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第70話

ユニは今度は確実に快楽を得るために、一度性器を引き抜き、ローションを取り出してきた。 温く粘液に近いものが後孔周辺に垂らされる。無言で体を押され、今度は正面を向けと命令されているのが分かった。 たった今無理に性器を押し込まれた所為で、既に火搔を差し入れられたかのように後孔が熱い。痛みを体の奥へしまい込みつつ息を整え、ハルは仰向けになった。 そして自分の上に覆い被さろうとしてきたユニを、ハルはすかさず抱き締めた。初めてだった。これまでこの男を抱き締めたことなど一度もなかった。 一瞬でユニの肩が硬直した。 途惑いに充ちた間を挟んだ直後、ユニはハルから体を離し、逃げるように寝台を下りた。その場に立ち尽くし、何が起きたか分からないといった様子で、ハルを見ている。ぼんやりとした赤い光に照らされたその表情に苛立ちは込められておらず、ただ、何のつもりかと云いたげだった。その眼はハルの意図を探ろうと注意深く動いている。警戒心を露わにした子供のようだった。ハルは突然、その表情に誰にも省みられることのない粗暴な少年の影を見た気がした。一人ぼっちの子供を見過ごせないのが自分の性だ。 ハルはランプの燈を消した。夜目が利かないため、瞼を閉じていても開いていても視界には同様の暗闇が広がっている。ハルはその中で自分の輪郭が溶けて失われていく様を想像した。そして項につけられた香りだけを頼りに、会ったこともない誰かの輪郭を作り上げようと試みた。 たった一度だけ。この男の孤独にたった一度だけ、ハルは寄り添ってやるつもりだった。 手探りでもう一度自分からユニに触れてみる。なるべく刺激しないように、安全な場所へ(いざな)うように、そっとその手首を掴んだ。親指の腹で掌を撫でるように擦ってみる。 その瞬間、ひゅっと息を呑むような微かな音が暗闇に溶けた。後から思えばこれがユニの中で何かが切り替わる瞬間だったのかも知れない。 今度は体に触れたことを拒絶はされなかった。 それどころかユニは、矢庭にハルの全身を絡め取ろうとしてきた。それはまるでたった今、最愛の恋人に再び巡り合ったかのような必死さに満ち溢れていた。感情が追いつかないのか、震えている。先程のような緩やかな錯乱の始まりではなかった。ハルが暗闇で働きかけたことで、今度は確信をもってそのスイッチが入ってしまったようだった。 間を置かずに、情熱的で実直なキスが何度もハルの顔に下りてきた。 ずっとずっと待っていた。ずっとずっとこうしたかった。 触れ合った口唇から、顔を撫でる指先から、その熱情が伝わってきた。 ハルは自分の肉体を薄い弾力性のあるゼリーの膜が包み込んでいる様を想像した。自分じゃない。このキスもこの愛撫も全て、自分ではない他の誰かに捧げられるものだ。 どうして演技をしたのか。この男を憐れんでいたというのもある。けれど、こんな清純な狂気を眼の前にして、その期待に応えられない人間がいるだろうか。痛々しいほどに愛情を求め、渇ききっている男を振りきる術をハルは知らない。 堰をきったようなキスの嵐を降らせたユニは、その夜、手指と吐息と舌を使って彼の持ち得る最高の性技で、初めてハルを天国へ連れて行ってくれた。指を絡め足を絡め、項を咬み肩を咬み、胸の先端を舌先で丹念にしゃぶり尽くしてから、ハルの下の性器を口に含んだ。その状態で後孔に指が入り込んできた時、ハルは我を忘れそうになった。 これまでの力任せの乱暴なセックスとは違い、ユニは熱心で器用な動きでハルの官能を絶えず刺激した。何度も高みに連れていかれ、不意に墜落させられてまた抱きとめられて、彼の舌によってハルの体は熱をもってまた快楽に浮いた。 ユニの孤独は揺らめく火のようだった。不安定で熱い。奪うだけだったこの男が、今はひたすらに与えてきた。与えなければ今の彼は燃え尽きてしまうのかも知れない。 相手の熱に感化されたハルは、いつの間にか施される愛撫に応じられるようになっていた。これは愛の真似事だ。この男の心ゆくまで恋人役を演じてやるつもりだった。だが、思わず欲情に突き動かされて気が遠くなる瞬間も度々あった。気持ちいいのと切ないのとで啜り泣きがどうにも止まらず、苦しかった。時々漏れてしまう声は多分ユニには聞こえていなかったか、耳から脳に伝わるまでにいとしい恋人の声に置き換えられていたのだと思う。 これほど熱心に愛していたというのに、お前の恋人は何処へ行ってしまったんだ? 一体どんな理不尽な出来事が、お前の片割れを奪い去っていったんだ? 思えば自分は、いつも誰かを待っている男と巡り合う。 ハルはここにきて、スーズが恐れていたことが分かった気がした。 愛は麻薬のようなものなのかも知れない。 どんな時も支え合って数えきれないほどセックスをして。ずっと愛はここにあると思っていたのに、唐突に別れがやって来たら。もしも相手から裏切られるようなことがあったら。 もしかしたら誰でも、ユニのようになってしまうのかも知れない。 たった一人を忘れられないまま孤独に夜を過ごし続けた成れの果て。 とっくに壊れてしまった絶望的な恋の残骸と無情な時の流れを受け入れられずに生きているうちに、体にぽっかりとあいた空洞と静寂の所為で、彼の中身は少しずつ歪んでしまったのかも知れない。きっと自分が去っても、また新しい誰かの中に、かつての恋人の面影を探しながら彼は生きていくのだろう。 トラックが通り過ぎる音で眼が醒めた。 知らないうちに寝入ってしまったことにハルは気づいた。寝台の下に落ちていた自分の腕時計を見やると、午前四時半を過ぎたところだった。始発は動いている時間だが、今から自分のフラットへ帰るのは億劫だった。隣を見ずともまだユニがそこにいる気配は感じた。起き出すべきか否か、背を向けたまま迷っていると、不意に彼が体を動かしてこちらに寝返りを打つのが分かった。ハルは反対側を向いていたが、反射的に眼を閉じ、眠っているふりをした。掛け布団から出ている肩が寒い。 しばらくして、ユニが体を起こすのが分かった。彼が立ち上がったことで一度寝台が深く軋んだ。服を拾って身につけている衣擦れの音が聞こえる。 それから少し間があった。斜め上あたりからユニの視線を感じる。毛布をかけ直したかったが狸寝入りを決め込んでいるのがばれたらと思うと無闇に体を動かせなかった。 その時、毛布が持ち上げられ、寝台の中にほんの微かに冷気が入り込んできたかと思うと、ハルの肩と背を包むようにもう一度毛布がかけられた。 温かかった。 もしかしたらこれまでホテルで何度となく抱き合った時も、ユニはこうして毛布をかけ直してくれたことがあったのかも知れない。 不意にやりきれないほど胸が熱くなった。 そんな優しさがあるのにどうして、と思う。 人の心は分からない。そして人には気づかないこと、知らないことが多すぎる。 まだ体からは、自分のものではない香水の香りがする。 朝の光に透き通るような、こんな透明感に満ちた香りは自分には似合わない。 香水はだめだ。匂いだけは置いて行ったらいけない。匂いは記憶を呼び出す装置だから、あなたはここを出る時、片付けなくてはいけなかった。 ハルはユニの恋人の幻影に向かって密かに叱責した。 もしかしたらブランに似ているのかも知れない。 この爽やかな香りはきっと彼に似合う。 彼がいる限り、きっとユニも人間らしい心を忘れないでいられる。ハルには、それが唯一の希望のように思えた。

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