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第71話
次の就職先を決める面接と今の会社での最終的な引き継ぎ作業に明け暮れている一月下旬のことだった。その年に入って初めてハルはスーズを顔を合わせた。驚いたのは、スーズは語学教室でもハルの自宅でもなく、あと数日で退職する会社を訪ねて来たのだ。午前中に取引先への挨拶を終えたハルは、正午近くになって会社へ戻って来た。会社入口の正面玄関前には細い樹木が数本低木を挟んで植えられ、その付近に木製のベンチが設置されている。そこにスーズが坐っていた。
「お前、何やってる?」
当惑して思わず叫ぶように声をかけたハルに対し、スーズは慌てる様子もなく落ち着き払った様子で立ち上がった。
「こんにちは」
「こんにちはじゃない。何でこんなところにいる?」
「以前、名刺を頂きました。そこにここの所在地が載っていたので」
ハルは以前、駅で自分がうっかり落とした名刺をこの男が拾っていたことを思い出した。
「だからって何で来た?平日の真昼間に。連絡ぐらい」
「あなたに会いに来たんです」
その言葉はハルにまともにぶつかって、体の中へ沁み込んだ。
「手紙を送ってくれましたよね。昨日の夕方に受け取りました」
「・・・飾りを返してやらなきゃと思って」
「寝る直前に封を切って正解でした。受け取ってからすぐに開いていたら、昨晩は勉強に手がつかなかった」
それはそうだろうな、とハルが云いかけた時、スーズは言葉を次いだ。
「あなたからの手紙を読んだら居ても立っても居られなくなって」
その言葉はハルにとって予想外だった。結局ハルは大した手紙は書けなかったのだ。便箋一枚にも満たない短く拙い文章だった。読んではもらえるだろうが、やっと手許に戻ってきた親友からの贈り物をどうするか、そのことにこの男の関心は集中するだろうと思っていた。
「あなたの字を見て、どうしても会いたいと思って。でも電話をかけたらあなたは気を遣うだろうし、もし断らたらと思うと・・・すみません、急に来て」
そういう態度が思わせぶりなんだ、とハルは思った。何だかんだ云っても、親友に較べれば自分の存在などこの男の中で片隅に追いやられてしまうと思っていたのに。
「・・・いつ来た?」
「・・・受付であなたの名刺を見せて、身内を装ってあなたを呼び出してもらおうと思ったんですが、外出中だと云われて」
スーズは気を遣っているのか、正確な時間を答えなかった。
ハルはまじまじとスーズを見つめた。頬が赤い。今日の気温は日中のこの時間でも五度もない。ハルが朝一番で会社を出てから戻って来るまでに、三時間は経過している。
ハルの自宅近くの駅から会社最寄駅までは電車で十五分、更に駅から徒歩七、八分で会社には着くが、土地勘のないスーズがすんなり来れたかどうかは分からない。この寒い中彼はどのくらいここにいたんだろう。
「・・・お前、大学は今日」
「ハルさーん」
少し離れたところから聞き慣れた声がして、ハルはスーズの更に後方に顔を向けた。そこにはブランとユニが立っていた。これから二人で昼食に出かけるようだ。
「・・・ブラン」
「戻ってらしてたんですね、お疲れ様です」
ブランは屈託なくハルに近づいて来る。彼が行くところになら、ユニはついて行かなければならない。仕方ないと云った様子でブランの後をついて来た。
ブランはすぐにハルの前に立っていたスーズに気づき、愛想良く挨拶をした。
「こんにちは」
スーズは傍にやって来たブランの方をちらっと見たが、ほんの少し観察するように見ただけで挨拶は返さなかった。
「ハルさんと同じ課で働いてるアイブと云います。いつもハルさんにはお世話になってます」
そう云ってブランは軽く頭を下げたが、相変わらずスーズは黙っていた。何が気に入らないのか、会釈一つ返さず、ブランから完全に顔を背けている。その態度に後ろにいたユニの目つきが鋭くなるのを、ハルは眼の端の方で捉えていた。スーズの失礼な表情を隠すようにハルは間に入った。
「ごめん、従弟だよ」
「あ、そうなんですね。学生さんですか?すごい背高い」
「そうそう、学生。たまたま用事があってこの近くまで来てたみたいでさ」
スーズはハルの咄嗟の嘘については何も反応を示さなかった。
全くブランに反応する気のないスーズと、その態度に気づかないブラン、スーズを後方から睨みつけるユニ。とにかくこの三人を早く引き離した方がいいとハルは焦った。ハルは懐にあった財布から適当に紙幣を取り出すと、ブランの手に押しつけた。
「お前等、昼飯行くんだろ。これで好きなもの食え」
「え?いいですよう、何で急に」
「多分もう、奢ってやることもできなくなるから」
ハルがそう云うと、途端にブランは思いつめたような顔をして紙幣を差し出したハルの手を両手で掴んだ。ハルは失敗したと思った。体よく追い払うつもりが、この単純で情に脆い後輩を揺さぶってしまった。
「だめだめ。こんなの嫌です。ハルさんが有休入る前に呑み行きましょう。送別会しないと」
「・・・送別、って、人なんか来ないから」
「俺とハルさんとユニさんでいいじゃないですか。ね?」
ブランはハルの手を握ったままユニを振り返った。ユニは優しい先輩の顔でにこっと笑い、
「さ、それは後で話そうか。今はほら、邪魔したら悪いよ」
と、ブランを促した。さりげなく上腕を掴んでいる。立ち去る直前、ユニはハルと眼を合わせてきた。そして彼はスーズを一瞥してから、またハルを見た。何か面白いものでも見つけたような、少し意地の悪い表情を見せた後で、ブランの背を押しながらその場を立ち去った。ユニは何かに気づいている。察しの良い後輩に対し、ハルは心の中で悪態をついた。
「あの二人のうちのどちらなんですか?」
スーズはユニとブランを見送った後で云った。
「何が?」
「あなたが寝た相手です」
反射的をハルは周囲を見回し、スーズの腕を引っ張って敷地の外へ出た。会社から離れたところで、再び二人は向かい合った。
「場所を弁えろ。社会的に俺を殺す気か」
その剣幕に少したじろいだ様子を見せたスーズに、ハルは続けざまに云った。
「大体何だ、今の態度。せっかくブランが挨拶してくれてるのに。あれでもお前より歳上なんだぞ。礼儀ってものがあるだろ」
「・・・すみませんでした」
スーズは素直にそう云ったが、何かわだかまったものを消化しきれないといった様子だった。
「そもそも、こんなところに急に来られたって」
「そうですよね。どうかしてたんです。ここに来たって会えるかどうかも分からないのに。仕事の邪魔をしてすみませんでした。もう帰りますから」
「・・・は?もう?」
「あなたの顔が見たかっただけなんです」
怒りが急速に鎮火して脱力感に変わる。そんなことを云われたら、もういい、と即答して今すぐ電車に乗って一緒に帰りたくなる。ハルはあくまで不機嫌を装うつもりだったが、外気に晒され続けた顔で無理をして笑うスーズを見ているとそんなことはできなかった。
そんな風に笑わないでくれと思った。自分がどんなに寂しそうで放っておけない笑顔を見せているのか、分かっていないのか。土地勘もないのにわざわざ自分に会いに来た彼をこのまま追い帰せるわけがなかった。
「昼は食べた?」
ハルは訊ねた。
「まだなら近くで何か食べよう。珈琲でもいいけど。どうする?」
「会社に戻らなくていいんですか?」
スーズは注意深く訊ねた。
「ちょうど昼休憩だからいいよ。このまま行こう」
ハルはいつもより少し価格帯の高いチェーンのカフェに入り、そこで二人分の珈琲とサンドイッチを買って席についた。
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