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第75話
「あ、来た来た」
そう云ってルイから体を離すと、ハルはスーズに向かって手を振った。スーズはそれには応えなかったがハルは気にせず、友達なんだ、と云ってルイにスーズを紹介した。ルイはスーズに対し、友好的な態度で挨拶をした。ユニやブランもそうだがルイもハルと同じで、ぱっと見ただけでスーズを外国人だとは判別できないようだった。
何故かスーズは憮然としていた。この男は自分の友達にことごとく不貞腐れた態度を取る。ハルはいい加減にしてくれよと思った。
「語学教室で仲良くなったんだよ」
またしてもハルは取り成すようにして間に立った。そうしなければ間違いなくこの場の空気が悪くなると判断した。
「へえ。こいつの英語、すごいだろ?」
ルイはスーズに向かって云った。ハルに眼で促され、仕方なしにという態度でスーズはルイに言葉を返した。
「・・・そうですね」
「こいつ、当たりはきついけど、根はいい奴だよ。知ってると思うけど」
「ええ、もちろん」
「知り合ってからもう十年以上だ。早いもんだよな」
ルイとハルはそこで顔を見合わせた。直後、二人とも照れ臭さから少し噴き出すように笑みを零した。
「・・・ハルさんの高校時代の話はまだ聞いたことはないんですが」
スーズはそう云ってハルを見、それからルイを見た。笑顔なのにひどく冷たい感じがする。
「最近の彼のことなら私の方が詳しいかも」
ルイがスーズの態度をどう捉えたかは分からないが、ハルは今すぐにでもこの場を切り上げなくてはとまずいと思った。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ」
ルイが自分から云い出してくれてハルは助かった。立ち去る前にルイは、名刺は渡したよな、と確認してきた。
ハルは頷き、精一杯の笑顔で親友を見送った。ルイがスーズの失礼な態度を見過ごしてくれたのは明らかだった。
「・・・で?お前は何でまたそんな態度なわけ?」
振り返るとスーズは今回については謝る気すらないようで、軽蔑したかのような視線をハルに送っていた。後ろめたいことなど何もないはずなのに、相手のその視線にハルは気詰まりな思いをさせられた。
「ご友人ですか?」
「見れば分かるだろ。今まで俺に付き合ってお前を待っててくれたんだよ」
「誰かといるとは思いませんでした」
「ああ・・・先刻まではもう一人いたんだけど」
「友達はいない。あなた以前、そう云ってましたよね?」
ハルの言葉尻を遮るようにスーズはそう訊ねてきた。質問というより詰問している。
「何?友達はいるよ。でもみんな離れたところに住んでるし、普段は忙しいから会えない。そういう意味だよ」
「なるほど。この国の言葉は難しいですね」
「何なんだよ?俺、責められてるのか?」
「はい。あんなところで抱き合うなんて一体どういう神経をしているのかと思いました。恥ずかしくないんですか?」
ハルはようやくこの男がどの部分を問題視しているのかが分かった。
「この辺歩いてる奴等はあんなの見たって気にしないよ。結婚式場や高級ホテルがあるから、披露宴とか二次会帰りの酔っ払いは珍しくないし、バーやスナックなんかも多いから」
そう答えている間もスーズがずっと厳しい視線を送り続けてくるので、ハルは何だか自分が云い訳をしているみたいに思えてきた。呆れた様子でスーズは嘆息して視線を背ける。言葉はなくともその態度がハルの苛立ちを誘った。
「何だよ?こういう時しか、昔には戻れない。少しぐらいふざけて羽目を外したって罰は当たらないだろ?」
「羽目を外したついでに、服の釦も外したんじゃないですか?」
「全然洒落になってないぞ。何の話だよ?そういう、変な発言するな」
せっかくまた二人で会えたのに、スーズは笑顔を見せてはくれなかった。人通りが多いので道の端の方へ移動したが、その際スーズは不快指数がより上がったかのような反応を見せた。苛立ちを抑えた溜息がその口から漏れる。
「何だかいつもと違う人みたいです」
「・・・どこが?」
「香水変えました?」
云われるまでハルは自分が纏っている香りに意識がいっていなかった。まだルイにつけられた香水の香りは残っていた。
「ああ、変えたんじゃなくて」
「あなたには似合ってない。まるで他人の服を借りて着てるみたいです」
スーズはほぼ怒っているといった口調でそう云いきった。
「これはルイのだよ」
「そうだろうと思いました。先刻すれ違った時、あの人から香ったので」
そう云うと鋭い眼差しでハルを見据えた。怖いぐらいだった。
「かなり匂います。ここまで香水の匂いが移るなんて、あなた方の距離感はどうなってるんですか?」
「どう、って」
「ああ、分かりました。二次会ってそういう意味だったんですね」
「・・・何云ってる」
「昔からのご友人なら気心知れてますし、話が早いですものね」
スーズは自分を疑っている。ルイといちゃついていたと思い込んでいるのだ。
こうして会うのを待ち侘びていたというのに、ここでこんなことを云われる覚悟なんてできていなかった。笑顔が見れると思っていた。相手の笑った顔が見たいと思っていたのはハルも同じだった。
「ルイとはそんなんじゃない。あいつはノン気だよ。それに結婚して子供もいる」
「結婚ね。あなたにとってそれが歯止めになるんですか?」
「・・・あいつは親友なんだって」
スーズの表情を見つつハルは、だめだ、と思った。完全にスーズは聞く気がない。彼の眼をよく見るとその怒りには憂いがあった。この男は傷ついているのだ。それが逆にハルの怒りとやるせなさを煽った。
「何だよ?せっかく会えたのに何でそんな不機嫌な顔して。何で香水ぐらいでそんな怒られなきゃなんないわけ?もうお前には関係ないじゃん。俺がどんな香水つけようが誰とどういう距離感で付き合おうがさあ。単なる友達のくせに」
スーズがぴくりと顔の筋肉を震わせるのが分かった。その後で、いくらか理性が彼の表情に戻ってきた。
「昨日だって、あんな風に突然会いに来るなんて、あんなことしてあれで期待するなって云うのか?」
「・・・もう来ないかと思っていたあなたからの連絡が来たので、舞い上がっていたんです」
「そういうのが思わせぶりだって云ってるんだ。俺はお前のことを二度誘ってるんだぞ。どういう気持ちで友達になりたいってあの手紙に書いたのか、少しは考えろよ」
火がついたようにハルはまくし立てた。
「・・・ごめんなさい」
「謝って欲しいわけじゃない。どういうつもりでお前はそんなこと云ってるのかって訊いてるんだよ。友達だって口では云っておきながら嫉妬だけは立派にするのか?昨日のブランに対する態度だってそうだ。ちょっと話しかけに来ただけの、初対面の人間にあんな態度とる奴いるかよ」
「・・・昨日のことは、本当に」
ハルはスーズに言葉を探す暇を与えなかった。
「もしどうしてもこのままじゃ嫌だって云うなら、これからホテルに行ってシャワーでも浴びるよ。お前も来いよ。そうでもしなきゃこんなの落とせないだろ。もう全身から匂ってるんだろうから。ホテルに行って頭のてっぺんから爪先まで洗うよ。その代わり、もう友達だなんて云わせないからな」
ホテル、という単語が出てきた時、スーズが一瞬眼を瞠るのが分かった。
憤りと情熱に駆られながらよくこんなに口が回るものだとハルは自分に感心していた。
「離れて孤独になりたくない、傷つきたくない、傍にいなきゃ自分は誰かと寝るかも知れない、俺にも裏切られるかも知れない、怖いから友達でいよう。何だそれ、自分のことばっかり。俺はお前になら裏切られてもいいよ」
驚きに満ちてスーズはハルを見ていた。そして云うまでもなく、気圧されていた。
ハルは呼吸を整えながら、自分でも何を云っているのやらと思った。絶望だ。こんなの、今までのどの誘い方よりひどい。けれどハルはこの瞬間に決心した。スーズに会って、この宇宙のような黒い瞳を見て決心した。この男と情を通じた後で捨てられる日が来たなら、自分はそれを受け入れよう。歳を重ねて捨てられてもその時はその時だ。
ハルは手紙を書いていた時、好きだと云わせてくれないこの男を嫌いだと思った。初めて会った頃よりずっと嫌いだった。踏み込まないでいてくれればこの男の優しさにも真率な眼差しにも気づかずに済んだのに。突き放されたあの夜から会わないでいればきっと心のどこかで憎むこともできたのに。
けれど今、こうしてこの男の眼を見つめていると全て許してしまう。何度でも好きになってしまう。
最早、雨に濡れた松明のように、ハルは意地だけで憤りに見せかけた熱情の炎を燃やしていた。
「俺はお前のために傷ついてもいいし、お前を思い出してつらくなってもいい。お前はどうなんだよ?」
スーズを見上げた瞬間に気づいた。こういう眼をハルは前にも見たことがある。アールだ。彼が体調を崩して看病しに行った日にも、こんな眼を向けられたことを憶えている。ハルは後から思った。こんな自分の中にも、もし愛というものが息づいていたとしたなら、その気持ちは確実にアールにも向けられていた。アールはあの時、それに気づいたのだと思う。そして自問自答したのだと思う。
こいつからの愛に応えられるか?
そしてそれは無理だとあの時アールは悟った。
あの日、寝台の上でハルがアールは決して自分の相手になることはないと感じ取っていた時、アールも同じことを考えているのがハルには伝わってきた。
スーズは今あの時のアールと同じように自分の中で答えを探していた。ハルは眼を逸らして彼の決断を見ないようにした。
「もし同じ気持ちだって云うなら、今夜はずっと一緒にいて欲しい」
ぽつりと、最後にそれだけハルは云った。
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