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第77話

ハルはスーズの髪に指を絡ませてから銀輪のピアスを見つめた。初めて会った日からずっとこのあたりに触れたいと思っていた。 スーズがどんな風に触れてくるか、身をもって知るということは、ハルにとって自分自身を知るということだった。 実は十五分ほど前、寝台を前にしたハルはその場に立ち竦んでしまった。 情けなかった。この時を待ち望んでいたのに土壇場で怖気づいていた。 更にその約一時間前、玄関の扉が閉まった瞬間にスーズに抱きつかれたハルは、心臓が止まるかという思いで叫んでしまった。 「ちょっと、何急に」 スーズは押し止められたことが心底意外と云うような表情で、 「え、だめなんですか?」 などと訊いてきた。 「だめなんですか、って、その・・・先に、シャワー浴びるんだって。香水の匂いが気になるって云ってたの、お前じゃないか」 「ああ」 そうでしたね、と云ってスーズは少し体を離したものの、名残惜しいのか何なのか、じっとその場に立ち、ハルを見つめている。ハルは気恥ずかしさで眼を伏せたままちょっと髪をかき上げてから、急いで部屋に上がった。 現実的な話をすれば土曜日の夜にホテルが空いているわけもなく、あの後大人しく二人は電車に乗った。先程の人身事故の影響でまだ電車に遅れが出ているかも知れないし、二次会帰りの旧友達などに鉢合わせたらこの高揚した気分は台無しになる。ハルはそう懸念していたが、幸いそれらのアクシデントに見舞われることなく、二人はハルの自宅がある最寄駅へ降り立つことができた。 語学教室が入っている駅ビルの前を通り過ぎ、エスカレーターでタクシー乗り場まで下り、順番を待って車へ乗り込んだ。 フラットの外階段を上りながら空を見上げると星が美しかった。一月最後の日だった。明日から二月だ。あと少しで暦の上では春がやって来る。 階段を上りきったその時だった。スーズが唐突にハルの前へ回り込んで来たかと思うといきなりキスをしてきた。 「きれいだと思ったので」 あっけなかった。この一言で、主導権は完全に眼の前の男に奪われてしまった。 動揺のためになかなか鍵穴に鍵が入らず、それをスーズに見られているのが無性に恥ずかしかった。そして部屋に入るなり、靴も脱がないままこの男は抱きついてきたのだ。不意にやってきた温もりと彼が纏うシトラスの香りがハルの全てを満たした。 「服を脱ぐのを手伝いましょうか?」 「だめ」 顔も見ずに即答した後、ハルは大急ぎでテレビを点け、冷蔵庫からチューハイを何本か取り出し、晩酌していろと告げてバスルームに籠った。 一人になると顔から熱が噴き出した。恥ずかしかった。先程のスーズの発言は軽口に過ぎないと分かっている。けれどその前。玄関で見つめ合った時に、ハルは相手の眼に情欲が入り混じっていることに気づいた。その瞳は相変わらず優しかったけれど、自分を欲しがっていることが明確に感じ取れる視線だった。二ヶ月半前、錯乱しながらスーズを寝台に誘った時や大学の学校祭の時に、それらしい気配が垣間見えたことはあったものの、ここまではっきりとした欲望をスーズが示してきたことはなかった。 服を脱ぎながら思う。当たり前だ。その欲望のために自分達はここへ来たのだ。誘ったのは自分じゃないか。それなのに、相手が乗り気になった途端このざまとは。 スーズのことは好きだ。慣れない云い方をすれば多分、愛しているのだと思う。 畜生、と思う。 嫌なわけではないのにどうしたらいいか分からない。 自分の意気地のなさに腹が立つ。 ここにきて、大学生の時に経験した失敗を思い出してしまった。同じ学部の上級生とせっかく彼の部屋でいい雰囲気になったのに、いざ触れられると自分の振る舞いや体そのものが彼を失望させるのではないかと恐ろしくなり、びくびくして楽しめなかった。二度ほどそんなことが続くと相手は落胆して何の躊躇いもなくハルを追い出し、もっと気軽に応じてくれる後輩に誘いをかけるようになった。 そうだ、自分が動かなければ。あの時のような失敗はしたくない。触れてもいいのだと、彼に対し行動で示さなければ。スーズはアールやユニとは違う。あの二人の前では、彼等が望む相手を演じていればそれで良かった。自分勝手に踏み込まれて心を抉られて体を使われることに抵抗はあったけれど、あの男達の行動に依存もしていた。心のどこかで彼等を悪者にすればいいと考えていたから。 きっとスーズは自分が怖がっていたらそれ以上はしてこない。相手からの許しを得なければ、無理強いはしない男だ。 ハルが居間に戻って来た時、スーズは云われた通りレモン味のチューハイを開けて、テレビを観ていた。ハルが姿を見せると、振り返ってにこっと笑いかけてきた。 それだけで心臓が跳ね上がった。 これじゃあまるで処女の女子高生みたいだ。 そのままにしておいてくれればいいものを、ハルが居間に足を踏み入れたと同時にスーズはリモコンを手に取り、テレビを消してしまった。 あれだけ強く迫ったというのに、最早ハルはどう事を運んでいいか分からず、スーズに近づけなかった。近づき方が、喋り方が分からなくなっていた。わざとスーズから離れた位置に腰を下ろし、開けられていない桃のチューハイに口をつけた。 「あなたの服」 「はっ?」 ハルはびくりとした。 「余計なお世話かとは思ったんですけど、シワになってしまっては困るだろうと思ってかけておきました」 確かにハルのスーツのジャケットとスラックスはきちんとハンガーが通され、カーテンレールの端にかけられていた。 「他にハンガーをかけるところが見当たらなかったので」 「あ、ありがとう」 「それより、こちらへ来ませんか」 無闇に酒をがぶ飲みしているハルに、スーズは穏やかに訊ねてきた。その眼には先程玄関で見上げた時と同じ熱が込められていた。ハルの意識はたちまち硬直した。まだ半分以上残っていた酒を呑み干すように呷るとスーズの心配そうな表情が眼に入った。黙っているより、打ち明けるべきだとハルは腹を括った。 「・・・どうしたらいい?」 「え?」 「こんなんじゃ、できないかも」 場の空気が一瞬凍りついた。 「どういうことです?」 「ごめん、今更こんなこと云って。あの、実は今、すごく緊張してるんだ。何から始めたらいいのか、全然思い出せない。やり方を忘れちゃったみたいだ」 スーズの顔を見ることもできずに、ハルはチューハイの缶を両手で握り締めていた。その時、自分の手が震えていることに気づいた。咄嗟に一方の手で、もう片方の手首を押さえる。小さな震えだったのでスーズには気づかれないだろう。でも、触れられたらだめだ。 「急にこんなこと云われても分からないよな。自分でも何でこんな気持ちになるのか分からない。わざと(うぶ)なふりしてるわけじゃないよ。本当に体が動かないんだ。・・・今は体を開くのがすごく怖くて」 「私が怖いんですか?」 「お前に嫌われるのが怖い」 「私があなたを嫌う?あり得ません」 「自信ないんだよ。俺の体なんて・・・ほんとに、そんなに大したものじゃない。テクニックだって。・・・だからお前のことも満足させられるかどうか分からないし、期待外れとか思われたら、どうしよう、とか。それに、ほら、莫迦みたいな声出して幻滅されるんじゃないかって・・・ほんとに色々なことが心配で」 それを聞くとスーズは一瞬の沈黙の後、声を出して笑った。まるで冗談でも聞いたみたいに。 「わら、笑うか?ひどい」 「すみません。でもそんなことを気にする必要はありませんよ。それに、そんなことを云ったらだめです。前に云ったでしょう、あなたはとても魅力的だと。もしあなたの体に吝嗇をつけるような相手がいたとしたら、そんな相手とはセックスしなければいいだけのことです。あなたといるだけで充分私は満足しています。それにあなたが出す莫迦みたいな声だったら是非聞きたい。誰が何と云おうと、あなたは素敵です。きれいです。私が見つけた宝物です」 「お前、そんな、恥ずかしい台詞を、よく」 半ば呆れ気味にそう返すと、それ以上何か云うのを遮るようにスーズはキスをしてきた。今度は離さない、というのが口唇から、手から伝わってきた。これ以上ないぐらいに心臓がどきどきしていた。滴下していく甘い蜜が胸の奥に溜まっていく。それでも体の緊張が抜けきるにはまだ時間が必要だった。少し胸のあたりを押すと、スーズはすぐに察して離れてくれた。 「多分、すぐには無理。・・・でも、したい」 「大丈夫ですよ。時間はたくさんあります」 そう云ってスーズは微笑んだ。 「そうですね。手始めに、もう一度抱き締めても?」 リラックスできるように、スーズはわざと大きく両腕を開いた。 ハルは声を出さずに笑って頷いた。 まだ自分からは動けなかったがスーズの方から手を回してくれた。その手に絡め取られる間、ああ、やはりここにあった、とハルは思った。スーズの耳と首の間のあたりに顔を押しつけた時、それを見つけた。 幸せが潜んでいた。胸が詰まって、涙を堪えるために注意深く呼吸をした。

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