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第3話 ただの罰ゲーム
頭がおかしくなってたのかもしれない。
あんな高そうなスパークリングワインなんて飲んだことがないから、口当たりの良さに気が付かず、飲みすぎたのかもしれない。すごく美味しかったから、だから、きっと頭がちゃんと働いてないんだ。
じゃなきゃ、あの時、この人を引き留めるみたいに声なんてかけなかったと思うし。こんな………。
「どうぞ……」
こんな部屋までついていくなんてこと、俺がするわけないんだ。
「………お、お邪魔、します」
会ったばかりの人となんて。
こんな大胆なこと。
「すご……」
相手を、して欲しいなんて言われたって、ついて行ったりなんてしない。普段の俺なら。さっき飲んだバーが入っているホテルの一室、中に案内されると大きな窓からレースカーテン越しに外の夜景が見えた。
「ああ、けっこういい部屋だったね」
平日だったからかなと 窓際から外の夜景を覗き込んで、その人は笑った。俺もつられるように外へ、窓の下へと視線を向ける。すごいな。 ついさっきまでそこにいたんだ。俺は路地を歩いてた。
「夜景、好き?」
「! あ、いえ……こんなところあまり来たことがないんで」
「………そうなんだ」
腰に手が。
その人は笑顔のまま、自然と俺の腰に手を置いた。
「あ、あの」
そういう意図っていうのは俺みたいな疎い奴にだってわかる。 その、つまりは、 相手をして欲しいってこの人が言った意味、こういうことをするんだって。だから驚きはしないけれど……でも、どうしたらいいのかわからなくて、狼狽えていると、唇に触れた。
この人の唇が。
「? 君、ごめん、このタイミングで尋ねるのもどうかと思うけど、 もしかして、初めて?」
「あ。いえ……あの」
引き寄せられた時、 緊張して身体が硬くなった。 触れた唇に驚いて、 戸惑いをどう隠したらいいのかもわからなかった。
大学を卒業して、三年。 ニ十五歳。 おかしい、 だろうか。 その。経験がないっていうのは。
好きになったのが全部ノンケだったから、 ずっと肩想いばかりだったから、したことがなかったんだ。
「ああ、ごめん。 その、 こういうの不慣れなんだろうとは思ったけど、 でも。 初めてとは思わなかった。すまない」
「え?」
「初めてなら、相手は選んだほうがいい。 ちゃんと」
「あ、 あのっ、初めてではないっ、です」
やっぱり頭がどうにかなっちゃってるんだ。 まさか自分から食い下がるだなんて。 ほら、 この人だって目を丸くしてる。でも、それでも食い下がった。
「学生の頃、 飲み会でしたことが……あって」
今日は自棄になってるんだ。もうこのまま、俺にはまともに誰かと恋愛なんてできる気がしない。 ずっと片想いばかりでいつまでたっても実らない。そんな気がする。
「だから、その初めてではない、です。だからっ」
まともな恋愛もできない、キスもろくすっぽしたことがない、今までも、そして、これからもずっとこのまま。きっとそれは気のせいなんかじゃなくてさ。結構、確信に近い予想なんじゃないかって。
それなら、ここで、この綺麗で上品で優しそうな人に……そう思ったんだ。
「ば、罰ゲームで、だけど、でも、だからっ……」
「…………それ、キスって言えないだろ?」
「ぇ……」
優しそうな人だから。
この人にしてもらいたいな、なんて。
「罰ゲーム、でするもんじゃない」
「……」
この人の手が俺の頬を包み込むように触れて、耳を揉むように撫でた。
「……ぁ」
耳、くすぐったいけど気持ちいい。
「その時はどうやってしたの?」
「あ、えっと、高校の、時、その遊んでて、酒、ちょっと飲んじゃって、それで、ゲームで負けて」
「高校生で飲酒?」
「ちょ、ちょっとだけ、ですっ」
ほら、よくあるだろ? どんなものなんだろうって飲んでみたんだ。カクテルだったんだけど、オレンジジュースに何か混ざってるような味で、普通のオレンジジュースの方が美味しいなって思ったのを覚えてる。それでも初めてだったから僅かなアルコールでも確かに酔っ払って。
「それで、なんか負けた奴同士で……って」
「好きな子、だった?」
「ぁ……はい」
そう、その時好きな奴だったんだ。俺は人見知りだから、こんなことも普段の俺ならしないし、同じ趣向の人間が集まりそうな場所にも行けない。行ったところで、相手にされる気がしないし。だから、好きになるのは大体近しい奴ばかり。人付き合いの範囲がとても狭いから、出会う人の数も少ないんだ。
そいつは親友でさ、いつも一緒にいた。その時、俺は罰ゲームとかでも、やっぱりドキドキしてさ。
「でも」
キス、するってドキドキしてたっけ。
「でも、拒否られ、たから」
「……」
ウゲー、マジかよ、って。
「すぐ口拭かれて」
「いいよ」
「え?」
「俺の相手、してくれる?」
その人は何かを切り替えるように、少し大きな声でそう言って、俺はその声にパッと顔を上げた。その人は、俺に優雅に微笑んで、もう一度、腰に手を置いた。
「ぇ、あの」
腰をもっとしっかり掴まれて、引き寄せられて、大きな大きな窓とこの人に挟まれるように、包み込まれるように。
「それはただの罰ゲーム」
「……」
「キスとは呼ばないんだ」
そっと、この、唇が触れ合いそうな距離でしか聞き取れないほどそっと静かな声がそう言って、顎にこの人の長い指が触れる。上を向くと、もう一度、今度はしっかりと唇が重なった。重なって、そして、こんなに柔らかいんだって驚いた。
「……ぁ」
人の唇はこんなに柔らかいのかって。
「名前は?」
「あ、えっと、拓馬、です。小野池拓馬(おのいけたくま)」
「……拓馬」
「!」
びっくりした。いきなり名前を親しげに呼ばれたことに狼狽えてしまった。
「あ、貴方は?」
「敦之(あつゆき)だよ」
「敦之、さん」
俺の呼び方がぎこちなさすぎたんだろうか。彼は笑って、スッと通った鼻筋を俺の首のところに埋めて、そこにキスをひとつしてから、また笑った。
「上条(かみじょう)、上条敦之だよ」
「あ、じゃ、じゃあ、上条さん?」
「どちらでも」
え、じゃあどっちで呼べばいいのかわからない。けれど、俺にはいきなりで、初対面で敦之さんなんて、呼べそうになくて、だから。
「あ、上条、さ……」
「いや、やっぱり、名前で呼んで」
「え? あっ、えっと」
「敦之だよ」
「敦之、さん」
「そう……」
彼はまたもや笑って、そして、もっとしっかり俺を引き寄せた。こんなに誰かの近くに来たことなんてなくて、死にそうになりながら、揉みくちゃにされながら乗る毎日の満員の通勤電車でもここまで近くなんて来たことなくて、だから、戸惑って狼狽えてしまう。
「あっ、敦……ン」
狼狽えながら抱きしめられた俺は、さっきしてもらえたキスよりももっとしっかりと重なる口付けにもっと狼狽えて。
「拓馬、これがキスだよ」
人生初のキスを、この綺麗な人にしてもらった。
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