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第17話
「ただいま…」
遅くに帰って来た依冬は、桜ちゃんの声を聞くだけで不機嫌に眉をひそめた。
…仕方が無いよ、苦手なんだ。
「おかえり~。依冬?見て?桜ちゃん…寝返りが出来る様になったんだ。」
オレがそう言って、ハイハイしようと手足を動かして顔を赤くする桜ちゃんを指さすと、依冬は口を尖らせて言った。
「この子、一体いつまで居るの?今日の夜もうるさかったら…俺、ほんと、ホテルに泊まるから…!大体…誰の子かも分からないのに…!当たり前の様に、ここに居る事が許せない!」
依冬は…赤ちゃんが苦手。
泣き声も…この可愛らしい姿も、全て、苦手みたい…
「うん…」
背中を丸めてそう言うと、桜ちゃんの頭を撫でて言った。
「この子が…悪い訳じゃない。依冬が悪い訳でも無い…。無理やり繋いでる…オレが悪いんだ。だから…この子を、悪く言わないで…。」
そう言うと、不意に涙がポタリと落ちた…
悲しい訳じゃない…こんな風に言われる桜ちゃんが不憫で、可哀想だった。
でも、依冬だって…悪い訳じゃないんだ。彼は結城さんの事で参ってる。
結城さんが怖くて…苛ついてるんだ。
でも、オレが離れるなって言ったから…うるさいって分かっていてもホテルに泊まらないでここに戻って来てくれてる。
どちらにも無理をさせてる癖に…夜泣きする桜ちゃんをどうしたら良いのか分からない…そんな自分が、情けなくて、泣いたんだ。
「シロは昨日、児童相談所の人に会うって言ってたよね?それはどうなったの?どうして引き取って貰わなかったの?」
「だって、児相なんて…役に立たない…」
ぽたぽたと涙を膝に落としながらオレがそう言うと、依冬は深いため息を吐いて言った。
「…母親でもないのに、面倒を見るなんて…無理なんだよっ!」
は…?
「待てよっ!」
吐き捨てるだけ吐き捨てて自分の部屋に行こうとする依冬を引き留めると、ギロリと睨みつけて言った。
「母親じゃないと無理だぁ…?オレの母親は母親の癖に無理だったぞ!?ろくずっぽも知らねえクソガキが…偉そうな事、言ってんじゃねえよっ!」
許せなかった…母親でもないのにって、言われたのが…ムカついた。
オレは桜ちゃんのお母さんになるつもりはない。
ただ、同じ様に愛したいって思った。
安心できる場所を、提供したかった…
その為に出来る事を自分なりにしたつもりだった。
なのに…それを”母親じゃないから“の一言で一蹴した…こいつが、許せなかった。
オレが怒った様子を見せると、依冬は急に大人しくなって言った。
「…そんなつもりじゃない…」
「桜二の母親は結城さんにとち狂って…幼いあいつを放ったらかしにして鬱になった。誰も頼らないで…鬱のままあいつを育てた。これが…母親だ。依冬!これが、母親だよっ!オレの母親も、あいつの母親も、立派に子宮のある、女なんだ!でも、子供を愛さないで、苦しめた!これが…母親だ!こいつらじゃ無いと出来ない事、それはひとつしかない。子供を産む事だけだ!オレ達、男はそれだけはマネ出来ない。でもな…それ以外なら、いくらでも十分に足りる程に、与える事も、生み出す事も出来るんだよっ!」
そう言って桜ちゃんを抱きかかえると、依冬の顔面スレスレまで顔を近づけて言った。
「お前は寝ないと死ぬのか?」
「…いや」
「じゃあ、寝るな…ギャアギャアうるせえのはお前の方だ。マザコンのクソガキが…笑わせんな。」
「シロ~…!」
桜ちゃんを連れて自分の部屋へ行くと、追いかけてくる依冬を能面の表情で見つめながら部屋のドアを閉じた。
…母親じゃないと、この子のお世話が出来ないだと?
そんなふざけた考え、今すぐやめて欲しいよ。
そういう男は…女を妊娠させて、出産させて、母親なんだからお前がやれ。とか、平気でぬかすんだろうな…
こんな男、甘やかしちゃダメだ。
一発ぶん殴って、思い知らせてやるのさ。
てめえがどんだけマザコンのクソガキかって、思い知らせてやるのさ。
どうせ…オレが口も利かなくなったら、慌ててゴマを擦り出すんだ。
みっともなく体に纏わり付いて、ご機嫌取りをするんだ。
ふん!
ムカムカする気持ちを押さえて、桜ちゃんをベッドに寝かせるとお腹をトントンした。
目がランランと輝いてる桜ちゃんは、昨日よりオレとこの場所に慣れたみたい。
きっと、今日は寝てくれる…
コンコン…
桜二の部屋の電気がついて、彼が移動するのが間仕切りの合間から見える。
だったら、オレの部屋をノックするのは、マザコンのクソガキだ。
ほらね…?
すぐにこうしてご機嫌取りに来て、謝り倒すんだ。
「シロ~…ごめんよ…そんなつもりじゃないんだ。」
扉の向こうでクンクン泣く依冬を無視して、オレは桜ちゃんのおでこを撫でた。
グルグル撫でると、不思議な事に桜ちゃんの瞼が落ちていく…
「ふふっ…気持ち良いのかな…」
口元を緩めて笑うと、桜ちゃんのおでこと瞼をぐるっと手のひらで撫でて覆い隠していく。
「ふ~んふふ~ん…ふふふふふ~んふふふ~んふふふ~んふふ…」
そんなネバ―エンディングストーリーを鼻歌で歌いながら…桜ちゃんを眠りに沈めて行く。
「ああ…不思議だ。どうしてかな、寝ちゃった…」
そう言ってクスクス笑うと、桜ちゃんの隣に寝転がってあの子を眺めながら一緒に寝た。
疲れた…
寝られるうちに寝ないと…体が持たない…
「シロ…朝だよ…」
そんな桜二の声に重い瞼を開いていく。
「たんたん!たんたん!」
目の前に現れた桜ちゃんはご機嫌な様子でオレの頬をぺちぺち叩いた。
「ふふっ!桜二?桜ちゃんが夜泣きしなかった!」
そう言って桜二を見上げると、彼はオレにキスして言った。
「さすがだ…桜ちゃんを絆したね。」
ふふっ!
桜二が…この子を“桜ちゃん”って呼んだ。
それが嬉しくて…ちょっとだけ、寂しかった。
#依冬
やっちゃった…
あんなに怒ると思わなかった。
シロの部屋の扉の前で、ノックはしたものの中に入れずに立ち尽くしてる…
あれはシロの怒りレベルで言うと…マックスだ。
目が据わって、低い声でまくし立てる様に話始めて、命令口調になる。
これがあの人の…怒りのマックス。
だって…あの赤ん坊が泣くのが嫌なんだ。
それに…ずっとシロの傍に居て…なんだかムカつくんだ。
「依冬…なんだ。怒らせたのか…」
風呂上がりの桜二がそう言って俺の顔を見て言った。
「明日になれば落ち着くよ。疲れてんだ…」
はぁ…
俺だって寝れてないし、イライラして仕方が無いんだ。
「…どうしてあんたは嫌がらないの?あぁ、自分の孫だからか…」
俺はそんな嫌味を言うと、俺を見つめる桜二に言った。
「あんたの子供が置いてったんだろ?親に似て…無責任なんだな…」
そう言って自分の部屋に戻ると、沸き起こる苛立ちを払しょくする様にトレーニングルームへ行った。
無心になって…筋トレして沢山汗をかいたら、少しはマシになる気がする…
本当…?
目を覚ました親父が怖くて、仕事に身が入らなくて、下らない事でイライラしてる。
俺を守るって言ったのに…あの、赤ん坊に付きっ切りで、俺の事なんて忘れちゃったみたいに、楽しそうに笑うシロが…許せなかったんだ。
だから、わざと傷付ける様な事を言った。
そして、派手に怒られて…今に至る…。
「はぁ…」
日課のトレーニングを終えると、シャワーを浴びて、自分の部屋に戻る。
ふと、隣のシロの部屋の扉を見つめる。
赤ん坊の泣き声は…今の所、聞こえてこない。
ガチャリ…
シロの部屋を覗くと、布団も被らないで赤ん坊の隣で眠っている彼を見下ろした。
唇を尖らせると、眠る彼に不満げに言った。
「…マザコンじゃないよ。」
そんな俺の呟き声に、赤ん坊がビクッと動いて、その様子に驚いて体を固める。
やばい…起こしたら、大変だ…
シロにそっと毛布を被せると、足音を立てない様に忍び足で一目散に退散した。
「依冬…ちょっと良いか?…結城の話だ。」
廊下に出ると、桜二がそう言って声を掛けて来た。
俺は頷くと彼の後を付いてリビングへ向かう…
「さっき…酷い事を言って、ごめん。イライラして…酷い事を言った…」
俺がそう言うと、彼は俺を見て首を傾げて言った。
「本当の事だから…何とも思ってない。」
はは…
桜二はキッチンへ行くと、グラスに氷を入れて、シロがお土産で買ってきたシングルモルトウイスキーを注いで言った。
「森という弁護士…結城の元で汚い仕事をしていた時に、何度か名前を聞いた事があるんだ。だから、その時のつてに話を聞いて来た。有罪の案件も無罪に変える。被害者泣かせの弁護士の様だ。彼が扱うのは、傷害、暴行、殺人未遂、放火、もろもろ…被害者が実際出てる案件ばかり…。彼は検察の証拠の不備を突くのが得意みたいで、証拠を価値のない物に変えて行ってしまうんだ。」
桜二はそう言ってグラスをぐるりと回すと、俺を見つめて言った。
「彼は結城の犯行に情状酌量を付けようとしてるみたいだ。あの湊のテープは処分しておいて良かったよ。情状酌量を立証出来ないと分かれば、きっと心神耗弱を主張してくる。それが無理なら…証拠の不備を攻めてくる…。指紋の取り方が間違ってるとか…証拠物件の取り扱いの不備なんかを責めて、その証拠の価値を無くしていく…これが、森のやり方みたいだ。」
そう言うと、哺乳瓶を消毒する入れ物を見つめながら桜二が言った。
「ちょっとだけ…悪い事をしようと思ってる。」
「え…?」
彼の言葉に驚いた俺がそう言うと、桜二は口元をニヤリと歪めて笑って言った。
「森さん…子供が居るんだよ。その子が…今度小学校に入るみたいなんだ。だから、ランドセルでも…買ってあげようと思ってね…。優しいだろ?ふふっ!その後、彼の自宅の住所を…そうだな、明らかに有罪だったのに、彼の弁護によって無罪に覆された家族に…教えてあげようかな?森さん…身重の奥さんがいるんだって。ふふっ!殺し屋は大切な物を作っちゃダメなんだ。こうやって…狙われるからね?」
殺し屋…?例えが物騒だな…
でも…悪くない。
「良いね…」
俺はそう言うと、深く頷いて桜二を見た。
彼はグラスの中のウイスキーをほぼストレートで飲み干すと、片手でウイスキーの瓶を持って、グラスに注ぎながら言った。
「あと…シロが、結城に会った。」
「はへっ?!」
驚き過ぎると、そんな漫画みたいな言葉しか出ないって…初めて知った。
いつ?
赤ん坊もいるのに…いつ、行ったの?
「…シロは、結城の入院してる病院を知らない。どうやって…知ったの?俺はあの人に知られない様にして来たつもりなのに。」
そう言った俺に桜二はグラスをユラユラ揺らしながら首を傾げて言った。
「さあね。彼は、ずる賢いから…」
そう言ってクスクス笑うと、瞳を細めて俺を見て言った。
「きっと…お前との約束を果たすつもりなんだ。」
約束…
俺が怖がる親父を…優しいジジイに変えてやる…シロはそう言った。
「無理だよ…」
俺が首を振ってそう言うと、桜二はクスクス笑って言った。
「…本当に?俺はハッキリ言って分からない。あの人なら…もしかしたらって、思う自分が居るんだ。だから…俺はあの人に賭けてみたい。その為にも…森の動きを止める事に専念する。」
シロなら…もしかしたら…
俺もそんな風に思ってしまう時がある…でも、目を覚ました親父を見たら、そんな甘い考えは吹っ飛んで行ったんだ。
「犯罪は犯すなよ…」
念を押す様に俺がそう言うと、桜二は肩をすぼめて言った。
「ランドセルを送るのは…犯罪じゃない。親切心だ…。余計な事をして、あの蛇を目覚めさせてくれた…お礼がしたいんだよ。俺は…礼儀正しい男だからね?」
礼儀正しい…?卑怯の間違いじゃないの?
彼が目の前で揺らすグラスの中で、カラカラとなる氷を見つめながら、ゆっくりとため息を吐いた。
シロが…いつの間にか親父に会いに行っていた。
それが…衝撃的だった。
一体、あいつと何を話したの?
あいつはその時…どんな反応を示したの?
そんな疑問が頭の中をグルグルとかけ回って行く…
薄めたウイスキーを一気飲みして、再びつぎ足し出した桜二に聞いた。
「…シロは、親父に何て言ったと思う?」
「聞けば良い…」
そう言って彼が見せたのは携帯電話…音声データを再生させる画面だった。
呆れた顔をすると、首を振りながら悪びれる様子もない桜二に言った。
「盗聴したの?シロは知ってるの?」
「ふふっ!あの人が知る訳無い。ベビーカーに盗聴器を仕込んである。行くなら…多分あの赤ん坊も連れて行くだろうって踏んでたんだ。あの人はインパクトが大好きだからね…。ぶつぶつ言ってる独り言まで面白いから、初めから聞いてみる?俺が特に気に入ってるのは、結城が彼を“湊”って呼んだ時、あの子が鼻で笑って言った“お馬鹿さん”が、一番面白かった!いなされて動揺するジジイを聞けば…お前もビビる事なんて、なくなるだろうよ…」
信じられない…
こいつは…ちょっと頭がおかしいって、今更ながら痛感した。
目的の為なら手段を選ばないんだ…大切な、シロでさえも利用する。
彼が親父の元へと向かうと踏んで…盗聴器を仕掛けて、何も言わずに行かせた。
それは、まるでトロイの木馬…
シロという木馬の中で…虎視眈々を反逆の機会を狙う…小賢しい男。
「あんたはシロを好きなのか…どうなのか…分からない時があるね…。俺だったら、あんな危ない奴の所に…行かせたくないよ。」
眉をひそめてそう言うと、桜二はにっこりと笑って言った。
「あの子は止めても聞かない。」
確かにそうだけど…
桜二が再生させた音声が流れ始めると、カラカラとベビーカーを押す音と、シロの“よっこらしょ”…なんて、聞きたくない言葉が聞こえてくる。
「桜ちゃん?あんな意地悪な男になっちゃダメだよ?正面から歩いて来て、全然避ける素振りが無いんだもん。やんなるよね?きっと子連れに嫌な思い出があるんだ。それか、仕事で馬鹿にされて…こうやって赤ちゃんを連れた可愛いオレにオラついて鬱憤を晴らしてるんだ…とどのつまり、くっだらねえ男なんだよ?」
「ぷぷっ!」
録音されたシロの独り言は…確かにおかしかった…
答えもしない赤ん坊にひたすらしゃべりかけてるんだもん…軽く引いたよ。
「ふふっ…ふふふ…あふふ…!」
音声を全て聞き終えると、得も言われぬ感情が溢れて…ボロボロと泣きながら笑った。
「シロ…、シロは赤ん坊にばっかりかまけて、親父の事なんて…忘れてしまったのかと思っていたんだ…!だけど、こうして…俺の為に、あいつに会いに行ってくれていた…!あんな風に挑発して…ふふっ!シルクの囚人服?あはは!あははは!!」
シロにかき回されて動揺する親父の声を…初めて聞いた。
それは、俺の知ってる親父の物と違う。
きっと…湊が知ってる親父の物とも違う…
シロは…あいつの中に、新しい一面を作ろうとしてるみたいだ…
“シロにからかわれて動揺するジジイ”…そんな、場所へと親父を引っ張って行ってるように感じた…
「…初めて聞いた。こんな…こんな風に話す親父の声を、初めて聞いたよ。」
俺がそう言って桜二を見つめると、彼は瞳を細めて言った。
「ここから、もっと、面白くなっていくだろうね…」
シロは相手の気持ちを汲む事に優れている人。
でも、そのせいで…ひとりで傷付いて自分を責めてしまう。
今までそんな…大きくて鋭い諸刃の剣を抱えて生きて来たせいか…
彼は、人の感情を…まるで波乗りするみたいに撫でて行く術を身に付けてる。
そうして、どこまで行ったらアウトで…どこまでだったら許容範囲か…相手の懐の中を自然と探っていくんだ。
でも…インパクトが大好きなシロは…
親父の許容範囲を優に飛び越えて…アウトの範囲を土足で踏み荒らしながら核心部分を手で…鷲掴みした。
彼は自信でもあったのか…親父に会うのも、触れるのも、躊躇わない様子で、あいつをいなして…怖がらせた。
「ふふ…凄いじゃないか…!」
俺はそう言って大笑いすると、赤ん坊の事を思い出して慌てて口を押さえた。
「簡単そうに見えるけど、こんな芸当…多分、きっと、神経を使うだろう…。それに加えて俺の…孫の世話もしてるんだ。だから、あの子にもっと、優しくしてあげてくれ。」
顔を赤くしてそう言うと、桜二は飲みかけのウイスキーを煽って飲み干した。
へえ…
それが言いたかったのか…
俺は項垂れながらため息を吐いて言った。
「シロにコテンパンに怒られて…反省したんだ。もう…あんな暴言吐かないよ。」
酷い事を言ってしまうのは…彼が嫌いだからじゃない。
つい、甘えて…駄々をこねる様にみっともなく地団駄を踏んでしまうんだ…
すっかり、シロに甘ったれる様になってしまった。
でも、そんな自分が…情けない事に、嫌いじゃないんだ。
だって、絶対許してくれるって…知ってるから。
#シロ
「たんたん!た~んたん!ばふぅ~!」
そんな可愛い声と、頬をペチペチと叩かれる衝撃で目が覚めた…
「ふふっ…!もう…桜ちゃんは、暴力的なんだから…依冬みたいになっちゃダメだよ?」
そう言って桜ちゃんを抱きしめると、胸の上に乗せて両手で両頬をびんたされまくる…
「あいてて!…あぁ~、参った!参った!」
慌てて体を起こすと時計を確認する。
朝の5:00…夜泣きしないで、朝まで寝られた…!
「ふふっ!桜ちゃ~ん!偉いじゃないか!夜起きないで、朝まで寝られたね?」
桜ちゃんを抱きしめながらクルクルと回ると、あの子を両手の先で抱えて美しくアラベスクをする。
グラグラと揺れてしまうのは…桜ちゃんの負荷が強いんじゃない。
オレの体幹が弱いんだ。ふふっ!
部屋を出てキッチンへ向かうと、桜二のウイスキーを飲み荒らしたグラスが流しに放置されていた…
お土産で買ってきたシングルモルトは、あっという間に半分以上無くなっている…
いつか…肝硬変になりそうだ。
「はぁ…桜ちゃんはおじいちゃんみたいに肝臓を虐めちゃダメでちゅよ?」
そう言いながらミルクの準備を始めると、携帯電話がブルルと震えて勇吾からのメールを着信する。
“お電話しても良い?”
だって…可愛いでしょ?ふふ…!
桜ちゃんのミルクを手際よく作ると、桜ちゃんを膝の上に乗せて勇吾とテレビ電話をする…
なんだか、昨日もこんな感じで過ごした気がするよ?
「ふふ…おはよう。あっ、そっちは夜なのか…」
オレがそう言うと、画面の向こうの勇吾はにっこりとほほ笑んで言った。
「今日、オーケストラのコンマスと打ち合わせをしたんだ。そしたら、彼…なんて言ったと思う?ふふっ!前の公演で合わせた時よりも、ダンサーの動きが良いって言っていたんだ!ちゃんと、音を感じながら踊ってるって…!褒めてたぞ?」
わぁ!
「ほんと?本当に?」
嬉しくて何度もそう聞くと、勇吾はうっとりと瞳を細めて言った。
「さすがだ…シロ。お前がやってくれて良かった。」
ふふっ…
なんだろう…とっても嬉しい筈なのに、その場に居れなかった事が…悔しかった。
「そう…良かった。モモも、他のダンサーの子達も、オレの長い音楽鑑賞に毎回付き合っていたからね…。ダンスの構成じゃない、音に合わせて踊るんだって…しつこく言ったから、嫌になっちゃうかと心配だったけど…そんな事なかった。分かってくれてたんだ…嬉しい。」
そう言って顔を俯かせると、ぽたりと涙が落ちて桜ちゃんの頬を濡らした。
これは悲しくて出た涙じゃない…うれし涙。
でも…少しだけ、悔し涙。
ミルクを飲む桜ちゃんの唇を眺めながら言った。
「勇吾…いつか、最初から最後まで携わりたいよ…こんな風に途中で抜けるのは、思った以上に寂しかった。」
オレがそう言って涙を拭うと、画面の向こうの勇吾は同じ様に涙を落として言った。
「…そうだね。俺もシロに居て欲しかった…」
「そうだ!日本でもストリップ公演をしてよ!そしたら、オレは、昼間はそっちで…夜はお店に出られるのに!」
そう言ってケラケラ笑うと、勇吾は首を傾げて言った。
「オファーがあれば…スタッフを連れて行けるんだけどな…」
ふふっ!
ミルクを飲み終えた桜ちゃんを、肩に抱いて背中をトントンと叩いてあげると、ケプッとゲップをした。
それが可愛くて、勇吾と一緒に笑った。
「その子の…お母さん。見つかった?」
ワイングラスにワインを注ぎながら勇吾がそう尋ねてくる。
オレは首を傾げると、ため息を吐いて言った。
「お母さんは…毎日、来てる。」
「え?」
驚いた様に半開きの瞳を大きく見開く彼に、桜二の娘…桜ちゃんのお母さんの事を話した。
「多分…彼女がそうだと思うんだ。でも、まだ…気持ちが落ち着かないのか…ダメみたい。それに…毎朝、自分の父親を見るんだ。複雑な心境になっちゃうよね…」
そう、桜二は気付いていない。
自分の娘が目の前にいる事を、彼は気付いていない。
「桜二に、言うべきか…言わざるべきか…それが問題だ。」
ポツリとオレがそう言うと、勇吾がケラケラ笑って言った。
「言うべきか…言わざるべきか…それは問題ではない。生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」
ふふっ…!
意味不明だね。
画面越しに彼の頬を撫でると、にっこり笑って言った。
「…そうだね。その通りだ…」
桜ちゃんを膝に乗せて、勇吾が変顔する度にケラケラ笑うあの子の頭を撫でる。
「お店の改修がそろそろ終わりそうなんだ。これで、やっと、踊れるよ。」
オレがそう言うと、勇吾がパチパチと手を叩いて言った。
「やった!早くシロの踊ってる所が見たかったんだ!」
イギリスからだったら観れないのに、何言ってんだろう…?
「勇吾は歌舞伎町に来られないだろ?」
オレが口を尖らせてそう言うと、勇吾はワインを飲み干して言った。
「シロが踊ると、どっかの誰かがYouTubeに動画をアップするんだよ。肖像権の侵害で、そろそろ訴えようと思ってんだけどさ…まぁ、事と次第によっちゃ、専門チャンネルなんて作らせるのも悪く無いって思ってるんだよ。」
勇吾はそう言うと、ワインを注ぎながら言った。
「良い?シロのポールダンス動画の再生数は結構いってるんだ。それだけ注目を集めてるって事。動画のアップロード主を訴えるんじゃなくて、こっちに引っ張り込んで、お店の宣伝とお前の宣伝をする。上手く行けば、海外からのお客が増えると思うよ?」
ふぅん…
オレは頬杖をつきながら勇吾の話に相槌を打つと、口を尖らせて言った。
「勇吾のパートナーだって言うだけで、外にゴシップ誌の記者が集まるんだもん。これ以上有名になって生活が脅かされるのは嫌だな。」
「馬鹿だな…そんなの初めだけだよ。あいつらは次から次へとエサを探してるだけだから、相手にしなきゃ良いんだ。」
勇吾はそう言ってワインを飲むと、桜ちゃんにアッカンベして言った。
「目元が桜ちゃんに似てるから、ついつい意地悪したくなるんだよ…その子。」
ふふっ!オレもそう思ってた。
「だよね…桜二に似てる。彼女も、どことなく彼に似てるんだ。」
寂しそうな眼元が、よく似てる。
だからかな…放って置けない。
「シロ…おはよう…」
噂をすればなんとやらだ!桜二が起きて来た!
勇吾と通話を終えると、空になった哺乳瓶を流しに置きながら、背中を掻く桜二の寝ぼけた顔を覗いて言った。
「桜二、おはよう?昨日、桜ちゃん泣かなかったの。偉いだろ?」
そう言って胸に抱いた桜ちゃんを彼に見せると、桜二はにっこり笑って言った。
「…そうだな。」
そうだな…
それだけで十分だよ。
「…キスして?」
そう言って唇を突き出すと、彼はそこにチュッとキスをくれた。
「キャッキャ!だっだ!だ~っだ!たんた~ん!」
腕の中でおしゃべりする桜ちゃんをふたりで眺めてクスクス笑うと、寝ぼけて起きて来た依冬を無視してソファに座る。
「桜ちゃん、子供番組を見よう。」
そう言って依冬がチラッチラッとオレを見るのを無視して、楽しそうな子供番組をテレビに映した。
「おお!」
テレビの中で元気に歌って踊るお姉さんとお兄さんを見ると、桜ちゃんが体を揺らして踊り始めた。
「見て!可愛い!」
そう、それは何とも可愛らしい踊りだ!
両脇をオレに抱えられながらフルフルと力の入らない足で、ジタバタと泳ぐように足を動かす。それが…堪らなく可愛い!
「ぷぷっ!」
桜二が吹き出して笑う中、オドオドとオレの隣に正座した依冬に言った。
「依冬?お前も昔はこうだったんだぞ?子供叱るな来た道だ!年寄り笑うな行く道だ!だぞ?小さい心でもいい!どうしようもない事をギャアギャア言っても良い!ただ、母親にしか子供の世話が出来ないって先入観はすぐに捨てろ!」
オレはそう言うと、俯いて口を尖らせる依冬の顔を覗き込んで言った。
「…分かった?」
「うん…ごめん。」
良いよ?
オレは優しい男だからね?
桜ちゃんと一緒にリビングに置いた花の鉢を眺めて、あの子をお座りさせてお水をあげて行く。
「見て?桜ちゃん…お花、美味しい美味しいってお水を飲んでるよ?」
オレがそう言うと、桜ちゃんはお尻をズンズン動かして笑顔を向ける。
もう…動きだけで可愛いなんて…罪だ。
この子をステージに上げたら、これだけで沢山のチップが貰えそうだよ?
今日も美味しい桜二のご飯を頂いて…今日も朝のお見送りに出るためにズッカケを履いた。
「お~!やっぱり彼らは朝、行動をするんだ。」
オレはそう言うと、桜二と依冬の前に立って、階段を下りて雑誌記者に挨拶をした。
「おはよう?いつも大変だね?」
「シロ…行ってくるね。」
そう言ってふたりが車に乗るのを見送ると、オレは雑誌記者たちを振り返って聞いた。
「あなたはどこの記者なの?」
そう言って腕に巻かれた腕章をまじまじと眺めると、勇吾に言われたように写真を撮った。
「あ!何するんですか?」
そう言って怒り始める記者に言った。
「顔は撮ってないよ。だって、あなたの顔なんて要らないもの。ふふっ!勇吾が撮っておけって言ったんだ。だから撮ってる。はい、次の人…」
そう言って次から次へと腕章に書いてある雑誌社の腕章を写真に収めた。
「あぁ…君のも撮らせてね?」
そう言って桜二の娘の腕章を撮影すると、胸の中の桜ちゃんが再び疼き始める。
「まっま!まっま!」
そう…この女性記者は、多分、桜ちゃんのお母さん。
「桜ちゃん?ごめんね。この子、女の人を見るとすぐに興奮しちゃうんだ…。きっと、おじいちゃんの遺伝子がそうさせてる。危ない資質を持ってる幼子なんだよ?」
オレがそう言うと、彼女はムッと表情を一変して言った。
「あんな奴…関係ない…」
…やっぱりそうだ。
オレは彼女の手を掴むと、他の雑誌記者たちに向けて言った。
「オレはバイセクシャルだぞ!今から、女を連れ込んでやるぞ!あ~はっはっは!」
そう言って呆然としたままの彼女の手を引くと、有無を言わせずに家に連れ込んだ。
「…な、な、何するんですか!!」
玄関でオレを見上げて顔を赤くして怒る彼女に言った。
「上がって良いよ?」
そう言って先に部屋に上がると、お湯を沸かして、マグカップをひとつ出して言った。
「こっちにおいで?コーヒーを入れてあげる。」
おずおずと部屋の中に入って来る彼女を見て、目じりを下げて笑う。
だって、警戒してる顔が…誰かにそっくりなんだもの。
「朝から大変だね…何時に起きてるの?」
そう言ってダイニングテーブルにコーヒーを置くと、桜ちゃんをベビースリングから出してあげる。
「まっま!まっま!」
そう言って両手を伸ばして、体を捩るこの子を…オレはもう止められないよ。
「…ちょっと、腕が疲れちゃったから、抱いていてくれない?」
オレはそう言って手をプルプル動かして見せると、彼女に桜ちゃんを差し出した。
「ええ…」
そんな風に言ってしぶしぶ受け取る癖に…彼女の瞳の奥は、熱く揺らいで見えた。
桜ちゃんは…彼女の腕の中でとっても嬉しそうに甘えている。
あぁ…綺麗だな。
お母さんと子供の絵を大塚さんが描いたら、オレは買ってしまうかもしれない。
それ程に…見つめ合う瞳が美しかった。
「どうしたの?」
唐突にオレがそう聞くと、彼女は首を傾げて言った。
「は?」
「どうして、オレに預けて行ったの?」
そう言って席を立つと、ベビーカーをリビングまで引っ張って来て言った。
「見て?これ…すっごい頑丈なんだ。ジョギングも出来るって言うから買っちゃった。」
オレがそう言っておどけると、彼女は顔を背けて言った。
「何の話をしてるのか…分かりません。それより…勇吾さんとのパートナーシップを結んでいるのに、日本で男を囲って…自分が何をしてるのか、分かってらっしゃるんですか?」
「ふふ…勇吾?勇吾と話してみる?」
オレはそう言うと、時計を見て言った。
「あぁ…彼はもう寝てる。また…夜に来てくれたら電話越しだけど話をさせてあげるよ?彼はね、3番手さ。1番目の男は…依冬。その次は、桜二…そして、最後が勇吾だ。」
オレがそう言うと、彼女はカバンからノートを取り出してメモを始めた。
ふふっ!
「ねえ?この子の本当の名前を教えてよ…。桜ちゃんじゃない、本当のこの子の名前。」
流しに置いたままの哺乳瓶を洗いながらそう言うと、彼女は顔をしかめて言った。
「…さっきから、何をおっしゃってるのか分かりませんけど!」
「怒らないの…怒っても良い事なんて、何も無いんだ…」
オレがそう言うと、彼女は眉間にしわを寄せて口を堅く結んだ。
誰かにそっくりだ…!
哺乳瓶を洗い終えると、消毒液の入った入れ物に沈めて手を拭う。そして、彼女の座るダイニングテーブルに腰かけると、桜ちゃんのほっぺを指で撫でて言った。
「この子は…お母さんから預かってるの。そして、そのお母さんは君だ。…君のお父さんは、この事を知らない。だって…オレは秘密主義のミステリアスだからね?ふふっ!ねえ、君が落ち着くまでこの子を預かってるよ。だから、この子の本当の名前を教えて?」
そう言うと彼女の顔を覗き込んで見た。
眉間にしわを寄せて、怒りに歪んだ目じゃない…そのもっと奥の瞳を見つめると、彼女はまるで拒絶するみたいにオレを睨みつけて言った。
「あんたに…分かる訳がない。あんたみたいに…ストリッパーやって、男を誑し込んで、金に不自由のない!あんたみたいな奴に、あたしの苦労が分かる訳無い!」
急に怒鳴り始めた彼女に、桜ちゃんが驚いて泣き始めた。
「あっあああ~~ん!!ああん、ああ~~ん!」
「うっるさい!!ばか!」
腕の中の桜ちゃんに向かってそう怒鳴りつける彼女に…自分の母親が重なって見えて、怖くて動けなくなった…
どうしよう…
左腕に巻いた桜二のお守りを固く握って、必死に深呼吸して酸素を頭の奥まで無理やり届ける。
「ん、もう!お前なんて!要らなかったのに!!」
怯えて泣き止まない桜ちゃんに、激昂した彼女が手を振り上げた瞬間、オレは彼女から桜ちゃんを奪い取って言った。
「出てって…。子供は親を選べない!君に送った言葉だったけど…今は違う…!この子にもその言葉を言ってあげたいよっ!要らないなんて言うな!お前らが作ったんだろっ!無責任に作って…産んだくせに、今更、要らないなんて…言うんじゃないよ!」
怯えて震える桜ちゃんを抱きしめて玄関へ向かうと、扉を開いて言った。
「この子が産まれたのはこの子のせいじゃない!あんたと男が避妊しないでセックスしたからだ!それを子供のせいにするな!自分の事も省みないで、小さな命のせいにするな!」
彼女は怒りを露わにして髪の毛を逆立てながら言った。
「お前に何が分かるんだよっ!!お前みたいなクズに!あたしの何が分かるんだよっ!!」
…兄ちゃん!!
「分からないよ…オレには、要らないって言われた子の気持ちしか…分からない。」
震える声でそう言うと涙をポロポロ落として、桜ちゃんを抱きしめてしゃがみ込んだ。
ダメだ…
母親に罵られている時と、状況が重なって…怖くて、動けない。
怖い…怖い…兄ちゃん…!!
「返せよっ!もう、殺して来るからっ!どん吉を返せよっ!」
最低だ!!
どん吉なんて…そんな名前…最低だ…!
オレから桜ちゃんを奪おうとする彼女に必死に抵抗していると、誰かが言った。
「…どうしました?」
震える体の下から覗いて見えた黒い革靴は…オレの知ってるふたりの物とは違った。
「た、た、助けて…」
震える声でそう言うと、革靴が玄関に入って来て頭の上で言った。
「…この子のお母さんですか?お話を聞きたかったんです。場所を移しましょうか?」
それは、昨日来た児童相談所の恵さんだった…
「ちっ!うるせんだよっ!この、くそ眼鏡!」
彼女はそう悪態を吐くと、玄関から飛び出して帰って行った…
何て、怖い女だ…!
フルフル震えて何も出来ないで泣いていると、恵さんが玄関を閉めながら言った。
「…普通じゃないんです。だから、話し合いが出来ない場合は一旦離すしかないんです。落ち着いた頃に話すと、全くの別人になっている事もザラなんです。」
震えるオレの体を支えながら部屋の中に入ると、オレをソファに座らせて言った。
「…怖かったでしょう?」
そう言って瞳を歪める彼は…オレにはくそ眼鏡になんて見えなかった…
「こ、怖かったぁ…あぁ~ん…嫌だったぁ!あっああ~ん!」
腕の中に抱いた桜ちゃんと一緒に、怖かった気持ちを声に出して泣くと、恵さんがオレを抱きしめて言った。
「大丈夫…大丈夫…」
なんだ…この人…凄い、暖かい…
ひとしきり泣いて落ち着いたオレは、昨日そっけなく対応してまともに顔も見ていなかった恵さんをじろじろ見た。
黒縁の眼鏡…神経質そうな目…神経質そうに埃ひとつ付いていないスーツ…
彼はそんなオレの視線を気にする様子もなく、桜ちゃんの体を調べ始めた。
「…な、殴られてない…」
オレがそう言うと、彼はオレを見て首を傾げて言った。
「どうして会わせようと思ったの?」
それは…それは…
オレは彼から視線を外すと、小さい声で言った。
「お母さんだから…きっと、桜ちゃんに、ううん…どん吉に会いたいんじゃないかって思って…」
どん吉なんて…酷い名前だ。
もう、名前で虐待してる。そうとしか思えない…
…桜ちゃんの方が、可愛い。
「…どん吉。」
ポツリと恵さんがそう言って、手元のノートに書き込みながら言った。
「ほかに…この子の事で、あなたが気付いた事はありますか…?」
オレは桜ちゃんの涙で濡れた頬を拭いながら言った。
「この子は…よく笑うし…よく泣く。体に殴られた痕も、つねられた痕もない。ミルクも沢山飲むし、両手で持つお茶を飲む容器も上手に持てる。ベビーカーでお利口に出来るし、おしゃべりも…上手に沢山話してくれる。…だから、愛されてるって思った。だから、彼女に会わせても…平気だと思った…」
ぽたぽたと自分の瞳から落ちる涙が、拭ったばかりの桜ちゃんの頬を伝って落ちていく。
「うっうう…可哀想…!可哀想だ!」
そう言って体を震わせるオレの背中を撫でながら恵さんが言った。
「…あなたには、無理です。どん吉くんは私たちの元で、責任を持って預かります。」
「お母さんじゃなくても…!オレは桜ちゃんを愛してあげられる!お母さん以上に、愛して、全て面倒見てあげるっ!」
恵さんの言葉に必死になって食い下がってそう言うと、桜ちゃんを腕の中にしまい込んで言った。
「…嫌だ、離さない!」
この子は…オレみたい。
この子を今、離したら…また、あんな罵声を浴びせられてしまうかもしれない!
かたくなに拒絶するオレの背中を撫でて、恵さんが言った。
「この子は…あなたとは違う。」
その言葉に、ボロボロと涙を落して彼を睨みつけて言った。
「ど、どういう意味だよっ!」
「この子の母親は、まだ…踏み止まってる。だから、彼女も、この子と一緒に助けてあげないといけないんです。その為に…私たちの様な職員がいるんです。」
穏やかな声でそう話す恵さんの手を払いのけると、桜ちゃんが驚いて泣き始めるのも構わないで大声で言った。
「嘘つき!大嘘つき!あんたみたいな…!善人面した悪党がっ!今まで何人の家庭を滅茶苦茶にして来たんだよっ!偉そうな事、言うな!誰も、誰も助けられないくせに!偉そうな事を言うなっ!!」
瞳を歪めてオレを見つめる恵さんと対峙していると、バタンと玄関が閉まる音が聞こえた。
眉を下げて入って来たのは…兄ちゃんだった。
「兄ちゃん!あの人を追い払って!追い払ってよっ!!」
そう言って兄ちゃんに走り寄って背中に隠れると、胸の中で泣きじゃくる桜ちゃんを見て言った。
「もう…大丈夫だよ…兄ちゃんが守ってくれる。桜ちゃん…桜ちゃん…」
しばらく沈黙が続いた後…
おもむろに兄ちゃんが振り返って言った。
「シロ…その子を、貸して…?」
「…どうして?」
「…その子には、専門的なケアが必要なんだ。その子の…お母さんにもね…。だから、あの人にお任せした方が良いんだ。」
「いやだ!」
オレはそう言うと、体を捕まえようと伸びてくる兄ちゃんの手から逃げる様に体を捩った。
「シロ…この子は、お前じゃない…」
そう言ってオレを捕まえる兄ちゃんに思いきり頭突きをすると、オレから桜ちゃんを奪おうとする恵さんに言った。
「この子は…渡さない!」
「…あなたにはその子は救えない!お母さんの元に返してあげたいんでしょ?だったら、私にその子を預けなさい!このままお母さんと離れて暮らす様になる未来を、あなたは望んで無いんでしょ?…だから、今日、彼女を部屋に入れたんでしょ?」
そうだ…
そうだよ…
でも、彼女は怖いんだ…
まるで、オレの母親の様にこんな小さな子を怒鳴って、叩こうとした…
「嫌だよぉ…兄ちゃぁん…!嫌だよぉ!」
床にへたり込んで大泣きすると、異常な状況に怖がった桜ちゃんが腕の中で泣き叫んだ…
オレはこの子をあやす事が出来ないくらい、自分が抑えられなくなっていた…
「大丈夫…シロ、大丈夫だよ…落ち着いて…落ち着いて…」
そう言って桜二がオレの腕の中の桜ちゃんを抱きかかえると、恵さんに渡して言った。
「…連れて行って下さい…」
「だぁめ!だめだぁっ!殺される!そいつに、そいつにっ!殺されちゃう!」
桜二がオレの体を抱きしめながら抑えると、恵さんは桜ちゃんを抱いたまま悲しそうな瞳をオレに向けて言った。
「あなたに約束します。この子も…お母さんも、必ず笑顔で一緒に暮らせるように尽力します。だから、いつでも連絡してください。どうなったのか…どうしているのか…気になったら連絡して構いません。それが朝でも、夜でも、深夜でも、いつでも構わない。あなたの信頼が取り戻せるなら…。そんなの、容易い事です。」
オレの信頼…?
「何言ってんだよ…クソッタレ…桜ちゃんを奪ってただで済むと思うな…。お前の家を見つけて放火してやろうか…お前の家族を殺してやろうか…」
「シロ!」
グルグルのブラックホールが現れて、オレの目の奥をグラグラと揺らして回すと、桜二がオレの体を撫でながら、必死な表情で言った。
「シロ!桜ちゃんの顔、見てみろっ!どんな顔してるっ!?」
どんな顔…
どんな顔…?
それは…
オレは睨み過ぎて硬くなった瞳を動かして、恵さんの腕の中でオレを見つめる桜ちゃんを見つめた。
「ああ…!」
瞳を歪めて大粒の涙を落とすと、桜二の胸に顔を埋めて言った。
「こ…こ、怖がってる…!オレを見て…怯えてる…!」
そう…
桜ちゃんは取り乱して暴れ回るオレを見て、オレを、怖いと思っていた。
可愛い瞳は恐怖に歪んで…いつも微笑んでくれていた口は泣き過ぎたのか…ヨダレまみれになっていた…
それが堪らなく悲しくて…堪らなく苦しくて…桜二の胸に顔を埋めると、力なく項垂れた。
「…すみません。この人は、少し…問題を抱えてる。」
桜二は恵さんにそう言うと、オレの髪を何度も撫でて守る様に、ギュッと抱きしめた。
「…知っています。田中刑事に話を伺っていたので、シロさんの事は以前から知っていたんです。だから…彼が、私を信用出来ない事も分かっていた。」
そう言うと、恵さんはオレのすぐ傍に座って言った。
「あの母親が…自分の母親と重なって見えて、動揺してしまったんだ。でもね…彼女は踏み止まってる。その証拠に、この子を君に預けたでしょ?暴力を振るってしまう前に…誰かに預ける事が出来た。だから、この子は暴力を受けずに…あなた達と、楽しく過ごす事が出来た。」
「違う…違う…桜ちゃんはオレの事なんて…怖くて嫌いになっちゃったぁ…。せっかく、たんたんって…呼んでくれたのに…。せっかく、仲良くなれたのに…。オレが馬鹿だから…暴れるから…嫌いになっちゃったぁ…」
そう言って桜二の胸に顔をグリグリと擦って、溢れて流れる涙を拭と、そっと小さな手が伸びて来てオレの髪を掴んで言った。
「た~んたん!たんたん!だっだ!ぶぅ~…!」
あぁ…!
桜ちゃん…
「うっううう…うう…うっうう…」
オレは顔も上げられずに桜二の胸の中で泣きじゃくった。
こんなにみっともなく…自分の感情も抑えられないオレを、桜ちゃんはまるで慰めるみたいに頭を何度も叩いて、大きな声で…たんたん!と何度も呼んだ。
「たんたん!たんた~ん!」
やっと顔を上げられる様になると、瞳を歪めて大粒の涙を落としながらあの子を見つめる。
一緒に居たのはほんの数日なのに…この子が愛おしくて堪らない。
「恵さん…桜ちゃんを、守って…」
そう言いながらオレの髪をむんずと掴む桜ちゃんの頬を撫でる。
柔らかい…そして、あったかい…
「…大丈夫だよ。桜ちゃん…桜ちゃん…ううっ…ひっく…ひっく…」
ごめんね…
ごめんね…
恵さんに連れて行かれるあの子を見る事が出来なくて、桜二の胸に顔を埋めて泣きながら耐える。
「あっああ…桜ちゃん…!桜ちゃんが…!うっ…ああぁん!」
「大丈夫…大丈夫…」
どうして彼が家に戻って来たのか分からない…忘れ物でもしたのかな…
それでも、来てくれて…良かった。
あのまま取り乱していたら…もしかしたら、桜ちゃんを傷付けてしまっていたかもしれない…
それ程までに、我を忘れた自分が抑えられなかった。
「誰だってそうだよ…お前だけじゃない…」
まるでオレの心の中が読めるみたいにそう呟くと、桜二はオレの髪を掻き分けて顔を覗き込んだ。
「桜ちゃんに…似てる…」
彼の瞳を見つめてそう呟くと、あの子にした様に桜二の唇を指で弄った。
「抱っこして…」
そう言うと、彼の膝に跨って座って彼を正面から抱きしめた。
「…偉かったね。よく、頑張った…」
桜二はそう言うと、オレの背中を何度も撫でて抱きしめた。
頑張ったのかな…
もっと上手に、愛せたのかもしれないのに…
「どうして戻ってきたの?」
波立った気持ちも落ち着いて、オレは桜二から離れるとそう言って首を傾げて見せた。
彼はクスクス笑うと、ベビーカーを指さして言った。
「ここに盗聴器を付けていた。そしたら、すごい会話が聞こえて来て…慌てて戻って来た。はぁ…怖かった。」
ふふっ!
盗聴器?
「なぁんだ…そんな物仕掛けなくても、桜ちゃんの声ならすぐ傍で聞けただろうに…桜二はツンデレのおじいちゃんだね。」
オレがそう言うと、彼は瞳を細めて言った。
「俺は、お前がいればそれで良いんだ。」
勝手だよね。
だけど、彼のその言葉に、体中に電気が走ったみたいに、痺れて…トロけた。
「ふふっ…お馬鹿さんだな。」
そう言って口元を緩めて笑うと、まだ持ち直さない気持ちのまま彼を見送った。
「はぁ…」
ため息を吐いて桜ちゃんの居た痕跡を眺める…
桜ちゃん…
涙がぽとりと落ちて…悲しくて、体中の力が抜けて床にへたり込む。
あんなに大事にしたのに…あんなに可愛がったのに…あの子は連れて行かれてしまった…
「シロ?あの子の体に赤くなった所あった?」
項垂れたオレの視線の先に小さな子供の足が見えて、オレにそう尋ねて来た。
「ない…ないよ…」
力なくそう答えると、その子は自分の背中を見せて言った。
「酷いババアに虐められると、こんな風になるんだよ?」
分かってる…
オレは幼い頃のオレの背中をしまうと、腰を突かんで膝の上に乗せて言った。
「あの子には…そんな物、何ひとつなかった…」
オレの膝の上に乗った幼い頃のオレは、楽しそうに足をブラブラ揺らすと言った。
「じゃあ大丈夫じゃん…シロは心配性だよ?」
「…心配性?ふふっ…面白い事を言うね…?さすが、オレだ。」
実態なんてない…でも、確かに自分の耳にそう聞こえてくる。
この子も…兄ちゃんも…オレの想像なんだよ。
なのに、どうしてか…縋るように、彼らの言葉に救われるんだ。
間違ってるのかな…
この子も…兄ちゃんも…手放さないと、オレはまともになれないのかな…
「シロ…愛してるよ…」
そう言って膝の上の幼い頃の自分を抱きしめると、手応えの無い体をふんわり包む様に撫でて言った。
「まだ…傍に居て…」
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