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第72話
「あんなところにずっといて、寒かっただろ?」
「いいんです。待った甲斐はありましたから」
向かい合ったスーズは笑顔を見せた。先程の不機嫌な態度は鳴りを潜めていた。ハルが珈琲を飲むように促すと、いただきます、と云って彼はマグカップにミルクを注いだ。
「手紙を頂いたことにお礼を云いたかったんです」
珈琲を混ぜていたスプーンを脇に置くと、スーズは暖をとっているのかしばらく両手でカップを包んでいた。
「あなたから手紙を頂けなかったら、私はずっと連絡を取る勇気が持てなかったと思います。飾りを返してくれるだけでも良かったのに、すごく嬉しかった」
「そんなに喜ばれるようなこと書いてないよ」
「・・・いえ、友達になりたいと歩み寄ってくれたので」
それを聞いてハルの胸はずきんと痛んだ。
スーズは真摯な声色で話した後、掌を返して手の甲もカップに当てていた。
「そんなの別に、礼とか云われるほどのことじゃないし」
「手紙っていいですよね。便箋とか封筒とか、かけてくれる手間が嬉しい」
「なら、お前も返事を書いてくれれば済んだんだぞ。忙しいのにわざわざ」
「隠してましたけど実は私、字が下手なんです」
「は?」
「この国の文字は特に。英語みたいに筆記体があればいいんですけど、あなた方が遣う文字は流して書けないので誤魔化しが利かない。あなたに返事を送って幻滅されたら悲しすぎる」
「・・・だったら電話でも」
「もちろんそれだけじゃなく、あなたに直接会いたかったんです」
ハルはもう一度そう云われて、今度は本格的に恥ずかしくなってきた。
「何で会社に来た?家に来ればいいのに」
「ご自宅に伺うとなると夜ですよね。それは一度お断りしたので」
ああそうか、とハルは思った。熱情に駆られてこんな風に思いもよらない行動に及んでも、重要なところでこの男が間違えることはない。
「あの、この前はすみませんでした。乱暴なことをして」
スーズは両手をテーブルの下に下ろし、ハルの眼を見つめてから少し頭を下げた。
「どうしてもあの時のことを直接謝りたかったんです。・・・あの日は、帰国する前に何か良い思い出づくりができればと思って誘ったのに」
ひと月前、この男の前で泣き出しそうになった時のことが鮮明にハルの中で蘇ったが、自分が着ているスーツの生地を見て冷静になった。あの時もスーツを着ていたら、あんな風に感情的にはならなかっただろうか。
「・・・おあいこだろ。俺だってお前を突き飛ばしたことがあった」
「許してくれるんですか?」
「許すとか許さないじゃないって。お互い様なんだから」
それを聞いてスーズはひとまず安心した様子を見せた。
「本気にしないで下さいね。あの時云ったこと」
「え?」
「全部捨てて一緒に来て欲しい、なんて軽々しく云って。私、あの時ちょっと酔ってたんです。学生の私が、あなたの人生に責任なんて持てるわけないのに。子供の我が儘だと思って聞き流して下さい」
嘘だ、とハルは思った。この男は心の奥底にある渇仰を誤魔化そうとしている。眼を見れば分かる。物分かりのいいふりをして、自分の表情を隈なく探っているのが。そうでなかったらわざわざこんな風に会いになんか来ない。
街中で肩などぶつけられても決して喧嘩などしない、常に冷静沈着で慎み深い風を装っておいて、その実、何かの拍子に嵐のような激情がこの男の内面に湧き立つことがあるのかも知れない。諦めきれない、友達なんてやっぱり無理だ、一緒に来て欲しい。もしこの場でそう云われたら、ハルは手紙に書いた、友達という言葉をこの場で撤回してしまうかも知れなかった。
ハルはあの日の夜も、ずっと考えていた。スーズから突きつけられたのは、人生がかかった選択のように思えた。
もしここではない何処かに行けたなら。何もかも捨てて、身一つでスーズについて行けたなら。
きっと何とかなる。あの男が自分を愛してくれたら、何処でだって生きていける気がする。
あの計算のない告白が、ハルの胸に摩擦を起こした。火花が散った。あと少しで心に引火するところだった。けれどあの日、ハルは自宅に帰ってからバスルームに直行し、ひたすらシャワーを浴びてその炎をかき消した。
三十手前の男がこんなことを真剣に考えているなんて、莫迦じゃないのか。
人生がかかった選択?お笑い草だ。
パスポート取得や旅費などの現実的な問題をクリアしたとしても、その後、現地の言葉もできず少し英語をかじっただけの自分が、どうやって生活していくというのだ。
スーズの気持ちは疑っていない。きっと本気だったのだろう。
けれど人はロマンや熱情だけではいきていけない。
そしてスーズは若い。大学出てからの一歳は、それまでとは全く違う。彼はこの先いくらだって変わることができる。いや、世の中を知り、人生の重みが増していけば、変わらざるを得ない。新しく得るものもあれば捨てるものもあるだろう。もし、その捨てるものの中に未来の自分が含まれていたとしたら。
人生の過渡期にある若者と刹那的に付き合うのはきっと楽しいものだ。けれどそこに人生を預けるなら全く話は変わってくる。恋はいつかきっと終わる。ハルは終わらない恋を知らない。結婚が恋愛の最終地点だとするなら、自分達は永遠にそこには辿り着けない。何処か同性愛が認められる遠い異国の住人となって、婚姻届受理という永久手形をもらう以外に方法はない。
自分が歳下ならこの恋愛に対してもっと無責任になれる。何もかも相手の所為にすればいい。捨てられたら悪い歳上に騙されたのだと泣けばいい。同い年なら過ぎ去った時間の価値は平等だ。全てお互い様だと納得して、この先、相手より幸せになってやる、などと負けん気を起こした上で幕引きができるかも知れない。
でも彼より七つも上の自分は、異国の地で歳を重ねて捨てられたらその先どうやって生きていけばいいのだろう。心はとっくに離れてしまっているのに生活のために別れられないような、捨てないで欲しいとみっともなく縋りつくような、そんな自分にはなりたくない。そして逆に彼の人生全てを請け負えるような度量も自分にはない。
スーズは数か月後、自分に捨てられることを恐れているが、自分はもっとずっと後になって彼に捨てられることを恐れている。
自分達の関係は、それぞれの『傷つきたくない』という利己心に負けた。
互いに無茶な責任は負わずに、ただ手を取り合うだけ。それなら友達がいい。それなら永遠が手に入る。
アールが教えてくれた通り、相手を理解しようとした結果だ。あの突き放された夜、スーズが残した去り際の言葉は、彼の切羽詰まった孤独の表れだと、あんなことでも云って人を試さなければ愛を確かめられない寂しさの形なのだと、ハルは考えることにした。
「・・・あそこまで云ってもらえたら嬉しいよ。でも俺もお前もお互い酔ってた。それで終わりにしよう。友達として、会いには行くから。まとまった時間と旅費ができたらすぐにでも旅行しに行く」
「ええ、その時は是非私の住んでるところを案内させて下さい」
食べよう、と云ってハルがアボカドとエビのサンドをスーズの方へ押しやると、スーズは礼を云ってそれを手に取った。
しばらくスーズの大学の話をした。レポート提出が無事終わり、ペーパーテストもほとんど終えたところで、あとは追試やレポートの再提出さえ指示がなければ晴れて自由の身だという。
追試云々はスーズにとっては無縁の話だろうと思いながらポテトを抓んでいると、短い着信音と共にメッセージが届いた。ルイからだった。明日の結婚式の待ち合わせについての確認だった。
「仕事ですか?」
スーズは遠慮がちに訊ねてきた。
「いや、高校の同級生だよ。実は明日結婚式があってさ、会場までこいつと一緒に行こうって約束してて」
「明日ですか」
少しスーズに落胆した間があった。
「そうなんですね。おめでとうございます。会場はこの近くなんですか?」
「うん、S駅からすぐだよ。午前十時からの式だから明日は早起きしなきゃ」
「じゃあ、終わりも早かったりとか?」
「え?」
少し前のめりになったスーズをハルが不思議そうに見返すと、はっとした様子でスーズはサンドイッチの最後の一口を放り込んで、包み紙を丸めた。すかさず珈琲を飲んでいる。
「・・・でも結婚式って参列する方も大変ですよね。朝早くから支度して、沢山の人と会うから気疲れもするでしょうし」
「何だよ?云いたいことがあるならはっきり云え」
「・・・実は、明日の昼一時からのペーパーテストが最後なんです。・・・それでその後は空いてるんですが、またお食事はどうかな、と誘おうと思っていたんです。あの、この前の食事が最後なんて・・・あなたの笑った顔を見てから帰りたかったんです」
「・・・土曜だよ?学校あるの?」
「うちの大学はあります。午前中だけ」
いきなりの誘いにハルは少々混乱してどうでもいいことを訊いてしまった。
「でも・・・どうしよう」
携帯を見ながらハルは悩んだ。心の準備をする間もなくスーズとの次の約束が降って湧いてきて、若干途方に暮れた。
「本当にいいんです。気にしないで下さい」
ハルは少し考えてから笑みを浮かべた。
「式場はそんなに遠くない。一番早い時間帯の式だし、二次会にちょっと顔を出したら帰るから。そしたら遅くても七時ぐらいだ。その時間なら会えるだろ?」
「そんな、お疲れなのに無理してまで」
「会おうよ」
分厚い理性の下に小さいけれどマグマのような熱を隠し持ったままハルは笑った。でも大丈夫だ。こんなのはいくらでも抑え込める。
散々食べた結婚式の後だから、どうせスーズと会う時間になっても大して食欲は出ないだろう。けれどスーズに会うことが大事なのだ。ここで本物の友達として振る舞い、酒を呑めるかに今後がかかっている。これが友達としての最初の食事になるのだ。もう同じ轍は踏まない。
入店から四十分ほどで二人は食事を終え、店を出た。駅の方へ戻るスーズとはそこで別れなければならない。
「そういや、先刻何でブランを無視したんだ?あんなこと云って。ブランとユニのどっちと・・・なんてさ」
途中、周囲を気にしたハルは正確にはスーズの言葉を復唱しなかった。
「あれは・・・申し訳ありません。誰かがあなたに話しかけて来るのが嫌だっただけです。せっかく会えたのに、邪魔をしないで欲しかった。あなたを何処かに連れてってしまうんじゃないかと思って、頭に血が昇ったんです。当てずっぽうに嫌味を云っただけで、あの、本当にすみませんでした」
ハルは開いた口が塞がらなかった。
この男は自覚がないのだろうか。そんな嫉妬の炎を燃やしておきながらただの友達でいたいなんて、矛盾していると本人は気づかないのだろうか。ハルはスーズと別れた後で首を傾げた。
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