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第76話
今日スーズが着ているチャコールカラーのチェスターコートはスーズにとてもよく似合っていた。スーズは高品質でシンプルな何にでも合わせられるアイテムをたくさん持っている。今夜の彼はすごく恰好良く見えた。
「・・・どうして、たった三か月前に知り合った私なんかに、そんなことを」
下らない質問だ、とハルは思う。時間の問題じゃない、愛の問題なんだ、という陳腐な返答を危うくしそうになった。いとしい相手のためなら、あえてそんな風に答えてやるべきなのかも知れない。けれどこの男は愚かなふりをして、愛を確認したいだけなのだ。既に充分、愛は叫んだ。
「俺は自分の母親とは分かり合えなかった」
ハルは自嘲気味に笑った。
「生まれた時から三十年近く一緒にいたのに。二十三までは一つ屋根の下で暮らしてたのにも関わらずだ。もう諦めてる。・・・ルイと会ったのは今日が二年ぶりだよ。その間は一度も会ってない。けど、あいつは今でも俺を信じてくれてた。俺の英語力を信じて仕事の面接に来いって云ってくれたんだよ。高校を卒業してから、俺は一度も自分からあいつに連絡したことがなかった。忙しいだろうから、って遠慮するふりをしてたけど本心じゃ、もう友達じゃない、ってあしらわれるのを怖がってた。でもあいつは今日、俺を友達だって云ってくれたんだよ。俺のためならできる限りのことをするって。時間と距離にそこまで意味があるって云うなら、俺の親子関係は円満で、友情は失われてるはずだろ?」
そうは云っても、ハルだってスーズと知り合う前までは時間や距離、それから血の繋がりが大事だと思っていた。母の存在に自分の体がおかしな反応を示すのは、自分の中に原因があるのだと思っていた。けれどスーズがその思考を断ち切ってくれた。変えてくれた。
あなたはおかしくなんかない。自分の幸せを。自分を大事に。
云われた瞬間に気づいた。自分はずっと誰かにそう云って欲しかったのだ。そうしていいんだと誰かからの許しを得たかった。まさかそれらを、この男から云われるとは思っていなかったけれど。
「時間が経ったら変わるものも、多分あるよ。でも最初からそんなの分からない」
相手を理解しようとすることがアールの愛なら、自分は、相手のために傷つくことを恐れない、その覚悟を愛と呼ぼう。そうハルは思った。
「前に俺のこと、好きだって云ってくれたじゃないか。あれ、友達としてって意味じゃないだろ?」
俯いてスーズは視線を彷徨わせていた。
「自分の感情を自分で無視するような奴に、いい恋愛はできない。自分でそう云ってた。今でも俺を好き?変わってない?」
「・・・もちろんです」
絞り出されたスーズの声はハルの胸奥に沁み込んできた。
「確かに不安も感じていたけれど、心の奥底ではいつもあなたのことを考えていました。あなたを愛さないよう、常に云い訳をしていたんです。いつまでも過去の傷に怯えて、自信が持てなかったから。でも本当はずっと恋をしていた」
そこでスーズは言葉を切った。彼が唾を呑み込むのがハルには分かった。
「あなたに手紙をもらって、友達になりたいという言葉を読んだ瞬間に胸が痛くなって、それで気づいたんです。自分で思っている以上に、強く」
あなたに恋い焦がれていることに。
そこまで云って欲しかったが、直後、スーズの言葉が出なくなっていることに気づき、ハルは咄嗟に声をかけた。
「ごめん」
引き出物の袋をその場に置き、ハルはスーズに近づいて肘のあたりに触れた。
「怒ってごめん。泣くなよ」
「泣いてませんよ」
「嘘吐け」
確かに涙は零れていなかったが、眼球を満たしていたに違いない。その証拠にスーズはハルに顔を見せようとはしなかった。
「・・・本当に、友達が一番いいと思っていたんです。ただの友達になりたかっただけなのに、それがすごく難しい」
「なら運命かも」
ハルが云い返すとスーズが一瞬息を呑んだのを感じた。
「俺達は友達になれない運命なんだと思う」
そう云ってハルはそっとスーズの手を握った。内心、恐る恐る、だった。また突き離されるかも知れない。それでもハルは、今を捨てられないと思った。誤魔化そうとは思えなかった。相手に拒む気がないと感じるとハルは情愛の全てをかけてその手を握り締めた。
「俺は一回きりでもいい。でもお前じゃなかったら、こうは思わない」
これがハルの本心だった。この一度きり、一時間、三十分でも構わない。この男にはそれ以上望むものか。二度と次が訪れなくてもいい。でも今日、今、この場でなければだめだ。
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