラグ、不自然にスペースの空いた本棚やオーディオラック、玄関の備え付けの靴箱の上に置かれた、使い込まれたスペアキー。それらがかつてここに別の人間がいた気配を醸し出していた。 ハルは今、ユニが身に着けているものと全く同じバスローブを借りて着ている。もちろん一人でも気に入ったものを二つ買うことはままあるが、ハルは単純にそう思えなかった。他にも自分は見てしまったものがある。脱衣所にあった埃のかぶった歯ブラシとユニと色違いのカップ、そして黄ばんで外枠が錆びかけた香水瓶。いや、本当はその前。この部屋に足を踏み入れた瞬間から気づいていた。靴箱の上のスペアキーを眼にした時、それにはユニが使っていた鍵と同素材の革のキーホルダー、そして細いシルバーの指輪が一緒につけられていた。使い込まれていた。それこそが、ユニの孤独の証だった。 以前、ユニは誰かと一緒にこの広い寝台を満たしていた時があったのではないか。 もうここへ戻って来ることのない誰かのことを、今もこの男はひたすら待ち続けているのではないか。 きっと今自分を包んでいるこの優しい、明るい香水を纏っていたのは、その相手に違いない。 考えれば考えるほど、ハルは胸が潰れそうになった。 この部屋でユニに愛撫されるのは殴られるより痛かった。 そんなことには気づかないほど鈍感でいられれば、あるいは無視できるほど冷たくなれたらどれほど楽だっただろう。 口を利いたことで即殴られるつもりでいたのに、ユニからの反応はなかった。躊躇いがちに彼の方を見上げると、赤いランプの光に照らされた薄闇の中で相手の表情がハルにははっきりと見えた。瞬時に自分が取り返しのつかないことをしてしまったのだと感じた。この先、自分はこの時の彼の表情を忘れることはないだろう。 ユニは傷ついていた。こんな表情をこの男がするとは思わなかった。無垢な少年を心ない言葉で傷つけてしまった時のようにハルの心は痛んだ。 スーズの時もそうだった。短い一言でも、それが確実に相手の傷口に触れてしまう時がある。 思わずユニの名前を呼びかけそうになったその時、 「・・・何喋ってんだよ」 と低く呻くような声が聞こえた。直後に首を絞められて、ユニが正気に戻ったことに気づいた。容易には離してくれず、気道が圧迫されて本当に死ぬかと思った。ユニは噎せているハルの体を手荒に転がすと、圧しかかる形で拘束してきた。頭を押さえつけながらわざと髪を指に絡めて痛むように引っ張ってくる。背中を拳か肘のどちらかで打たれた。そして今度は何の躊躇いもなくハルの中に入り込もうとしてきた。 用があるのは体だけだ。意思を持って喋る必要などない。誰にも何も話さない。理解してもらいたいなどと端から思っていない。ユニの手つきはそう云っているように思えた。 そうか、それがお前の孤独の形か。 ハルは体に刻み込まれる痛みを、無知な自分への罰だと思うことにした。 誰かを待ち続ける孤独というものをハルは知らない。 恋人と暮らしたことのない自分には、良い時も悪い時も誰かと生活を共にする苦楽が分からない。触れられる肌がすぐそこにある喜びも、日常の些細な喧嘩も、相手の匂いがそこここに残る部屋で別れた後も暮らさなければいけない苦しみも知らない。 自分の方が歳上なのにも関わらず、この男の懊悩に答えを出してやれないことがハルを無力感に突き落とした。

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