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第73話

危うく遅刻するところだった。 十時から挙式が始まると云うのに、ハルがチャペルの席に着いたのは九時五十五分だった。 理由は単純、寝坊だ。ルイと会場の最寄駅で待ち合わせる約束をしていたのに、先に行ってくれと電車の中でメッセージを打つ羽目になった。 「遅いっ」 ルイに小声で叱られながらハルは席についた。既に普通のボリュームでの会話が憚られる雰囲気が会場内には充ちていた。遅刻の云い訳をする間もなく新郎新婦の入場となった。 ステンドグラスから入る光を売りにしたクラシックな結婚式だった。音楽を奏でていたのはピアノではなく立派なパイプオルガンで、二名のコーラスメンバーによる生歌が披露された。それらがより一層格調高い雰囲気を醸し出していた。 新郎であるムーは現在、音響機器メーカーに勤めている。彼は昔から電子機器に強かった。高校時代、パソコンや携帯電話など何か分からないことがあれば必ずムーに連絡をしたものだ。実家は個人経営の電気店だが、ムーの父親は「実家を継ぐなんて云ったら嫁が来なくなる」などと云って、さっさと一人息子を家から追い出した。ムーはそんな父親に似て変わり者だが、性根が優しいところが彼の母親に似ている。 彼の花嫁の顔をハルはこの日まで知らなかった。小顔でおっとりした控えめな雰囲気の泣き笑いが可愛らしい女性だった。 四人いたハルの仲間はこれでみんな結婚してしまった。ルイは四年前に結婚していたし、残りの二人もその前後に片付いている。 高校の時はいつも五人でつるんでいた。あの頃の自分など面白い仲間であるはずもなかっただろうに、彼等は根気強くハルが周囲に馴染むよう付き合ってくれた。 あの頃は何でも一緒で、何でも同じだった。ただ一つ違ったのは、自分一人だけは女子生徒との浮いた噂一つなく高校生活を終えたということだろうか。 披露宴開始前にハルは手洗いへ立ち寄った。結婚式場の手洗いは広く、建物全体の雰囲気に合わせて蛇口の形や壁掛けの鏡枠などもロココ調に統一されていた。男性専用の空間にはおよそ不似合かつ不必要な設えだと思いながら、手を洗っていると、そこへルイが入って来た。 「お前ー」 冗談半分の怒りをその言葉に込め、ルイはハルに向かってずかずかと近づいてきた。 「ごめん、ほんとごめんって」 「全く。大事な友人の結婚式の日に寝坊するなんて、一体どんな忙しい部署に配属されてるんだよ?」 「・・・仕事は忙しくなんかないよ」 遅刻したのはスーズの夢を見た所為だ。最悪な夢だった。また怒鳴り合いの喧嘩をしていた。起きた瞬間に夢のほとんどを忘れてしまったが、苦しい夢だった。 今日もまさかまた云い争いのような事態になってしまうのだろうか。正夢であって堪るかという気持ちと、もしも、という不安が重なる。 「本当は参加しようか迷ってたけど来て良かった」 「迷ってた?何で?」 「とても最近人を祝える気分じゃなかった。職探しをしてるんだけどさ、ここのところ、うまくいってなくて」 すんなり弱音が出てきたのは相手がルイだからだ。二年ぶりにこの男と顔を合わせた瞬間、ハルは眼の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。 早く会場に戻るべきだとは思ったが、心配そうに自分を見る友人の眼差しに胸を突かれて、ハルは簡単にではあるが事情を話した。 「・・・このまま今の会社にいてどうなるのかなって考えてたのは本当のことだから。俺が莫迦だったんだよ」 「信じられない」 ルイは至極不愉快といった様子で吐き捨てた。 それから、手洗いの出入口の脇に置かれていた優美な曲線の椅子に彼は腰かけた。椅子は横並びに二脚置かれていたが、ハルはそれには坐らず立ったまま友人と向かい合っていた。 「お前の上司もひどくないか?期待してたって云っておきながらそんな風にあっさり見捨てるなんて。嫌がらせの犯人については何も追及なし?ほとんど不当解雇じゃないか」 「退職届の取り消しを申し出なかったのは俺だから。それに、結局のところ俺は何としてでも引き止めたい人材ってわけじゃなかった。そういうことだろ。こういう扱いを受ける人間もいるんだよ。第一、誰かが守ってくれるなんて期待するもんじゃない」 「俺がいたら絶対守るのに」 学生の時から不思議だった。他の誰かが云ったら芝居がかって聞こえるか、白けてしまうような言葉でも、彼が発すると確実にその言葉は体の中にじわりと沁み入ってくる。何故かこの男のふとした発言やさりげない笑顔はハルを救う。卒業から十年経ってもそれは変わっていなかった。自分はあの頃に較べて本当に成長できているのだろうか。眼の前にいる旧友に較べて、自分は一体どうなのだ。両親を見返したい、母から逃げたい、そんな思いと自分一人の生活の維持や孤独を紛らわすセックスに囚われて、実際はまだ何も手にできていない。ハルは自分が恥ずかしくなった。 他の客が手洗いの扉を開けて入って来たことで、ハルは我に返った。 「何かしけた話してごめん。戻るか」 「いや、待って」 ルイは携帯電話のケースから自分の名刺を取り出してハルに渡した。彼は今、Webメディアの広告営業をしていた。 「ちょうどチームの補助に加わってくれる人材が欲しいと思ってたんだ」 そしてルイは続けて、会社では海外の会社とのやりとりも増えてきたこと、新しいメンバーには、英語が少しでもできる人材に来て欲しいのだということを話してくれた。 「お前の能力を活かせる仕事だよ」  ルイは云った。 「三か月前に入れた後輩は使えなかった。口だけ達者で、我慢を知らない奴に俺のチームは無理だから。もうすぐ会社から求人広告を出すところだったんだけど」 ルイに眼を合わせられた時、ハルの首の後ろから背中にかけて痺れるような感覚が走った。 「来る?」 この言葉で昔のことを思い出した。高校の入学式の日、初めて彼に話しかけられた時も同じ言葉で仲間に誘われた。彼はその時既に、今日式に参加している友人達に囲まれていた。その輪の中にルイがハルを誘ってくれたのだった。 「そんな、お前の会社になんて、・・・受かるかな。英語なんて云うほどじゃ」 「お前の英語は昔からすごかった」 「あれは」 「親に無理矢理勉強させられてきたってのは知ってる。だから英語なんてうんざりだって云うならいいんだ。強引に誘うつもりはない。けどもし面接を受けに来るって云うなら、人事に話の分かる同僚がいる」 「・・・そういうのって、いいのか?」 冗談っぽく訊いてみた。ルイは肩をすくめた。 「俺は口利きをするとは一言も云ってない」 「あ、うん」 「確約はできないけど、受けてみて欲しい。お前なら採用される」 旧友の親切に甘えてはいけないと思いつつも、ハルは縋りつきたくなった。 先程手洗いに入って来た参列客が手を洗って出て行くのを待って、ハルはルイを見上げた。 「ありがとう。受けてみるよ」 「アドバイスがある。面接会場には十分前に到着しろ。五分前じゃ心の準備には足りない」 その後で二人で顔を見合わせながらくすくす笑った。 名刺に記されたルイの名前の上には、プロジェクトマネージャーという役職が書かれていた。彼の実際の仕事ぶりは知る由もないが、こんな大層な肩書きをもらえている友人を羨ましく思った。 そして名刺からなのか、微かに懐かしい香水の香りがした。 「今もこの香水使ってるんだ?」 「ああ。お前はあの薄荷みたいな香水やめたのか?」 「今日は急いでたから、香水つける暇なんてなくてさ」 「俺はこうやって持ち歩いてるけど」 ルイは胸ポケットから一・五ミリリットルの小さなボトルを取り出した。ハルは香水を購入した際、サービスでもらったことはあるが結局使わず何処かの抽斗に放り込んだままだ。 ごく自然な動作でルイはハルの手を取り、その手首に持っていた香水を噴射した。つける人間を選ぶような強いスパイシーな香りで、ハルは脳髄が刺激された気がした。自分に使いこなせる香りではない。分量も気をつけなければいやらしくなってしまう。 手首の匂いを嗅いでから、ハルは首を傾げた。 「俺、これ似合ってる?」 「そうでもないかな」 着けた張本人でありながらルイは無責任にそう答えて先に手洗いから出て行った。 結婚式の方もそうだったが、良い披露宴だった。新婦の会社の上司が前半のスピーチで喋り過ぎていた気もしたし、食事の合間に席を立って、写真撮影やら余興のゲームやらに参加しなければならないのは正直云って面倒だったりもするのだが、それはどの披露宴でも同じことだ。料理は美味しかったし、何より旧友達と久しぶりに心地良く酔えた。

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