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第31話

仕事を終えて桜二と一緒に家に帰ると、薄暗い部屋の中…依冬がソファにうつ伏せに突っ伏しながら言った。 「明日が、来なければ良いのに…!」 どうやら、彼は…現実逃避してる最中みたいだ。 「なんだ、人殺しのゲームでもしたら良いじゃないか。」 彼のお尻をぺちぺち叩いてそう言うと、依冬は何も言わずにオレの足を両手でナデナデした。 「シロ…お風呂入ろう…」 桜二がそう言ってオレの手を引くと、項垂れたままの依冬を置き去りにして、浴室へと向かった。 ヒロさん? 彼は…マディソン郡のロミオになってる。 今頃、楓と、終わりのある恋愛を楽しんでる。 「ねえ?桜二、あのふたりは本当に上手に大きなバイオリンを弾くんだ。ふふ。」 お風呂に桜二と向かい合って入って、彼に今日の出来事を話した。 「チェロだよ。その楽器は…チェロ。」 桜二はそう言うと、オレの髪を指で掻き分けておでこにキスした。 「あそこのオーナーは、なかなか考えて店作りをしていた。大したもんだよ。」 彼の顎を撫でながらそう言うと、桜二はオレを抱きしめて言った。 「はぁ…危ない人と、どこかに行かないでね…勇吾が困ってたよ。俺も困るし、依冬だって、困るだろ?好奇心旺盛なのは良いけど、嗅ぎ分ける嗅覚を持つんだよ。」 持ってる。だから、あんな危ない店で働いて生きてこれたんだ! 彼の胸に頬を付けて甘えると、うっとりして言った。 「うん…ごめんね?」 演技? 演技じゃない。使い分けてるだけだよ? お風呂から上がると、まだソファに突っ伏す依冬に乗っかって言った。 「どうしてそんなに落ち込んでるの?お兄ちゃんに話してごらん?」 依冬は突っ伏したままグフグフ笑うと、体を器用に回転させて仰向けになった。 オレは彼のぼさぼさになった髪を両手で直しながら聞いた。 「…ケンちゃんラーメンでも、万引きしたのか?」 「違うよ!…明日、病院へ行かなきゃダメなんだ。はぁ…親父に会うのが嫌なんだよ。」 なぁんだ!そんな事か! 「ふふっ!あふふっ!」 オレは依冬の上でクスクス笑うと、彼の頬を撫でて言った。 「もう、大丈夫だよ。彼は、大丈夫…」 依冬はオレを見るとムッと頬を膨らませて言った。 「そんな訳、無い!」 「オレを信じて…?結城さんは依冬に何もしないし、刑事罰の減刑も求めない。あの人は、オレの物になった。だから、オレの困る事は、何もしないんだ。」 オレがそう言うと、依冬は表情を固めてじっとオレを見つめて言った。 「…何したの。」 彼の真摯な瞳を受けると、オレも彼に応える様にジッと瞳を見つめて言った。 「何も…。ただ、お互いの傷を舐め合った…それだけだよ。」 やり方は汚いけど…オレは限られた時間の中で、彼を、完全に絆した。 もともと嫌いじゃなかったから、思った以上にすんなりと彼の懐に入って行けた。 「…ふぅん。もし、それが本当なら…良いけどね。」 そんな含みを持たせて話す依冬の髪を撫でると、宥める様に彼のおでこにキスして言った。 「明日、会ってみれば…分かるよ。」 それはきっと、依冬の想像をはるかに超える…変貌ぶりだろう。 結城さんはオレの手を握り返して…一緒に彼らを思い出にしていく道を選んでくれた。 だから、オレは彼を思いきり愛する事に決めたんだ…。 トレーニングルームへ向かう依冬のお尻をペン!っと叩くと、キッチンドランカー桜二の元に行って話した。 「明日、どん吉の所に行ってくる。」 オレがそう言うと、彼は表情を変えずにコクリと頷いて言った。 「そうだね…予定の日だね。」 意外だよ。 桜二、覚えていたの? 驚いた顔をして彼を見ると、桜二はオレを見て言った。 「幾らか…俺からも支援しよう。お前経由で渡してくれよ。」 え…? あの…ケチ・くさ男の桜二が…誰かの為に、身銭を切るなんて…!! 「桜二~~!」 そう言って彼に抱き付くと、グラスからこぼれたウイスキーを彼の手ごとペロペロ舐めて言った。 「桜二、偉いね。さすがオレの男だね?」 遅すぎる事なんて無いよ。 今、出来る事があるなら…助けてあげたら良いんだ。 「桜二…桜二…ありがとう…」 予想外の申し出が嬉しくって、彼を思いきり抱き締めて瞳を潤ませた。 …この人は、変わって来た。 オレ以外にも、優しく出来る様になって来た。 それは嬉しい事の筈なのに…少しだけ、寂しい… リビングでテレビを眺めながらウイスキーを飲み続ける桜二から離れると、彼の部屋にひとりで向かった。 真っ暗の部屋の中、桜二のベッドの下の”宝箱”を開いて写真を撮り出すと、まじまじと眺めて兄ちゃんに言った。 「兄ちゃん…?死んだから馬鹿なんだ。生きていたら…こうやって、桜二みたいに変わって行く事が出来たのに…。死んだりするから、兄ちゃんはクズのまま。ふふ…。兄ちゃん…。どうして、死んじゃったんだよ…。可愛い盛りの娘を…どうして殺しちゃったんだよ…!」 「それは…きっと、兄ちゃんが馬鹿で弱いからだろうな…」 オレの隣に座ると、兄ちゃんがそう言ってクスクス笑った。 笑い事じゃない…! 生きていたら変わる事も、逃げる事も、出来たんだ。 「馬鹿野郎…!」 オレがそう言って項垂れると、兄ちゃんはオレを抱き寄せて、調子の外れた歌を歌い始めた。 兄ちゃんの歌声が耳の奥で響くと、目から涙がぼたぼたと落ちて、手に持った写真の中で…不器用に微笑む兄ちゃんを濡らしていく… 耳の奥に聞こえる歌声を感じながら、ジッと…写真の中の兄ちゃんを見つめる。 もう…この人は、居ないんだ… あの時、首をつって…この世から居なくなってしまったんだよ…シロ。 いくら縋っても…いくら求めても…いくら探しても…もう、会えないんだ。 結城さんに言った言葉を自分に言い聞かせて…彼がそうした様に…兄ちゃんの虚像から…手を放そう… 目の前に見えるものが全てなんだ… あの人だって…どうしようもない、悲しみを抱えてる。 一緒に…前に進もうって、彼に言っただろ…シロ。 そっと隣に佇む兄ちゃんを見上げて、伏し目がちにオレを見つめる兄ちゃんを見つめた。手を伸ばして頬に触れると、感触の無い空間を撫でる事無く、そのまま手を下した。 …これ以上、兄ちゃんに縋らない。 「…兄ちゃん、オレはもう行くよ…兄ちゃんも、もう…行って良いよ…」 鼻を啜りながらオレがそう言うと、兄ちゃんは歌をやめて言った。 「…本当?」 嫌だよ…離れたくない。 愛してるんだ…! 「うん…シロの周りには、良い人が沢山居る。そのお陰で…人生を持ち直した。自分が…好きになれた。だから…もう、大丈夫なんだ。安心して…大丈夫なんだ。」 そう言って兄ちゃんを見上げると、兄ちゃんは嬉しそうに目じりを下げて言った。 「…シロ、良かった。幸せになったんだね?」 もう会えないの…? こんな風に、目の前に現れて…まるで本物の様に話しかけてくれる、兄ちゃんに。 もう。 会えなくても…平気なの? 「うん…に、ちゃん…オレは、幸せに…なれた…」 そう言って兄ちゃんを抱きしめると、まるで本当に抱きしめているみたいな感じがして、嗚咽が漏れて泣き崩れる。 どこにも行かないで…ひとりにしないでよ…怖いんだ…! シロを、ひとりにしないで…! …もう、蒼佑はいないんだよ、シロ… 空ぶった腕を自分に巻きつけて抱きしめると、自分にけじめを付けた… 「兄ちゃん…バイバイ…」 そう言って”宝箱”を閉じると、涙を拭って顔を上げた。 「…大丈夫?」 部屋の入り口で、心配そうにオレを見つめる桜二に言った。 「…兄ちゃんは、オレの思い出の中にいる。だから、大丈夫なんだ…。」 ありもしない兄ちゃんを勝手に作るより、思い出の中の本物の兄ちゃんを思い出して、愛おしめば良いんだ… 「…そう。おいで…」 桜二はそう言うとオレの隣に座って、体を強く抱きしめて、優しく背中を撫でてくれた。 兄ちゃんは、オレの体に触れる事なんてもう出来ない。 そして、オレも…兄ちゃんに触れる事はもう出来ない。 だって、あの人は…あの時、死んでしまったんだから… 「桜二…桜二…!あっああん!うわぁああん!」 彼の胸に顔を擦り付けながら、自分の声が聞こえなくなる程、大泣きする。 …だって、これは今生の別れなんだ。 もう…これ以上、兄ちゃんに縋らない… 兄ちゃんを、思い出にする。 …オレはグズだから…決心するまでに、こんなに時間がかかってしまった。 でも…決めたからには…やるんだ。 オレは、自分がそうするって決めたら…ちゃんと、出来るんだ。 桜二と離れるのをあんなに躊躇していた遠出の旅行だって…勇吾に会いたい一心で、決心して、最後までやりきる事が出来ただろ…? 怖くない、なんて…意地は張らない。 だけど、これ以上…兄ちゃんの虚像に縋るのはダメだ。 シロ…丹田に…気合を入れろ。男だろ… 愛するあの人を、これ以上…自分の好き勝手に、動かしてはダメだ。 「今度、お墓参りに行くの…一緒に来て。」 涙が落ち着いてきたころ…桜二のびしょ濡れの胸を手で撫でながらそう言った。彼はオレの髪を掻き分けて顔を覗き込むと、オレの目を見つめて瞳を細めて言った。 「もちろんだよ…シロ。」 兄ちゃん…これは今生の別れだよ。 あなたを思う時は…必ず、思い出の中だけにする… シロは、決めたんだ。 「おいで…」 桜二と一緒にベッドに寝転がると、彼の腕に頭を乗せて抱き付いた。 暖かくて、優しい彼に…興奮した心が凪の様に静まって行く… 「どん吉…大きくなったと思う?」 彼の手のひらと自分の手のひらを合わせながらそう聞くと、桜二は鼻からため息を吐いて言った。 「どうかな…まだ、そんなに経ってないから…たばこは吸ってないと思うよ?」 ふふっ!馬鹿なんだ。 彼の手のひらをパチンと叩くと、怒った声で言った。 「違う!ハイハイが出来る様になったかな?って事!」 「あぁ…知らないよ。」 全く! 彼の胸に頬を付けて甘えると、瞳を閉じて言った。 「早く…会いたいよ…」 彼はオレを抱きしめて髪を優しく撫でながら言った。 「明日、会えるだろ。」 そう、明日会えるんだ。 良かった… 会いたいって願う人が…会える人で、良かった。 「シロ…朝だよ。」 いつの間にかぐっすりと眠ってしまったみたいだ… 顔を上げると、黒い猫柄のパジャマを着た桜二が、オレの顔を覗き込んで言った。 「ヒロさんが帰って来てない。」 あぁ…あの、ろくでなしめ…。 とうとう、帰って来る事さえしなくなった… 「良いよ、放っときなよ。恋に恋してるんだ。」 オレはそう言うと、桜二に両手を伸ばして言った。 「抱っこして!」 「はいはい…」 彼に抱っこされながらリビングへ向かうと、顔面蒼白の依冬の隣に放られる。 「依冬~!おはよう。」 そう言って彼の膝枕にゴロンと寝転がると、依冬はフルフル震えて言った。 「行きたくないよ…」 全く… 「何時に行くの?オレも一緒に行こうか?」 オレがそう言うと、依冬はムッと頬を膨らませて言った。 「大丈夫だよ!ひ、ひ、ひ、ひとりで…平気だよ。…10:00だよ…でも、ひとりで平気だよ。10:00に、病室に行くけど、ひとりで行けるよ。」 ほうほう… 依冬のぼさぼさの頭を撫でると、彼の膝に跨って彼に抱き付いて言った。 「一緒に行きたいの~!一緒に行きたいの~!」 桜二がキッチンで朝ご飯を作り始めると、玄関が閉まる音がした… オレはそれを無視して依冬の頬を両手で包み込むと、彼を見つめて言った。 「依冬、オレ暇なんだ。だから10:00に一緒に行きたいの~!」 依冬は、ぐぬぬ…っと、下唇を噛むと、オレから視線をそらして言った。 「…だめだよぅ…暇だからって行く場所じゃないし…。それに、何を言われるか分からない。だから…だめだよぅ…」 はっ! オレは依冬の肩を揺すって、ごねて言った。 「依冬!依冬はシロ子の為になんでもしてくれるって、この前酔っぱらった時言ったの、忘れたの?!シロ子がそうしたいって言ってんだから、そうしてよっ!」 「怖いなら四の五の言わないで、ママに付いて来てもらえばいいだろう!」 オレと依冬のやり取りを見ていた桜二が、痺れを切らしてそう言うと、依冬は顔を真っ赤にして怒って言った。 「ち、ち、違う!もう!」 あ~あ… 桜二が余計な事を言うから、依冬が意固地になった。 オレを膝から退けると、依冬は朝の支度をしに部屋に戻って行ってしまった。 オレはムカつくひよこの顔をする桜二を睨むと、ため息を吐いて言った。 「意地悪な人!」 彼はクスクス笑うと、今日も上手に卵焼きを焼き始める。 「…ただいま?」 ヒロさんはコソコソとリビングに入って来ると、そのままコソコソと依冬の部屋に入って行った。 「あ…!なんだ、ごめん!」 そう言ってリビングに戻ってくると、オレと桜二の視線を気にしながら、着替え中の依冬が部屋から出てくるのを待った。 「…ヒロさん?もう、イギリスに帰って良いよ?」 しょんぼりと項垂れるヒロさんの背中にそう言うと、彼は驚いた顔をして振り返って言った。 「なぁんで?!」 …だって、モモに会いたいんだろ? でも、楓に手を出してしまった以上…日本にいる限り、彼は板挟みだ。 しかも、楓はヒロさんにガチ惚れしてる。 はぁ… 彼が泣く泣くイギリスへ帰るって状況を作ったら、美しいまま、このお遊びが終わるんだ。 オレも、楓と彼ぴっぴの今後を心配する必要も無くなる。 悪くない提案だと思うけど? 「…なんでって…自分の胸に手を当てて考えてみろよ。プレイボーイ!」 お箸を並べながらそう言うと、ヒロさんはオレにしがみ付いて言った。 「シロ…?実はね、思った以上に…楓が本気なんだ。ただの遊びとまで言わないよ?でも、でもさ、やっぱりモモを思い出すじゃない?そうするとさ、どうしたもんかなって…いや、楓が嫌いな訳じゃないんだよ?」 ヒロさんはオレに言い訳をすると、縋り付いて言った。 「帰ります…イギリスにもう、帰ります…」 最悪だね? 桜二がニヤニヤ笑って味噌汁を作る中、オレはヒロさんの顔を持ち上げて言った。 「ヒロさん?羽目を外し過ぎたね?オレの同僚は少なくとも傷付くだろう。ちゃんとお別れはして?彼を傷付けない様に、勇吾に言われて泣く泣く帰る羽目になりましたって体でさ、上手く誤魔化してよ…もう、馬鹿野郎だな。」 オレはそう言うと、潤んだ瞳を向けるヒロさんの目元を手で塞いで言った。 「…ばか!見たくないよ!」 「シロ子…?俺はひとりでも大丈夫だよ?病院には…9:50に着いてると思うけど、ひとりで大丈夫だよ。弁護士も同伴だし、もし脅されたとしても脅迫の証拠を残せるように…どっかの誰かみたいにテープレコーダーを持って行こうと思ってるんだ。」 ヒロさんと入れ替わるようにオレの目の前に来ると、依冬はしきりに瞬きをしながらそう言った。 桜二のニヤニヤが止まらない。 彼はね、人の不幸が楽しくってたまらないんだ。 強がる依冬の胸を撫でると、席に座らせて言った。 「そう…9:50には、病院に着いてるのね。」 オレの言葉に頷くと、オレの手を固く握って依冬が言った。 「弁護士とふたりで行くって言ってあるけど…シロが増えた所で、何も問題ないと思うけどね?でも…でも、ひとりで大丈夫だよ?」 ハイハイ… 「分かったよ。」 オレはそう言うと、依冬に見える様に9:30にタイマーをセットした。 面倒臭いだろ? ほんとは付いて来て欲しいんだ。 でも、桜二に馬鹿にされるから、強がって大丈夫だって言い張ってる。 でも、本心では、付いて来て欲しいんだ。 ほんと、面倒で、可愛らしい… 「500円、忘れてるぞ…」 桜二はいつもの調子でそう言うと、500円玉貯金箱を依冬に差し出した。 「行ってらっしゃい!」 勇吾のお陰で、出待ちする雑誌記者は跡形もなく消えた… だから、オレは玄関先で桜二と依冬を見送った。 「…シロ?俺は、9:50には病院に着いてるからね?」 依冬の縋る様な声に頷いて答えると、あの子の唇にキスして玄関を閉めた。 いつもの様に洗濯を手際よく済ませると、依冬の部屋をノックして言った。 「ヒロさん?寝てる?ご飯どうする?」 オレの言葉に反応する様に室内からゴソゴソと物音が聞こえると、小さい声でヒロさんが言った。 「…要らない…」 なんだ! この家には中学生みたいな男しかいないのか!? 「ヒロさん?オレ、9:30に家を出る用事があるから、留守番頼んでも良い?」 「…ん。」 全く!自身に満ち溢れた、アニメ好きの、日本語が上手な外国人は、どこに行ったんだ! きっと、楓に簡単に手を出した罪悪感を感じて、打ちひしがれてるんだろうけど…それもこれも、自己満足な物でしかないんだよ~だ! 桜二の部屋で彼の飲みかけのグラスを回収すると、依冬のトレーニングルームにかけっぱなしのタオルを洗濯機に突っ込んだ。 出しっぱなしのトレーニンググッズをしまって、窓を開けると、むさ苦しい空気を喚起する。 ストレッチしながら洗濯物を畳むと、あっという間に時間が来て携帯のアラームが鳴った。 「じゃあ、行ってくるからね?」 依冬の部屋の前、ヒロさんにそう言うと、彼は部屋の中で小さく返事をした。 「ほ~い…」 変な日本語ばかり覚えて行く…。 玄関を出て鍵を閉めると、病院へ向かって歩いた。 9:50…病院に着くと、誰かを探す様に病院の入り口で、しきりにキョロキョロする依冬を見つけた。 「依冬~!」 オレが遠くから手を振ると、彼は一瞬満面の笑顔になった。でも、すぐに驚いた顔になると、怒った様に頬を膨らませて言った。 「な、な、なぁんで来ちゃったの?!も~!も~!」 うん。面倒臭いよ? でも、仕方が無い。 依冬はね、お父さんが怖いんだ。 それは彼が子供の頃からずっと続いてる感情。 自分と歳のそう変わらない湊くんに、男を見せて、独占して、見せびらかした… そんな歪んだ父親を見て来たせいで、彼もそれをしなければいけないって思ってしまったのかな…? 動物は親の姿を見ながら、狩りの仕方や、巣の作り方、子供の守り方を覚えて行くって言うでしょ? きっと、人も同じなんだ。 育てられた様にしか、子供は育たない。 依冬はそうなる様に育てられて、湊くんをレイプし続けた。 彼の行いを肯定する訳じゃない。 でも、彼の環境を考えると、依冬だけの責任なんて…到底、思えないよ。 この子は優しくて、不器用で、まっすぐな子なんだ。 「…来ちゃった。」 オレはそう言って弁護士に挨拶すると、通い慣れた病院の廊下を依冬と歩いた。 ガララ… 病室の扉を開くと、ベッドの上の結城さんは紫の猫柄のパジャマを着て、オレを見つけて大喜びして言った。 「なんだ!次は刑務所の面会で会うって言っていたのに!嘘つきだな!それとも、俺に会いたくなったのか?はははっ!」 「なぁんだ、良く似合ってるじゃないか…!ふふっ!」 元気そうな彼を見ると、自然と笑顔になってベッドに腰かけて言った。 「今日は依冬も一緒なんだ。可愛いだろ?」 そう言って彼の頬を撫でて、依冬の方を向かせると、結城さんは首を傾げて言った。 「なんだ、3Pでもするのか?」 「あ~はっはっは!馬鹿だな。ほんと、大馬鹿野郎だ!弁護士もいれたら、4Pになるじゃないか!ボケて来てるんだよ。ずっと、こんな所にいるから、ボケて来てるんだ。」 彼の肩を叩いて大笑いすると、唖然としっぱなしの依冬に言った。 「依冬、おいで?大丈夫だよ?この人はね、オレの大切な人だから、もう大丈夫なんだ。」 依冬は顔を引きつらせると、弁護士を促して書類を出した。 「…これに、サインを…もらえますか…」 結城さんの顔色を窺う様にそう言うと、依冬はオレの腕を掴んで引っ張った。 でも、オレは結城さんの傍から離れないよ? 「見てくれ~、シロ。息子が、俺にこれを全部譲れって言って来た…。あぁ、スッテンテンになっちゃうよ。これじゃあ、もう金持ちなんて言えなくなっちゃうよ。」 結城さんはそう言うと、オレの肩に顔を乗せて甘えて言った。 「一文無しだ…」 ふふっ。 オレは彼の頭を撫でて顔を覗き込むと、クスクス笑って言った。 「刑務所に、お金は要らないだろ?」 「ぷぷっ!確かに…。」 彼はそう言って笑うと、嬉しそうに瞳を細めてオレの頬を撫でた。 可愛い… だって、とっても、桜二に似てるんだ。 「結城さんが一文無しでも、刑務所から出たらオレが家を用意してあげる。そこに住んで…意地悪以外の趣味でも見つけなよ。そうだ、どん吉と結城さんと一緒に公園で遊ぶのも悪くないね?」 オレがそう言うと、結城さんはケラケラ笑って言った。 「酷い名前の子供が居たもんだ!」 あんたのひ孫だよ? オレは依冬からペンを受け取ると、結城さんに渡して言った。 「ねえ?依冬は頑張ってあなたの作った会社を立て直したよ?働いてる人たちの生活を守った。偉いだろ?褒めてあげてよ。」 オレの言葉にジッと固まると、結城さんは依冬を少しだけ見上げて言った。 「すまなかったな…依冬。苦労掛けた…。」 そう言った彼の瞳は、まるで…どん吉を見つめた桜二の瞳の様に、優しくて…慈しみが溢れて見えた。 素敵な目が出来るじゃないか…全く…! 「うっうう…!うう…ひっく…」 泣き声を堪える依冬を背中で感じながら、目の前の結城さんを見つめて言った。 「…ありがとう。」 「ふん…」 サインを書く結城さんの足を撫でると、ため息を吐きながら彼に言った。 「ねえ?差し入れとか、何が欲しい?」 オレの顔を見ると、結城さんは首を傾げながら考え始めた。 手元の書類を依冬に手渡すと、反対側に首を傾げて言った。 「本…とかかな。」 「どんな本が好きなの?」 彼の手を握ってそう聞くと、結城さんは再び考え込んだ。 「…ミステリー小説が…好き、だったよね。」 依冬はそう言うと、書類を弁護士に渡して言った。 「アガサ・クリスティーとか、書斎にあったのを、覚えてる…」 「ああ…好きだ。」 結城さんはそう言うと、クッタリと項垂れて、オレの手のひらを両手で撫でて言った。 「シロ…あったかい手だな。」 ふふっ! 彼の手のひらを同じ様に撫でると、首を傾げながら言った。 「あぁ…結城さんの手は…冷たい。血の巡りが悪いんだ。老人だからね?」 そう言ってクスクス笑うと、彼の手をマッサージしてあげる。 「ふふ…血の巡りが悪いねえ…」 そう言って笑いながら、彼は手のひらをオレに好きにさせる。 「田舎には住みたくない。トイレと風呂が同じところは嫌だ。フローリングには床暖房を付けろ。後…」 「また今度聞くよ。そんな事、今、いっぺんに覚えらんない。」 出所後の住宅に注文を付ける結城さんに、眉をひそめてそう言うと、彼の頭を撫でて言った。 「オレの住んでる所の近くにしよう?そうしたら、すぐに会いに行けるだろ?」 「…うん。」 結城さんはそう言って頷くと、依冬に言った。 「…あの家は…売って構わない。」 「…分かったよ。父さん…」 依冬と弁護士が病室を出ると、結城さんがオレを抱きしめて言った。 「シロ…離れないで…。」 彼の体をギュッと抱きしめると、背中を撫でて安心させてあげる。 離れる訳がない…だって、愛してるんだ。 体を離して彼の顔をじっと見つめると、うっとりと瞳を色付けて…心の底から…愛おしんで言った。 「ふふっ…離れないし、忘れた事なんて無いよ?だから、安心して。あなたが刑務所に入ったら一番に差し入れを持って行ってあげる。きっと、誰よりも一番に早いと思うよ?ね、大丈夫だよ…。シロは、あなたから離れない…」 そう言って彼にキスすると、じっと瞳を見つめて言った。 「オレは、兄ちゃんを…思い出に出来たよ。あなたが、変わる姿を見たら…頑張れた。つまり…あなたのお陰だ。ふふ…人って、分からない。誰の影響を受けて、どうなるのか…分からない。だけど、確実に…あなたのお陰で、オレは…兄ちゃんを思い出に出来た。だから、あなたが居てくれて…本当に、良かった。」 オレの言葉に瞳を歪めて大粒の涙を落とすと、結城さんはオレの唇にキスして言った。 「シロ…愛してる。」 うん。オレも…あなたを愛してる… 腰がしなる程強く抱きしめられると、彼の背中を抱きしめて同じ様に強く抱きしめた。 「シロも…結城さんを愛してる。」 依冬に意地悪しないで、優しくしてくれた。 あの子を優しい瞳で見つめてくれた… それだけで、結城さんがもう…湊くんを思い出に出来たと分かった。 良かった… 「またね~!」 そう言って手を振ると、笑顔の結城さんと別れた。 廊下でくたびれ果てた依冬の胸を撫でると、彼の手を引いて病院を後にする。 「シロ!」 病院の出口を出て、弁護士の先生をタクシーに乗せると、振り返った依冬が凄い形相で怒ってオレに言った。 「何したの!」 オレは肩をすくめると、依冬を見つめて眉を下げた。 「どうして…!あの人が、あんな風になったの!」 それは…言ったじゃないか… 依冬の目の前でもじもじすると、首を傾げて彼の顔を見上げて言った。 「…傷を、舐め合ったんだ?」 他のも舐め合ったけど、死んでも言わないよ? 「そ、そ、それだけで…あの、あの、あの人が、あんなになる訳がない!」 依冬は興奮してそう言うと、オレの手を取って言った。 「シロ~、シロの手があったか~い…なんて、腑抜けた声を出して…まるで…懐いてるジジイじゃないか!」 酷いな… 「言っただろ?彼はもう、優しいジジイになったんだ。オレはお前との約束を守った。」 胸を張ってそう言うと、結城さんを馬鹿にする依冬に言った。 「彼は変わったんだ。それはとっても勇気の要る事だよ?すぐには無理かもしれない。でも、彼の変化を否定しないで?オレに任せてくれよ。」 「分かってる!!」 依冬はそう言うと、オレの体を抱きしめて言った。 「シロ!シロ!!親父が…!俺をあんな目で見たのは…初めてかもしれないんだ!あんな風に、優しい目で彼に見られたのは…初めてかもしれない!!」 ボロボロと涙を落としながらそう言うと、依冬はフラフラと地面に突っ伏して大粒の涙をボタボタと地面に落として泣いた。 可哀想に… この子は、とっても、嬉しかったんだ…! オレは、ただ彼の背中を抱きしめると、振動で伝わってくる彼の泣き声を体中で感じながら一緒に泣いた。 親は選べない。 でも…子供はどんな親にも愛情を求めるんだ。 それは呼吸をするのと同じくらい、当然で、普通の事。 依冬は否定出来ないそんな感情を常に抱えて、見ない振りして生きて来たんだ。 目の前にいる父親に…見て貰えない事実を…愛されない事実を、この子は見ない振りして生きて来たんだ… それはきっと、オレの様に…初めから父親が存在しなかった者よりも、もっと、ずっと、傷付いただろう。 だってそうだろ?初めから居なかったら、諦めが付くもんだ。 でも、毎日生活を共にしていたら…愛情を期待しては、裏切られ…を繰り返すんだ。 可哀想だよ… 「依冬…依冬、よく頑張ったね。もう良いんだよ。彼は依冬を見るし、依冬と話すし、依冬を認めた。…お前の父親だ。」 そう、肉欲に溺れる男じゃない…父親だ。 「シロ~~~!うっうわああん!!」 人目も憚らず大泣きする彼を、両手でぐるっと包み込んで抱きしめた。 みんな、何か足りない… みんな、何かを誤魔化して、懸命に生きてる… 傷付いて、ボロボロなのは、オレだけじゃない。 みんな…そうなんだ。 落ち着いた依冬を車に乗せると、オレは来た道を歩いて帰る。 元気そうだった結城さんの顔も見れたし、彼の差し入れの目星も付いた。 上々じゃないか…シロ。 家に戻ると、リビングのソファに寝転がってアニメを眺めるヒロさんに言った。 「ヒロさんの大好きな、コンビニのおにぎり買って来てあげたよ?」 そう言って彼のお腹の上に袋を置くと、抹茶ラテを出して彼と一緒にアニメを見ながら飲んだ。 「シロってさ…なんか、落ち着くんだよね…。不思議だなぁ…」 ヒロさんはそう言うと、袋からおにぎりを出して首を傾げて言った。 「どうやって開けるんだっけ?」 もう…手のかかる中学生だ! 彼からおにぎりを取ると、綺麗に包装を外して渡してあげる。 「はは、サンキュー!」 すっかり懐いたヒロさんは、軽くそう言うと、モグモグとおにぎりを食べた。 「なんか…シロと居ると、楽なんだよなあ~。楓は僕に格好良さを求めて、モモは僕に、傅く事を求める。でも、シロは僕にな~んにも求めない!だから、楽なんだよ。」 知らねえよ… オレは抹茶ラテを啜りながらアニメを見ると、ヒロさんの戯言を雑音の様に聞き流した。 「ねえ?シロ?勇吾さんもそんなシロの雰囲気が好きなのかな?」 「違うよ。勇吾はオレが可愛いから好きなんだ。」 すぐにそう言うと、ヒロさんを軽蔑した目で見つめて言った。 「モモはヒロさんに傅く事を求めてないし、楓はヒロさんに格好良さを求めてない。自分が勝手にそういうイメージ戦略をして、雁字搦めになって、ハングアップしてるだけ!人のせいにするなよ。プレイボーイ!」 ヒロさんは苦い顔をすると、オレから視線を外してアニメを見ながら言った。 「あぁ…この声優さんは日本語が下手糞だな…僕の方が上手だと思わない?シロ~?」 全く、ダメ男だな…! 「今日は2時に用事が入ってるから、オレはまた1時に家を出るよ。ヒロさん一人で…大丈夫そうだね…。」 アニメ三昧の彼を見つめてそう言うと、出前のチラシをたんまり持って来て言った。 「お昼ご飯はこの中から選ぼう?何が食べたい?」 手を伸ばす彼に適当なチラシを渡して一緒にお昼を選んでいると、彼はため息を吐いて言った。 「ピザがこんなに高いなんて…おかしいよ。」 「じゃあ…釜めしは?」 オレがそう聞くと、ヒロさんは釜めしのチラシをじっくり見て言った。 「ノー!」 こいつは意外と…わがままボーイだ。 「あぁ!もう!面倒臭い男!」 オレはそう言うと、桜二に電話した。 「桜二!ヒロさんが面倒くさくて嫌だ!一発ぶん殴って!」 電話口の彼はケラケラ笑うと、オレに言った。 「つるとんたんに行っといで…」 何でもかんでも、つるとんたんで解決すると思ってるの? お前のつるとんたんへの信頼は、いったい何なんだよ?! 小一時間、問い詰めたいね。 面倒だから出前にしようと思ったのに… オレはわがままボーイを連れると、歩いてつるとんたんまで行った。 彼は“近所の”とオレが言ったからほぼほぼ寝間着姿で付いて来た。 ここは、都心だよ? それを忘れてるね? 六本木までやってくると、つるとんたんに入って座席に座る。 「シロ~、こんな格好で来ちゃったけど…」 予想通り、ごちゃごちゃ煩い事を言うから、オレは笑顔でヒロさんに言った。 「誰もヒロさんを見てないよ?それに、なんだか、休日の芸能人みたいに見えるよ?」 オレのその言葉に気を良くしたのか…ヒロさんは気持ちを持ち直してメニューを見て言った。 「カレーうどんにする!」 彼はちょろい。 オレはいつもの明太クリームうどんを注文した。 「シロ~?なんだか、モモに会わないと…体の半分が無くなった気になって来るよ…」 浮気した癖に、よく言うね? 「そうなの?でも、もうすぐ会えるんだから良いじゃないの。お土産何にするの?」 頬杖を付きながらそう聞くと、彼はにっこりと笑って言った。 「何が良いと思う?」 そうだなぁ…オレだったら… 「好きな人が帰って来てくれるだけで、嬉しいな…」 オレがそう言うと、ヒロさんは頬を赤くして言った。 「シロって…そういう所があるよね。そして、それが彼らをメロメロにさせるんだろうね…汚い汚れた男は、そういう欲のない姿にメロメロになるんだ。」 そうかな…?オレはかなりの欲深だけどな…? 彼は見る目がないね? 美味しいうどんを食べ終わると、急いで家に戻って出かける準備をする。 シャワーに入ると全身くまなく綺麗にして、歯磨きをする。 そんなオレの様子とは対極的にのんびりとリビングを歩くと、ヒロさんはケラケラ笑いながら言った。 「どこに行くの?浮気でもするの?」 馬鹿言っちゃいけない。 ソファでゴロゴロするヒロさんを見ると、オレは一張羅の高い革パンと、勇吾とお揃いの猫のトレーナーを着て言った。 「どう?」 そんなオレを見つめると、彼は困惑した顔で言った。 「…正直、さっきの方が良かった。」 はぁ?! いつもの格好に着替えなおして、再びヒロさんに言った。 「どう?」 「うん、浮気向きじゃないけど…いつものシロだよ。」 コートを手に持ってショルダーバッグを肩から下げると、大慌てで玄関へ向かう。 「ヒロさん!外出するときは…鍵を閉めてよ?」 「オーケー、ママ!」 全く! ヒロさんはオレを舐めてるな! 急いで大通りに出ると、すぐにタクシーを停めて乗り込んだ。 目的地を告げて、携帯電話で時間を確認する。 はぁ…遅刻しないでくれよ…!大事な時なんだ! ショルダーバッグの中を確認して、通帳、印鑑、そして…なぜか兄ちゃんの写真を持ってきた事に気が付いた。 「なぁんで…これ、持ってきちゃったんだろう!」 きっと、頭の中で…大事な物…大事な物…なんてずっと言っていたから… 本当に大事な物まで、持って来ちゃったんだ。 馬鹿だな…オレ。 目的地に到着すると、髪を直してインターホンを押した。 どん吉…どん吉…どん吉…! オレの事…忘れてないかな…? 無意識に強く握った手のひらに爪が食い込んで…痛くなった。 「はい~。」 「あ…本日、2:00から…恵さんとお会いする約束した結城と申します…」 オレがそう言うと、インターホン越しに赤ちゃんの声が聞こえて…一気に緊張してくる。 はぁはぁ…どうしよう! 「どうぞ?中に入って、道なりに進んでもらって…左にあるお部屋で待ってます。」 インターホン越しに女性がそう言うと、目の前の門扉がガチャリと開いた。 恐る恐る中に入ると、言われた通りに道なりに進んでいく。 小さな小道を挟んだ両側に広がるウッドデッキ、両側に平屋の部屋が並んで佇むさまは、まるでアウトレットパークさながらのお洒落な景観を生み出して、オレが居た様なジメッとした施設とは一線を画していた。 小さい子供が駆け回る中庭を通って部屋に近付くと、左側にこの場所に不釣り合いなガチガチにスーツを着た眼鏡の男性を見つけた。 「あ…。め、恵さん…」 オレはそう言うと、手を振って急ぎ足で彼の元へ向かった。 「おい!お前!」 足元に現れた子供にびっくりして足を止めると、その子はオレの足を蹴飛ばして言った。 「俺の母ちゃんじゃない!」 そらそうだ。 オレは男だからね? …お前の見る目がないんだよ? 「こら…お客さんに止めなさい!すみません、ほんと…ごめんなさい。」 さっと現れた女性は、そう言ってオレに謝ると、その子を連れて広場の方へ向かう。 分かるよ。 オレも、一時保護で施設に入ってたからね… 来る人、来る人、もしかしたら自分のお母さんじゃないかって…期待しちゃうんだよね。 オレ? オレはそんな期待なんてしなかった。 ただ、兄ちゃんに似た年頃の人が来ると、無差別に甘えて困らせたくらいだ。 「シロさん…大丈夫?」 「あ~、全然…」 恵さんにそう言うと、彼は嬉しそうに目じりを下げて言った。 「どん吉君と、彼のお母さんが…先に到着されてます。」 「た~んたん!たんたん!」 その声を聞いただけで… 両眼から涙がグングン溢れて… 歪んだ視界で可愛いあの子を探した… 「たんたん!たんたん!」 「桜ちゃ…桜ちゃん!桜ちゃぁん!!」 お母さんの膝の上で、オレに両手を伸ばすあの子を見つけた…! その瞬間、ボロボロに泣き崩れながらあの子の傍に駆け寄ると、小さな手を握って言った。 「桜ちゃん!良かった!!良かったぁ!!」 そうだよ…この子の名前は…どん吉。 でも、オレはずっとこの子の事を”桜ちゃん“って呼んでいた。 だから、咄嗟にそう言っちゃったんだ… 可愛い桜ちゃんの手を握ってボロボロと涙を落とすと、目の前に座った桜二の娘が言った。 「…あの…抱っこ、しますか?」 「もちろん!」 オレはそう言うと、ショルダーバッグとコートを床に放り投げて、桜ちゃんを抱っこした。 「あぁ…!桜ちゃん…愛してるよ…可愛い子。可愛い子!」 柔らかくてあったかいあの子の体を抱っこすると…前よりもずっしりと重くなった印象を受けて、口元が緩んでいく。桜ちゃんはいつもの様にオレの髪を掴むと、頭をポンポンと叩いて、笑った。 「あぁ…」 この子の笑顔を見たら、全身の力が抜けて…床にへたり込んだ。 はぁ… やっと、やっと。この子に会えた… 体の凹凸が埋まる様にギュッと抱きしめると、あの子はクッタリとオレに甘えて、小さな両手で抱き付いた… そんな様子を見ると、桜二の娘は両手で顔を押さえて涙を落した。 放り投げたバッグとコートを手に取ると、恵さんが丁寧に椅子に置いてくれた。そして、オレとどん吉を見ると…瞳を細めて言った。 「良かったね…どん吉君。」 込み上げる喜びを押さえながらあの子の顔を何度も見て、あの子の頬を何度も撫でて言った。 「桜ちゃん…?ちょっと大きくなったね?沢山ミルク飲んだの?偉いね。偉いね。」 「シロさん…どん吉君です。」 恵さんにそう言われてハッとすると、お母さんを見て眉を下げて言った。 「…つい、ごめんなさい。」 そう言ってどん吉をお母さんの膝に戻すと、恵さんに促されて席に着いた。 「本日は、お越しいただきましてありがとうございます。」 恵さんの堅苦しい挨拶を右から左に流して聞くと、目の前で元気に遊ぶどん吉に目じりが下がりっぱなしになる。 あの子の手には…オレがあげた”ダブルデッカー”の木のおもちゃが握られている。 ぐすっぐすっと鼻をすすると、桜二の娘を見つめて言った。 「良かったね…うっうう…良かったね…」 そんなオレにもらい泣きすると、桜二の娘も鼻をすすりながら言った。 「…すみませんでした…」 「良いんだよ。オレは赤ちゃんが好きだし、大変だったけど、全然苦じゃなかった。」 そう言うと、どん吉と見つめ合って彼の目元に誰かの面影を感じながら言った。 「愛してるよ…どん吉。」

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