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第14話
#依冬
意外だった…
シロがあんなにちゃんと働いていると思わなかったんだ。
きっと勇吾さんと甘々な生活をしていると思っていたら…彼は予想以上に”技術指導”の大役をこなして、頼りにされていた。
…とっても、真面目なんだ。
シロがストイックで真面目な事くらい、彼の今までのストリップを見て分かっていた筈なのに…
実際にあんな沢山の人の中で重宝されている様を見ると、分からなくなるよ。
歌舞伎町のストリッパーとして活動するよりも…勇吾さんの傍に居た方が…シロはもっと輝ける気がして、ならないよ…
「すごかったね…あっという間に、修正箇所を上手に直して、格好良かったんだ。」
目の前でいつもの様に麺を大量に啜るシロにそう言うと、彼は頬を赤くしながら麺を啜り続けた…
やめてよ…シロ。
フェラしてるみたいに見えてくるじゃないか…
この人は、人懐こい訳じゃない。
どちらかというと人見知りをするタイプだと思っていた。
でも、あんな風に物怖じせずに外国人とやり取りしてるシロを見て…本当に、分からなくなるよ。
この人は…もっと世界に羽ばたく様な…そんな人なんじゃないかって、思えてしまうんだ。
「桜二は、いつも、わかめたぬきうどんだね?」
そう言うと、シロが隣に座った桜二のわかめたぬきうどんに、自分の明太クリームのお出汁を入れて嫌がらせを始めた…
はぁ、
彼らなりの仲直り方法なんだろうか…こうやって徐々に距離を詰めていくんだ。
1年、傍で見ていても、本当に、良く分からない。
どうして気が合うのか、分からない。そんな組み合わせだ。
シロは桜二にベッタリな癖に、彼の嫌がる事を平気でする。
例えば、ダンスの陽介先生の実家に出入りしたり、大塚さんという絵描きさんの家にひとりで出入りしたり、桜二の部屋のパソコンでゲームをしたり、桜二の本棚からへそくりを引き抜いて使ったり…終いには、勇吾さんと結婚したり…。
桜二は桜二で、シロにぞっこんなのかと思えば、こうやって…平気で無視をし続ける。
いちいちに怒って…いちいちにムッとして、いちいち後を引く…
だけど、いつの間にか…元に戻って、ベタベタとくっ付いては、ふたりきりの世界に行ってる。
一緒に生活を始めるにあたって、“桜二”という存在に嫉妬するかと思ったけど、こんな調子のふたりだからか…全くしなかった。
彼が、俺の腹違いの…兄だからかな…
いいや…関係ない。
こうやって…喧嘩を始められると、毎回、どうにもこうにも居心地が悪くなる。
手が出るとか…帰って来なくなるとか、そういう喧嘩じゃない…シロが俺を使って桜二に嫌味を言って…桜二がそれを全て無視する。そんな痴話げんかの様なもの。
間に立たされたり、仲裁を頼まれる事なんて無い。
でも、居心地が悪いんだ。
いつもくっ付いてるふたりが、そうじゃないと、どうにも調子が出ない。
今回、桜二がこんなに怒っている理由はひとつ。
勇吾さんとシロが、シビルパートナーシップという…事実婚よりも拘束力のある法律に守られた、まるで夫婦のような関係になったからだ。
これには俺だって怒ってる。でも、俺は外っ面を使うのが桜二よりも上手なんだ。
彼が派手に不機嫌になればなる程、俺はシロを独占出来て…コソコソと動くことが出来る。
馬鹿な上を持つと…下の子は賢くなるって、本当の様だ。
別に、兄弟と認めてる訳じゃない。年上の成人男性として、反面教師にしてるだけだ。
そんなにシロを詰らなくとも、半ば強引に結ばれたこの契約は、様々な必要書類をすっ飛ばしたお粗末な物なんだ。
依頼した弁護士は言っていた。
「こんなの、ちょっと突けば…無効に出来ますよ?それに、携わった関係者も処罰されます。だって…偽造文書ですからね?」
だって…
だから、俺はそんなに焦っていない。
シロが手元に戻った今、あいつに銃口を向けて、引き金に指を掛けている状態なんだ。
勇吾さん…どうするつもりなのさ。
シロに関する書類が全て未提出なのに、マスコミまで呼んで挙式して、こんな事バレたら…取り返しがつかないですよ?
シロに後から書類を送らせて、帳尻合わせをするつもりなの?
でも、彼は全くそんな素振りを見せていない。グーグー寝ていたし…俺と激しいセックスもしたし、ポールダンスの修正作業もしたし、今はつるとんたんに夢中だ…
俺じゃなくても、他の誰かが調べ始めたら…あっという間にボロが出て、勇吾さんは文書偽造で逮捕される。
「要らない…やめて!」
そう言って、シロが明太クリームのお出汁をレンゲですくって自分の器に入れるのを、全力で嫌がる桜二を見つめながら、考えあぐねる。
勇吾さんはシロが海外に進出するなら、必ず必要な人になる。
人に恨まれるような性格だから、いつか殺されるだろうし…今だけ、このままパートナーシップを結ばせておくのは、策としては悪くないんだ。
依頼を受ける彼の演出の仕事は、今の所、増えて行くばかりだ…
あんなにスタッフを囲うだけの財力もあるし、向こうでは名声も知名度もある。
死んだ場合、遺産もきっと沢山シロの手元に残るだろう。
悪くない物件なんだ。
勇吾さんのパートナーという理由で、今までよりも注目されてシロの活躍の場が増えるかもしれないし、物理的距離のある勇吾さんなら、居ない物としてパートナーシップを結んだ事自体、忘れてやり過ごせるかもしれない。
何よりも、さっき目の当たりにした様な…彼の才能を…発揮出来る場所を確保できるというメリットは非常に大きいんだ。
いくらお金を持っていても、俺には出来ない事だからね…
恋人の躍進を願うなら…悪くない条件なんだ。
後は、自分の気持ちの問題なんだ。
薬指の指輪は確かに気になるが…それ以外は、彼が言った通り…トサカが生えた訳じゃない、いつものシロだ。
俺は…シロが勇吾さんと結んだパートナーシップを、見ない振りが…出来る。
自分の独占欲を掛けた…投資だ。
パートナーというポジションを勇吾さんに与えて…彼の遺産と名声をシロに頂く…これは、投資だ。
「あぁ~、おつゆが濁っちゃったね?蕎麦もうどんも、おつゆが濁るのが嫌だって、前、言ってたよね?」
そう言うと、シロは桜二の顔をまじまじと見つめた。それは嬉々とした表情とでも言うんだろうか…とっても、楽しそうに嫌がらせをしてるんだ。
そんな彼の嫌がらせを、まんざらでもない様子で受け続ける桜二を見つめる。
後は…この人の気持ち次第。
それが一番厄介で、面倒…。
「ねえ、シロ。少し…話をしても良いかな?」
そう言った瞬間、桜二の目がギロリと動いて俺を睨みつけた。
あんなにだらしない顔で嬉しそうに嫌がらせを受けていたのに…話を始めた俺には、こんな人殺しの様な顔を向けるんだもの。笑っちゃうよ。
「なんの話?」
シロはそう言うと、桜二のスープを一口啜って首を傾げた。
「勇吾さんに…ビデオ通話に出る様に言って貰っても良い?彼と少し話がしたんだよ。」
俺の言葉に頷くと、シロは桜二にもたれかかりながらメールを打った。
「何する気だ…」
まるで威嚇する様に低い声を出して桜二がそう言うから、俺は彼を宥める様に瞳を細めて言った。
「ちょっとした、話し合いだよ…」
そうだ。
これは話し合い。
そもそも、シロの周りには俺と、桜二が居た。
それを無視して、勝手にパートナーシップを結んだ事。
怒りが収まった訳じゃないんだよ。
俺の気持ちの落とし所として…少しだけ、あの二枚目を脅してやったって…良いじゃないか。
ソファの前のローテブルでノートパソコンを開いて起動させると、いつでも開始出来る様に準備しておく。
お皿を洗いながら俺を睨み続ける桜二の視線を感じつつ、彼の腰に纏わりついて離れないシロを見つめる。
シロ…気が変わったよ。
弁護士に頼んで、勇吾さんを叩き潰そうと思っていたけど…気が変わった。
あんな見事な手腕を見せつけられると、あなたの才能を無駄にしてしまうのが…もったいないって思っちゃったんだ。
ストリッパーという職業を馬鹿にしてる訳じゃない。
でも、さっき彼がこなした仕事の方が…断然、素晴らしいって思えたんだ。
彼の為になるなら…些細な事だ。
あの人は、いつか刺されて殺されるんだ。
「依冬?勇吾から返事が来た。良いよだって…」
桜二の腰から顔を出してそう言うと、シロは再び彼の腰に纏わり付いて甘えた。
全く…つるとんたんで、機嫌が直るんだもん…シロはちょろいね?
「さてと、じゃあ繋ごうかな…」
俺がそう言うと、慌てて手拭きで手を拭いた桜二が、シロを腰につけたまま俺の目の前に来て言った。
「…何をするんだ!ちゃんと説明してから繋げろ!」
どうしてそんなに狼狽えるんだよ…
俺は勇吾さんに回線を繋げながら桜二を見上げて言った。
「勇吾さんにちゃんと話を聞いていないから…直接、聞きたいんだよ。どうするつもりなのか、ちゃんと聞いておかないといけない事が沢山ある。」
「もしも~し、シロ?勇吾に会いたくなったの?チュチュチュチュ~!」
俺と桜二が睨み合いを続ける中、ビデオ通話の繋がった勇吾さんが、出だしからそう言って場を凍らせた。
「あ!勇吾。依冬たちが聞きたい事があるんだって。きっと結婚の話だ。」
シロはそう言うと、パソコンの真ん前に座って、画面の中の勇吾さんの頬を撫でた。
あぁ…
そんな事、俺にもしてくれていたね…
とっても優しい瞳をして見つめてくれるから…画面越しに撫でられるのが、大好きになったんだ。可愛い人…
うっとりとシロの横顔を見つめると、画面に視線を移して言った。
「お仕事中、申し訳ありません。シビルパートナーシップについて、少しお話させていただいても宜しいですか?」
ちょっと“いなし”て…気が晴れたら…書類を揃えるのを手伝ってやろう…
これは、投資だ。
負けた訳じゃない…だって、シロの傍に居るのは…俺だからね。
呆然と立ち尽くす桜二をソファに座らせると、シロは彼の膝に頭を置いて甘え始めた。
そうだね、シロ。
その人は荒れてるから…そうして抑えておいてくれ。
見ててね!シロ。俺が今から、この二枚目に一泡吹かせてやるから。
画面の中の勇吾さんは首を傾げると飄々と言った。
「何かな?どうぞ?」
ふふっ、この人は食わせ者なのか、それとも、とんでもない馬鹿なのか…?
自分のやってる事が罪になるって知らないのかな…?
笑いがこみ上げそうなのを堪えて、単刀直入に言った。
「あなたがそちらでシロと結んだシビルパートナーシップですが、書類の不備で本来なら、成立しないんです。シロの提出しなくちゃいけない書類が丸々無い。これでは契約は成立しない。あなたはこれを無理やり押し通した。つまり、文書偽造の罪に問われるという事です。」
「まあ…依冬、なんだ…その、良いじゃないか…細かい事は…」
突然、桜二がそう言って俺の肩をトントンと叩いた。
え…?
どういう事…?
なんで急に…そんな事を言いだした?それに、俺の肩に触った…!
うえ、気持ち悪い…
「え~!依冬、どうしたら良いの?」
口を尖らせてそう言うと、シロは桜二の膝をナデナデしながら言った。
「委任状を書いたんだけどな。ダメだったのかな?」
ん…?
俺は思考停止した。
桜二の手のひら返しと、委任状の出現に、さっきまで頭の中で考えていた”勇吾をいなしてやるぜ“の、シナリオが既に出だしから破綻したからだ。
「…何それ、何の委任状?」
やっと動き始めた頭をフル回転させると、シロを振り返って聞いた。
「オレのもろもろの書類を、彼の弁護士が代理で受け取れる委任状。あと、色々な書類にもサインした。その、届け出たパートナーシップの書類は、本当なら、審査に時間がかかる物なんだって。それを、彼が無理を言って一番に目を通して貰ってた。」
ん…?
「そうなの?」
シロの顔を覗き込んで聞くと、彼は首を傾げて言った。
「うん…多分ね?」
多分…
多分じゃダメだろ?
多分の話じゃ、武器にもならない!
解せない様子で画面に視線を戻すと、満面の笑顔の勇吾さんと目が合った…
ホクホクとした笑顔は…してやったり、とでも言いたげな表情だ。
クソッタレ…
彼はどうやら委任状なんて物を駆使して、見切り発車だっだとはいえシロの書類を揃えていた様だ…
俺の弁護士が調べた時は無かったものが…今はもう既に揃っていて、何の問題も無い状態で受理された事になった。
うちの親父も大概だけど…権力とコネを持ったクズは、何でもアリだな…
「ん?どうしたのかな?何が…知りたかったのかな?君たちのそのお家も…シロが名義だから、僕たちの共有財産の中に含まれてるんだ。ははは…日本に行った時は、寄らせてもらうよ?ホホホ…」
勇吾さんはそう言うと、画面を指で撫でて瞳を細めた…
それは、きっと桜二の膝に頭を置いてるシロを、撫でたんだ。
はっ!むかつくぜ…
シロを隠す様にパソコンごとカメラを動かすと、感情的に鼻で笑って言った。
「…公的文書偽造の疑いでシロのパートナーが逮捕されたら面倒だから、確認したかったんですよ。メンタルが豆腐の癖にズルくてさもしい大人の画策に、大切なシロを巻き込みたくなくてね。」
…もう、打つ手なし。
この契約は滞りなく、受理された。
嫌味のひとつでも、言ったって…罰は当たらないだろ…
そんな俺をあざ笑うかの様にニヤっと口元を上げると、シロが見ていない事を良い事に、彼は冷たい視線を俺に当てながら、声だけいつもの調子で話した。
「へえ…優しいね。俺はてっきり、その逆かと思ったよ…ビーストボーイは抜け目がないからね…」
シロによってすっかり元気を取り戻した彼には…俺の嫌味も通用しない様だ。
はぁ…
実力主義の競争社会で揉まれた、叩き上げの男は…俺よりも一枚も二枚も上手だった…手の上で、転がされた。
俺は軽いため息を吐くと、パソコンの向きを元に戻して、カメラをジト目で見つめて言った。
「シロにも弁護士を付けます。財産の取り分けの書類を作成して共有しましょう。」
いなす事は諦めた。
現実的に、彼が死んだ後のことを考えよう。切り替えが大事だ。
そんな俺の態度に、勇吾さんはケラケラ笑うと、先程とは全然違うお茶らけた表情をして言った。
「ほらね?シロ…。お前の恋人は俺に厳しいんだよ?エンエン…エンエン…死んだ後の事を話そうって言われたぁ…エンエン…」
はっ!どっちがだよ!嫌になるね…!
「そうだ…依冬、そんな意地悪な事…言うんじゃないよ…」
どうしたものか…背中から誰かが切り付けて来るよ。
この年代の男はみんなそうなのか…糞みたいな年代だな。
桜二、あんたはいつからそっち側の人間になったんだ…?
あんなに、この結婚を無効にするって息巻いてただろ?
…いつの間にか、俺は四面楚歌の状況だ。
余裕の笑顔を向け続ける豆腐メンタルの男を睨みつけていると、そっと俺の背中を撫でながらシロが言った。
「意地悪しないで、仲良くして…。依冬は、オレの事を心配してるだけなんだよ。可愛い依冬を虐めないでよ、勇吾。」
画面の中の男は瞳を細めると、口を尖らせて言った…
「分かってるよ?ダーリン。俺はそんな事しない。桜ちゃんはするだろうけどね…」
そう言って手元の書類にサインをすると、脇で待っている誰かに手渡しながら言った。
「シロ?さっきの修正、見事だったよ…。モモが喜んでた。ダンサーの子達が一緒にやるならシロが良いってごねるんだ。ふふっ!困っちゃうよ…。ふぅ…」
そう言ってため息を吐くと、頬杖をついて画面を見つめて言った。
「ダーリン…いつ帰るの?」
その瞳は…嫌でも伝わる愛おしさを醸し出してる。
なんだか、見てはいけない物を見せつけられてる気分になって…居心地が悪い。俺も見てると言うのに…この男には、シロしか見えていないみたいだ…
「ふふ…勇吾、そうだな…3月になったら一旦帰るよ?あなたの公演をとっても楽しみにしてるんだ。モモにも伝えて?愛してるって。」
シロはそう言って笑うと、桜二の膝に再び顔を乗せて彼のお腹をナデナデし始めた。
いつの間にか桜二が敵に変わって…いつの間にか足らなかった書類が揃っていた。
…馬鹿を見たのは俺だけ。
シロに助けて貰って…意地悪な大人から守って貰った…
ダサすぎて…嫌になるよ…
「またね?ハニー。チュチュチュチュ~!」
シロがそう言って手を振ると画面の勇吾さんも手を振って…通話を終了した…
ノートパソコンを乱暴に閉めると、背後を振り返って言った。
「桜二!どうして心変わりしたんだ!あんなにシビルパートナーシップを無効にしてやる!って息巻いてたじゃないか!さっきまでシロの事も無視して、プリプリ怒ってたのに!こうやって、土壇場で、はしごを外されるなら…俺はもう、あんたとは共闘しないからなっ!…うわん!」
ソファに突っ伏してウソ泣きすると、シロが俺の背中を撫でて言った。
「…騙されたの?」
そうだ…騙された!
いいや、あいつは気が変わったんだ!
俺みたいに…勇吾さんの資産に目が眩んで、そのうち死ぬかもしれないって思い直して…彼とのシビルパートナーシップを認めようとしていたんだ。
だから、だから…あんなに勇吾さんと通話を始める前、狼狽えていたんだ!
シロは俺の背中を撫でながら、顔を近づけると小さい声で言った。
「桜二は…どっちかって言うと、クズなんだ…」
どっちかって言うとって言うレベルじゃない!振り切ってクズだ!
「うわあん!シロ…!」
俺はそう言うと、シロに抱き付いて彼の胸に顔を擦り付けてグダグダに甘えた…
だって、意地悪な大人に囲まれて…あざ笑われたんだ…傷付くよ。
「よしよし…よしよし…」
そう言って頭を抱きしめて撫でてくれる優しいシロが…俺の傍に帰って来てくれて…本当に良かった…。
桜二は信用できないクズで…勇吾さんは意地悪なクズだ。
#桜二
「…どうして気が変わったの?」
シロのお土産…
シングルモルトウイスキーをロックで割っていると、あの子が俺の腰に手を当てて顔を覗かせて聞いて来た。
どうして…?
俺のベッドの下から”宝箱”が無くなっていて、焦ったから…なんて、言えない。
「…別に」
そう言うと、あの子の腰を掴んでロック割りのウイスキーと一緒にソファに連れて行く。
「その指輪…嫌いなんだ。外してよ…」
あの子を膝に乗せてそう言うと、シロは左手の薬指から指輪を外して、右手に入れ変えて言った。
「…これだったら?」
ははっ!
「不思議だな…嫌じゃない…」
そう言ってあの子の背中に顔を埋めて、ため息を吐いた。
これが…俺の落としどころなのかよ…ダサいね…
あの子が依冬とセックスを初めていじけた俺は、自分の部屋に行って出かける支度をした…その時、気が付いたんだ。
…”宝箱”がベッドの下から無くなってる。
たまたま取り出してるだけかと思ったら、あの子のベッドの下に隠されていたんだ。
俺はその事に激しく動揺して、腹を立てていた事が怖くなった。
あの子が離れる様な気がして、堪らなく怖くなった。
だからって勇吾と結婚した事を許せる訳も無くて…当てもなくふらつくと、夕方の公園のベンチに腰掛けて、楽しそうな家族連れを眺めて、みんな死んじゃえば良いのにと思っていた。
ふと、ポケットに入れた携帯電話が震えて、取り出して相手を確認した。
勇吾…
あのクソッタレ…
お前のおかげで俺がどれだけ悶々としてると思ってるんだ…!
全く、許せないね?
通話ボタンを押して耳にあてると言った。
「お前なんか死んじゃえよ。ば~か…」
電話口の勇吾はケラケラ笑うと声色を変えて言った。
「桜ちゃん…怒らないで聞いてよ。俺が結婚しようって言った時、シロは、結婚なんて意味が無いって言って断ったんだ。だけど、あなたがそれで安心するなら…しても良いよって言ってくれた。ふぅ…。つまり、あの子はそこに何ら特別な意味も、理由も持っていない。ただ、俺がそうしたがったから…しただけなんだ…。」
勇吾はそう言うと、ため息を吐いて言った。
「勝手に…申し訳ないです…」
なんだ…?
「桜ちゃんと言う、あの子の特別がありながら…僕という彼のお気に入り程度が…こんな出過ぎた真似をしてしまって、申し訳ございません…」
…なんで、こんな話し方してるんだ…?
ふざけてるのか…?
本当に、下らない男だ…呆れるよ。
俺はぼんやりと視線を泳がせると、滑り台から落ちそうな子供を見てワクワクした。
早く落ちて…前歯を全ロスすれば良いのに…
なに、どうせ乳歯だ。後から永久歯が生えてくるさ。
何も話さない俺を気にする様子も無く、勇吾は淡々とひとりで話した。
「桜ちゃん…?シロを怒らないで。あの子は、俺を繋ぎ留めてくれたんだ。馬鹿になって、公演の出来も危ぶまれる状態だった。そんな、俺の横っ面を引っぱたいてあの子は言った。勇吾、丹田に気合を入れろ!男だろ!って…。このままだとお前の公演は大コケするって…言った。その時…鳥肌が立った。やっと、目が覚めたんだ。」
「ふふっ…!」
滑り台から子供が落ちて大泣きする中、いつまで経っても現れない親の姿を、泣きながら子供が探している。
その様子が、おかしくて声を出して笑った。
「桜ちゃん…あの子が俺を助けようとした時、俺は全ての原因をあの子のせいにして…お前なんて要らないと言って…突き飛ばしたんだ。」
「…は?」
黙ってられなかった…
だって現れた親が…どう見ても高校生くらいなんだ。
あんな年から親になるなんて…地獄の様だ。
「…そうしたら、あの子は、だったらどうして桜二に助けを求めたんだ!って…今更、要らねえなんて言ってんじゃねえって…ブチ切れた。あふふ!」
勇吾は涙声になってそう言うと、呼吸を整える様に深呼吸をして言った。
「人は弱くて、脆くて、儚い…俺の好きな文芸作品はそんな物を抗えない感情を主軸に表現してる。誰しも共感するものだから…長く愛される。今回、俺はそんな物を体感したんだ…。なぜ、拒絶するのか、なぜ、堕ちていくのか…考察して演出に生かせと…あの子が言った。信じられる?ふふっ…ふふふっ!正直、痺れたよ…!大好きなんだ。あの子の感性も、美意識も、何もかも…!俺の理想を叶えてくれるのはあの子だけなんだ!どうか、俺を、あの子に繋いでおいてくれよ…!」
悲痛な声で懇願するクソッたれの声を聞きながら、暗くなっていく空を見上げる。
あぁ…シロ…いけない人だな。
こんなに人の中まで抉って染めて…取り返しもつかないし、後戻りも出来ない。
勇吾は…もう、彼の奴隷。
正真正銘の…奴隷。
他の奴では生きていけないんだ。
俺や依冬の様に…もう他ではダメなんだ…
「分かったよ…」
短くそう言うと、勇吾の電話を切って六本木のつるとんたんへ向かう。
彼の好物を食べさせて…機嫌を取ろう。
そして、許してもらおう。
「だからあぶねえって言っただろっ!馬鹿じゃねえの!」
そう言って前歯を折って大泣きする子供を怒鳴りつける、高校生のような親を見た。
あの人なら…
痛かったね…と言って、抱きしめてくれるんだろうな…
馬鹿な事なんて織り込み済みみたいに、意に介さないで…ただ、痛かったねと傷付いた心に寄り添ってくれるんだろうな…
良いお母さんになりそうだ。
ふふっ…
こんな事考えるなんて、バカみたいだ。
「水割りとロックの違いは?」
俺の手の中のウイスキーを手に取って、溶けて薄まったウイスキーを覗いてシロが言った。
「…さあ、水割りは初めから薄いけど…ロックだと、自分で調節しながら飲める。氷が解ける前に飲めば…ほぼほぼストレートだ。こうして氷を溶かして飲んだら、水割り。」
俺がそう言うと、あの子は一口ウイスキーを飲んで言った。
「うっす!」
ふふっ…
「足して来て…」
そう言うと、あの子のお尻を叩いて催促した。
「人使いが荒いんだ!」
そんな事を言いながらも、シロはウイスキーを足して持って来てくれた。
「俺はウイスキーは飲まない。」
シャワーから上がった依冬が、そう言いながらシロのお尻を撫でて自分の部屋へと向かった。
最低だな…この家には、スケベしかいない。
「はい。どうぞ?」
俺の隣に座ると、指でカラカラとグラスの中をかき混ぜて、俺の口に指を向けて言った。
「…舐めて?」
ふふ…可愛いだろ?
迷いなんて無い、あの子の指をパクリと口に入れると、舌で舐めて絡めて、そのままゆっくりと口から出した。
「あぁ…桜二ってばエッチだね?…もしかして、オレの事誘ってるの?」
シロはそう言って瞳を細めると、にっこりとほほ笑みながら俺の膝に跨って乗った。
「さあね…」
俺はそう言うと、あの子のお尻を撫でて抱きしめる。
あぁ…久しぶりだ…この感覚。
「シロ…お帰り…頑張ったね、よくやったね…」
そう言ってあの子の唇を舌で舐めると、迎えに来たあの子の舌を舐めて絡めていく。
「オレは頑張って…桜二と依冬の元に戻って来た…ねえ…あっ…ふふ、偉いだろ?」
ああ…とっても偉い。
そして…勇吾をぶっ飛ばした話が…面白かったよ…
「どれどれ…カワイ子ちゃんとお楽しみタイムをしようかな…」
俺はそう言うとケラケラ笑うシロを抱えたままソファを立った。
「なんだ、もう喧嘩は終わったんだ。」
依冬とすれ違うとそんな事を言われた…心外だな。
「喧嘩なんて…してない。」
依冬にそう言うと、俺の頬を掴んで自分に向けるあの子を見つめて、クスクス笑いながらキスをして、自分の部屋に連れ込む。
今夜は寝かせないよ…カワイ子ちゃん。
#シロ
「朝だよ…シロ~…朝だよ~」
だめだ…オレはとっても疲れたんだ…
久しぶりの桜二とのセックスは激しさを極めた…
気持ち良すぎて何度も失神しかけたせいで…オレはなぜか顎の下が痛くなった。
きっと首を伸ばし過ぎて…つったんだ。
ありえないだろ?こんな場所…普通つらない。
「シロはお仕事無いので、寝てても良いのです…」
そう言って布団の中に潜ると、容赦なく引きずり出されてリビングまで連れて行かれる。
「シロ?なんか…凄い沢山花が送られて来たけど…」
依冬がそう言いながら両手に花を抱えて、眉を下げるとクゥ~ンと鳴いた。
桜二から降りて、依冬の足元に並べられた花を見て、ケラケラ笑って言った。
「そう言えば…勇吾のスタッフが、この花どうしますって聞くから、東京の自宅に送ってって言ったんだ~。」
メッセージカードのささったままの状態で送られてきた花を眺めて、外装のラッピングを解いてあげる。
「これは…なんの花かな?可愛らしいね?」
次から次へとラッピングを外すと、リビングの日当たりが良い場所に移してあげる。
「桜二?水あげたい。」
オレがそう言うと、彼は首を傾げて言った。
「コップか何かに入れて持ってきなさいよ。俺はご飯の支度で忙しいんだ。」
なんだ。昨日はあんなに甘々の甘だったくせに!
カワイ子ちゃん…ああ、カワイ子ちゃん…!って言ってたくせに!
依冬のプロテイン用のコップを手に取ると、水道の水を入れて、花の鉢に水をあげる。
「ああ!大変だ!お漏らしした!」
鉢の下から水がどんどん流れて来て、大惨事になった。
「ご飯だよ…」
眠たそうな顔をして桜二がそう言った。
「わ~い!ごっはん!ごっはん!」
チャリン…
依冬が500円の朝食代を支払う音をいつもの様に聞いて、目の前に置かれた黄色いあいつを見つめて言った。
「んんっ!!美味しそう、美味しそう!」
「いただきます…」
依冬がそう言って黙々とご飯を食べ始めた。
オレは桜二の卵焼きを箸で摘んで持ち上げて身悶えする。
「んふ~~!食べたかったんだよ?お前に会いたかったんだ!」
「早く食べなよ。俺が食べちゃうよ?」
依冬がそう言ってオレの卵焼きを狙うから、自分の腕で隠す様に覆うと、パクリと一口食べて、悶絶した。
「あぁ…!これだ、これだよ!この味だよ!」
いちいち悶絶するのが長かったせいか、オレがご飯を食べ終わる前にふたりともごちそう様をしてしまった。
朝の支度を忙しそうにするふたりを眺めながら、ゆっくりと卵焼きへの愛を語った。
「ボカァね…黄色ちゃんの、この…幾重にも巻かれた部分が…とっても、はぁ~好きなんだよ?ん~、ん~…。」
「シロ、行ってきます。ちゅっ!」
そう言ってオレに行ってきますのキスをすると、依冬が玄関へ向かった。
「今日は…9時くらいかな…行ってきます。」
そう言ってオレに行ってきますのキスをすると、桜二が玄関へ向かった。
そして、僕チンは…ひとりになるのでした。
「後で、お漏らしの花に水受け皿を買いに行こう…」
そんな事をひとりでポツリと呟いたら…玄関が開いて誰かが戻って来た。
「忘れ物したの~?」
そう言いながら玄関へと向かうと、桜二と、依冬…ふたりとも帰って来ていた。
「あふふ!どうしたの?」
険しい顔をしたふたりにそう尋ねると、依冬が困った顔をして言った。
「シロ…日本の人だと思うけど…海外の雑誌の記者が外に沢山居るんだ…」
へ…?
「俺と依冬にマイクを向けて、勇吾のパートナーとどういう関係だって聞いて来た。車の周りにいて、出せないんだよ…。」
桜二はそう言うと、時計を見て言った。
「シロ…会議に遅れちゃう…」
はぁ…
オレはズッカケを履くと桜二と依冬を連れて車の前まで見送りに行った。
彼らが酷い目に遭わない様に…オレが矢面に立ってやろうじゃないか!
「わあ…どっから来たんだ!」
玄関の外に出て眼下を見下ろすと、不審者通報をしても良いくらいの…微妙な人数の記者がふたりの車が停まった駐車場で待ち構えていた。
日本人だけど、腕章には英語が書かれていて読めない。
大股開きで彼らの前に立つと、そそくさと車に向かうふたりを横目に尋ねた。
「なんだ?何の用だい?」
オレの言葉に、記者の1人が桜二と依冬を指さして聞いて来た。
「彼らとは…どんなご関係ですか?」
そんな物、決まってる。
オレはその記者の指を掴んで下に下ろすと、仁王立ちして胸を張って言った。
「オレの恋人だよ?可愛いだろ?」
「はっ!こ、これは…浮気という事で良いですか?」
食い気味に聞いて来る記者に言った。
「浮気?勇吾公認の恋人だよ?どうして1人としかセックスしちゃダメなんだよ?あんただって、他の女とセックスしてんだろ?バカみたいな事で騒ぐんじゃないよ。程度が知れてるよ?」
オレはそう言って鼻息を荒くすると、桜二と依冬を見送って手を振った。
そしてクルリと振り返ると言ってやった。
「これ以上ここにいたら、警察に通報するからな!」
そんな中、ひとりの女性記者が言った。
「あの…あの人は…」
「ん?」
オレは首を傾げて彼女を見つめて言った。
「オレの大切な人たちだよ?言ったでしょ?お姉さんも朝早くから大変だね?」
そう言って踵を返すと、シャッター音を背中に受けながら自分の家へと戻った。
もう、勇吾…
勇吾の奥さんで居るのは、思った以上に面倒臭いかもしれないよ?
家に戻ると、洗濯物が終わった音を聞いて急いで向かう。
オレがやる事なんて、いつも同じ。
洗濯物を乾燥機に移して、乾燥させて…終わったらストレッチをしながら畳むんだ。
携帯電話で支配人にメールをする。
“おじいちゃん!いつになったらポールが立つの?”
もう1月13日。
あっという間に連絡が来ると思っていたお店からの連絡は、まるでオレの事なんて忘れちゃった様に何もなかった。
「はぁ~やんなっちゃうよ?踊りたいのにね~?」
今日は、ロメオにお土産を届けに行こうかな…
携帯電話がブルルと震えて、支配人からのメールを受信する。
“おじいちゃんはいつも勃ってるよ?”
最低だな…
本当に最低だ。
携帯をソファに放り投げると、体を屈めてストレッチを始めた。
携帯が再び震えて、今度はテレビ電話の受信を知らせる。
「あ…勇吾だ。」
通話ボタンを押すと、ワインを片手にベッドに横になる彼が映った。
「ふふっ…絶対に、こぼすよ?」
オレがそう言って前屈をすると、彼はクスクス笑って言った。
「こぼさない。俺は器用だから、足の指の間でワイングラスも掴めるよ?」
ふふっ!ほんと、バカなんだ。
画面に映る勇吾を見つめると、さっきの事を思い出して彼に言った。
「さっき…家の外に雑誌の記者みたいな人がいてさ、桜二と依冬を見てこの人たちは誰ですか?浮気ですか?って聞かれた~。」
脇の下を伸ばしながらそう言うと、勇吾はワインをこぼして前のめりになって言った。
「はあ?シロの家がどうして分かったんだろう…?多分、ゴシップ誌の記者だよ…。で、シロは何て言って追い払ったの?」
勇吾はこぼれたワインを拭きながらそう聞いて来た。
オレは開脚をしてお腹をベッタリ床に付けると言った。
「別に?恋人です~。あなたも他所の女とセックスするでしょ?って言った。」
「あ~はっはっはっは!!」
大笑いした勇吾が再びワインをこぼしたから、オレは怒って言った。
「もう~!だめだぁ!ワインこぼし過ぎだぁ!」
「ヒ~ヒッヒッヒ!シロ?今度そいつらが来たら写真を撮って俺に送って?良いね?」
勇吾はそう言うとベッドのシーツを剥がし始めた。
えぇ…?そんなにこぼしたの?
「シロのパジャマが欲しい。お揃いの買って俺に送って。」
剥き出しのマットレスに寝転がると、彼はそう言って瞳を細めた。
「オーケー、ハニー」
そう言って逆立ちすると、勇吾を見ながら腕立て伏せをする。
「お~スゴイ、スゴイ!」
ケラケラ笑う彼の声を聞きながら、筋トレを念入りにする。
だって、モモや他のダンサーの子はオレよりも三角筋が立派だったんだ。
オレはインナーマッスルがガチムチだけどね!
「だめだめ、そんなんじゃ筋肉質になっちゃうよ。バレエをしなさいよ。ほら、アラベスクして…!ムキムキは嫌だ。可愛いシロたんが良いんだから。」
勇吾はそう言うと、携帯を動かして全身が映る様にしてアラベスクをして見せた。
「ああ…綺麗だね?」
ブレない彼のアラベスクに夢中になると、逆立ちをやめて携帯を両手で持った。
「もっと綺麗な事して?」
オレがそう言うと、彼は美しくフェッテターンを回った。
「ああ!勇吾、綺麗だね?触りたくなっちゃうよ?ふふっ!」
デレデレに鼻の下を伸ばすと、同じ様に鼻の下を伸ばした彼と見つめ合った。
「ふふふ…!してみる?」
オレがそう言うと、何も言ってないのに彼には意味が通じた。
「してみる…」
にやけて笑う彼を見つめて、意を決すると、携帯電話を持ったまま自分の部屋へと走って行く。
何をするかって?
もちろん、テレフォンセックスだ!
#依冬
これは、勇吾さんのスキャンダルになるのかな…
それとも、シロのスキャンダルになるのかな…?
東京のクレイジーボーイ…現地妻、発覚みたいな…?
「ぷぷっ!」
吹き出して笑うと、同行した弁護士の訝しげな視線を浴びる。
俺が弁護士と訪れたのは心療内科…とは言っても刑事事件の容疑者が入れられる、国立の大病院だ。
無機質で味気の無い廊下を進んで、目的地の病室にどんどん近付いて行く。
それだけで、胸が苦しくなってくるんだ…
でも、大丈夫。
あいつは薬漬けになって、眠ってる状態だから…
相続の手続きをしていた時、あいつ名義のままの会社の所有物件がいくつかあった。
俺はそれをすべて自分名義に変える為に、弁護士を伴ってあいつの状態を確認しに来た。名義人本人にそれらの管理、維持が不能だと証明出来れば、自動的に俺の物になるんだ。
ガララ…
ん…?
病室の扉を開くと、知らない中年男性がベッドの隣に置いてある椅子に腰かけていた。
誰だよ…
眉間にしわを寄せて相手を見ると、そいつの体の向こうに…動く物を見て心臓が跳ねた。
「…ど、どうして!」
咄嗟にそう言うと、恐怖に体が強張っていく。
薬漬けにして眠らせていた親父が…
目を、覚ましていた。
「依冬…随分派手にやってくれたな…?」
なんで…
なんで…?
なんで、目を覚ました…?
目の前の状況に何も言えなくなって立ち尽くしていると、親父のベッドの脇に腰かけた中年男性が、体をこちらへ向けて言った。
「お父様の顧問弁護士をしています…森と申します。息子さんとは、初めまして…ですよね?病院より、この様な処遇を受けてると伺いまして…。刑事事件の容疑者といっても、主張も、人権もありますし…。もしもの時の為に、こういう事態の委任状をお父様から頂いておりましたので、私の独断で、薬の一切を、断たせていただきました。」
森と名乗った中年男性はそう話すと、不敵に笑って俺を見て言った。
「結城さんは、当時心神耗弱状態だった。でも、今はまともに戻られた…。きっと、依冬さんと…もうひとりの桜二さん?でしたっけ?彼が一緒になって結託した事柄に…激しく動揺なされたんだ。ここにね、私は情状酌量の余地が…あるように思えるんですよね。」
何を勝手な事をっ!
視界の隅に映る俺を見つめる親父の目を、見られない。
体が震えてしまいそうで…
大声で泣き出してしまいそうで、
怖くて…堪らない!
そんな動揺を察せられない様に取り繕うと、俺は親父を見下ろして言った。
「意識が回復したとしても…あんたはここから出られない。殺人未遂の犯人だからな…」
俺の言葉を聞くと、親父はニヤリと口端を上げて笑った。
もう見る事が無いと思っていた…そんな表情に…
ゾクッと背中に悪寒が走って、冷たい汗が流れ落ちていく…
「俺が動けなくても…彼がいる。」
親父はそう言うと、不敵に笑いかける森を見つめて言った。
「彼は有能だよ。お前も桜二も…シロも、どうやって苦しめてやろうか…考えてたんだ。とりわけ…桜二は、殺しても殺したりないよ…」
俺は同伴した自分の弁護士を振り返ると、彼に言った。
「これは脅迫だ。」
「お~ほっほっほ!怖いなぁ…依冬。落ち着けよ…そんな、ブルブルに震えて…父さんが怖いのか?可哀想に…お前みたいな小童が、脅迫だぁ!なんて…あははは!面白い事を言うようになったもんだ。」
シロ…
どうしよう…
蛇が、目を覚ました…
冷汗が流れる背中を抱えて、精いっぱいの虚勢を張って、目の前で親父と不敵に笑う弁護士の森を見つめて言った。
「…あなたも、父の口車に乗って…犯罪に手を染めたりしたら、弁護士を雇う側になりますよ。」
彼の返答も聞かずに踵を返すと、逃げる様に病室を後にした。
足が震えて仕方がない…
どうしよう…
どうしよう!!
「予定が変わりました。今日はお帰り下さい…」
そう言って同行させた弁護士をタクシーに乗せて帰すと、震える手で桜二に電話を掛けた。
「も、もしもし…!桜二!大変だ…あいつが、あいつが…目を覚ました…!どうしよう!桜二、どうしよう!俺たちに何かするって…ほのめかしたんだ!」
動揺して、怖くて堪らなくて、桜二にみっともなく縋りついた…
でも、彼は、俺の動揺の影響も受けずに、いつもの調子で淡々と言った。
「…そうか。」
そうか?
そうか?
それだけ…?
「俺はお終いだよ。せっかく、会社を手に入れたのに…せっかく、軌道に乗せたのに…。もう…お終いだ…」
項垂れてそう言うと、電話口のあいつはケラケラ笑って言った。
「ははっ!そんな事には…ならない。」
嘘だ…
あの蛇に睨まれたら最後…死ぬまで、ゆっくりと絞め続けられるんだ!
「…あぁああ!もう!!どうして!?どうして…!!」
込み上げる恐怖が、抑えられない!
動揺してそう叫ぶと、いつもの調子で桜二が言った。
「…ビビるなよ、依冬。あいつはそこから出られない。捕まってるんだ。手も足も出せない。警察が目を光らせてるんだ…。彼らだって馬鹿じゃない。」
違う!
あいつには、弁護士の男が付いてる!
俺は苛立ちを抑えながら、のんきにケラケラと笑う桜二に言った。
「…あいつのお抱え弁護士が委任状を行使して、投薬を止めた。薬漬けにされて意思表示が困難な状態になる…親父は、こんな未来も想定に入れていたかの様に事前に手を打っていた。参ったよ…。少し話しただけで分かった…。親父の弁護士…彼も真っ当な奴には見えなかった…」
「その弁護士の名前は…?」
「森…」
桜二は俺の言葉を聞くと、急に押し黙って何も言わなくなった…
「…知ってるの?」
電話口の彼にそう尋ねると、桜二は低い声で言った。
「あの人には…言うなよ。いつも通りに過ごすんだ。…良いな?」
いつも通り…?
いつも通りに過ごす…
シロに、知られないように。
あの…洞察力の塊のような人に…?
…俺の動揺がバレない訳がない!
「…分かった。」
ポツリとそう言うと電話を切って、車に乗り込んで…家へと帰る。
数日分の荷物を持って…しばらく留守にしよう…
…そうでもしないと、彼に余裕で、バレる。
動揺した心を察せられて…すぐにバレてしまう。
俺が隠し事をしても…すぐに見抜くような人なんだ。
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