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第7話 十八時十三分
「っ!」
夢……みたいと、思った。
「……」
でも、本当だった。
「……ぁ」
本当の出来事だった。
「わっ……」
飛び起きて、そっと、気が付かれないように静かにベッドを抜け出したら、その拍子に着ていたホテルの、なんだっけ、ネグリジェだっけ、それがめくれて、太ももまであらわになって、なんて格好してるんだって慌てた。だって、下、履いてない。
そのまま裸足でクローゼットでスーツをハンガーからむしり取るとバスルームに駆け込んだ。そして、昨夜のことを思い出す。
ここで、あの人に、俺は……。
なんか、本当に夢みたいなのに。
「えっと……ネクタイ……それと……」
一晩で起きたとは思えないくらいにたくさんの出来事、信じられない夢の出来事、みたいなのに。
でも、それは本当にあったこと。
「……」
とにかく服を着て、それで、出る間際、一度振り返ると、やっぱりそこには昨日、俺が触れた人がいた。
まだ眠ってる。
「……」
本当にびっくりする。
あの人に一晩、付き合ってもらったんだ。本当に。
俺の夢に。
あんなかっこいい人に。
だからそっと、そーっと、戻って、デスクのところにあるメモとペンを手に取ると、そこに一言だけ書き残した。
「……」
そして、気が付かれないように起こしてしまわないように、今度こそ部屋を静かに抜け出した。絨毯は足音をなくしてくれた。エレベーターもあの人を起こさないようにそっと扉を開いて、俺を下の、地上へと下ろしてくれる。
降りて、外へ出て、そこでようやく深呼吸をする。
昨夜、見下ろした景色の場所に戻ってきた。
ここだと街の看板、車のライト、全部うるさいくらいの明かりになるのに、ほら、ちょうどこの上、あの高い場所から見ると綺麗な光の粒に見えたんだ。そのくらい高いところにいた。
大袈裟でもなんでもなく、一生見る事のない景色だった。なんていうかさ、高いところなんていくらでもあるし、見事な夜景が見たければ自分で東京タワーでもスカイツリーでもなんでも登ればいいんだけど、そうじゃなくて、あの景色を誰かと見るっていうのが、俺にはありえないことで。
昨日の事は全部夢みたいだったわけで。
叶う事はありえないはずだったことばかりで。
あんな人と一晩過ごすなんて、俺の人生の中でどうひっくり返ったってありえない事だった。ホント、絶対にありえない事。
「……敦之さん……」
だから、それを叶えてくれたあの人へ、パッと読んで、そのままゴミ屑へと捨てたって何も気にならない、もしくはそのままほったらかしにしておいてもホテルの人が捨ててくれるだろうメモ紙に、残しておいたんだ。
――ありがとうございました。
そう書き残してきたんだ。
もうきっと会うこともない人。
もうきっとあんな夢を味わうこともない夜。
それは全部俺に取っては大袈裟でもなんでもなく、奇跡みたいな一晩だったから。
それをくれた人にお礼を、言っておいたんだ。
「おーい、小野池、客先に連絡しておいたか?」
「あ、いえっ、まだです!」
「午前中に連絡しないと向こうの担当者外回りに出ちまうぞ」
「は、はいっ」
ようやく頼まれたことをし終わって、デスクに戻った途端、俺に用事を頼みまくった張本人である上司がダルそうに電話を指差した。
「今、しときますっ」
水を一口飲むのも忘れてあっちこっちでアレをしてコレをしてと仕事をしていたから、電話をかけてすぐ、ワンコールも終わらないうちに繋がった電話の向こうに挨拶をするのが遅れた。喉奥が渇きすぎてくっついてる感じ。
「あ、す、すみません。いつもお世話に」
いわゆる社畜? ってやつ。
まぁ、ブラック企業っていう感じ。
定時? 何それ、美味しいの? ってくらいに毎日残業が当たり前。
美味しいんだよ、定時上がりっていうのはさ。奇跡のご馳走だ。ここで働いて一度も味わったことのないご馳走。もちろん、タイムカード上はそうなってるよ。本当の退社時刻をタイムカードに刻印しようものなら基準に引っかかるし、皆の「おいおい何してくれてんの?」っていう視線が突き刺さるからできるわけもない。本当の退社時刻なんて刻印したことはほとんどないかもしれない。
でも、この前は本当の退社時刻だった。普段と違って、本当に早く帰ったから、他の日に比べて刻印されてる時刻が中途半端なところになっている。
その日以降の退社時刻はまたいつもどおり、基準の時間ギリギリのところで綺麗に刻印され、俺は仕事を終えたことになっている。
「おい、小野池、この後商談入ってるからな」
「は、はいっ、あ……でも、俺、この後、製造のヘルプに」
「はぁ? お前、営業の人間だろうが。なんで製造の仕事が優先なんだよ」
「はい……すみません」
でも、検査の手伝いに行かないといけなくて。
うちの会社は製造業で、俺はそこの営業マン。でも、仕事なんて海外の安い単価でこなせるところが総取り状態。うちみたいな会社は短納期、低価格にしないと仕事なんて取って来れるわけがない。利益なんて出るわけがない。たまに赤字になるのだってある。そりゃ赤字になるような価格を見積もれば仕事は取れる。実質の利益なんて出てなくたって、仕事が取れれば、どうにか会社は融資を受けられるんだろう。もちろん、帳簿なんて誤魔化しまくりに決まってる。そうして短納期で無理に仕事を取るから製造は悲鳴を上げる。悲鳴を上げて、手伝いを寄越せと騒ぐ。そしたら、俺たち兵隊は営業だろうとなんだろうと命令されればその手伝いをしなくちゃいけない。そして自分の仕事は後回し。後回しになった自分の仕事は、出荷まで終了した後にやるしかなくて。
はい、これで今日も大幅超過残業決定だ。
これが現実。
これが俺の毎日。
けれど、確かにあれは起きた出来事だったんだ。もう、それから幾日か経ってしまって、身体の中に残る違和感も消えてしまったけれど。
「はぁ……」
俺はあの人のすっぽかされたと言っていた一晩の代役を上手にできてたんだろうか。いや、多分、役不足だったと思う。俺にそんなの充分に務められるとは思えないから。それでも、あのタイムカードが中途半端に、十八時十三分と打刻されているあの日は、確かに実在したんだと……古びた天井を見上げて、溜め息を溢した。
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