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第6話 小鹿

 朝は六時に起きる。出勤するのは六時五十分。電車で揺られて四十三分。会社に着くのは八時前。そこから、仕事をして、昼飯を食う時間もないほど、腹が空いたと思う暇もないほど、仕事をして、して、して……。もちろんサービス残業。  帰ろう。電車がなくなる。  と、朝歩いた道を帰っていくのが日付が変わるか変わらないかの頃だってこともある。部屋にたどり着いたら、シャワーだけして、何か腹に入れて、寝て、起きて。  それをこなすだけなんだろうって、思ってた。  週末の休みは溜まってる洗濯物をして、家事をして終わる。そして、また月曜からの仕事に溜め息を吐いて。  おかげさまで大学の頃から、好きだったあいつとは社会人になってからほとんど会えてなくて、その会えていない間に向こうは結婚まで考えるような女の子を見つけてた。そうとも知らずに、俺はのこのこと会いに出掛けて。見るも無惨な失恋をした。  一生、俺には恋だ愛だは無縁なのだろうと、自棄になった。  ヘトヘトになりながらとりあえず食う飯と同じくらいに、なんて味気のない日々なんだろうって、自分自身のことを思った。  暑くも寒くもない。ただとにかくその日その日をこなすので精一杯だった。目に入るものはどれも目まぐるしくて、色も褪せているように感じられた。  今は――。 「……」  今は。 「平気? 目が覚めた?」 「! あ……あの」 「身体は? どこも痛くない?」 「あ……」  今は。身体の奥が。 「? どこか痛む?」 「ジ……ジンジンします」  奥が熱い。 「っぷ」 「! す、すみませんっ、あのっ、痛いとかじゃないです! だから、その苦情とかじゃなくて、あのっ」 「違うよ……ずいぶん」  ぽろりと溢れた感想はどう聞いたって、苦情っぽかったと慌てた。自分から相手をさせて欲しいと頼んでおいて、この人なら相手に困ることなんてないだろうに、それでも俺なんかを抱いて欲しいと頼んでおきながら、処女だからと気遣ってもらっておきながら、なんてことをって。 「ずいぶん、可愛い感想を言うなって思っただけだ」 「!」 「それから可愛い寝癖だなって思っただけ」 「!」  バスローブを身に纏い、ベッドの端に腰を下ろし微笑む濡れ髪の敦之さんはまるで映画のワンシーンみたいにしとやかだった。  その人が微笑みながら、スクリーンから飛び出してきて、俺の頬を撫でて、そのまま頭を撫でた。俺の寝癖に笑った。 「食事をしよう。ルームサービス、軽食くらいならまだ頼めるから」 「あ……そんな」 「腹、減ってるだろう?」 「いえ、あのそんな、お構いな、」  ぐうううううう。 「!」  お構いなくって言いたかったんだ。なのに、なのに。 「っぷ、あははは、腹の方は構ってくれって言ってるみたいだ」 「! こ、これは、違くてっ」 「大丈夫、俺も腹が減ってるんだ。サンドイッチでもいいかな」 「は、はい……」  こくり頷くと、また寝癖を撫でられて。 「じゃあ、サンドイッチで決まりだ」  映画のスクリーンから、テレビの画面から飛び出してきたようなこの人の手が確かに触れて、夢じゃないんだなって実感した。身体の奥のところ、そこがやっぱり、本当に、熱かった。 「本当に今日一日食べてなかったのか?」 「はい。仕事が忙しくて」 「仕事が忙しいからって……どうりで細いわけだ」 「! すみませんっあの抱き心地悪かったですよねっ」  そこまで考えが至らなかった。自分の身体の抱き心地なんてところまでは。そうか考えたら、そうだ。抱き心地悪いだろ。骨っぽくて、味気ないに決まってる。 「そういう意味じゃないよ。細くて心配だって意味だ。抱き心地で言うなら最高だったよ」 「ぇ……」  こんな貧相な身体が? 「まるでプルプル震える小鹿を喰らう獣になった気分で興奮した」 「こっ、こじっ、じかっ」 「っぷ、あはははは、冗談だ」  まるでピクニックみたいだった。場所も服装も違うけれど、届けられたフランスパンのサンドイッチは映画の小道具みたいに素敵だった。地味な庶民の俺はよくコンビニにあるような白い三角のサンドイッチを想像していたから、運んでもらった時びっくりしてしまった。予想外のサンドイッチの風貌に。それをベッドの上に運び入れて、俺はまだ裸のまま、敦之さんはバスローブ姿のまま、二人でベッドの中で食事をしている。  まるで、ピクニックみたいに。 「でも、抱き心地は良かったよ。とても」  まるで映画のワンシーンのように。 「とても……気持ち良かった……」  目が合った。部屋の明かりを暗めにしているからだろうか。敦之さんの瞳が濡れてるように見えてドキドキした。  こんな人に、抱いてもらったのかと、今更ながらに大それたことをした自分に驚いたけれど、信じられないけれど、本当に抱いてもらったんだ。  ほら、まだ中が熱い。 「よかった。俺の抱き心地……」  視線がぶつかって、そして。  まるで映画のキスシーンのように。 「……」  俺からキスをした。 「す、すみませんっ」  ほら、敦之さんも驚いてる。目を丸くしてる。 「食事中にっ」  俺もびっくりしたんだ。自分からキスをするなんてこと。  でも、自然としちゃったんだよ。なんでかわからないけれど。  俺は、生まれて初めて自分から、キスをした。 「い、いただきますっ」  自分から、この優しく綺麗な人にキスをしたんだ。

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