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第9話 「相手」
「敦之さん……」
ひどい飛行機酔いだった。 悪天候にかなり揺れて、胸のところは圧迫感がひどかったし、もちろん吐き気だって。 普段から寝不足が常になってるせいもあったのかもしれない。不慣れな場所でずっと背中を丸めて自社製品の選別作業を一人で黙々としていたから体も頭も重くてダルかった。だから、俺は飛行機に酔ってしまって、とても気分が悪かった。 でもどうにか自分のスーツケースをレーンから持ち上げた、その拍子に、よろけて。
「……君は」
人にぶつかってしまった。 すごく重くてさ、つい、足元がふらついたんだ。
「あの時の……」
「!」
思わず名前を呼んでしまった。
バカだな、俺。
恥ずかしい。
向こうは、言い淀んだのに。 そりゃそうだ。 俺の名前なんて覚えてないに決まってる。もう数週間経ってるんだ。
その間にこの人にはたくさん 「相手」 がいただろ。
その「相手」のうちの一人のことなんて、しかもたった一晩、成り行きで、その場しのぎの「相手」だったんだ。忘れられてるに決まってる。
なのに、自分だけがこの人の名前を覚えてて、自分だけがたった一晩のことを覚えててさ。
「す、すみませんっ」
ホント……。
「拓馬、君」
「!」
ぶつかったことを謝って、その場を急いで離れようとした。そもそもこんな場所で急に声をかけられても困るかもしれないだろ。一人じゃないのかもしれないのに、親しげに名前を呼んだりなんかしたら迷惑かもしれないと今頃気がついて、慌てて、離れようと思った。
けれど、手を掴まれた。
「驚いたな。こんなところで会うなんて」
覚えていて、くれた。
「あ、あの」
「また逃げられそうだから、つい……捕まえた」
「……あ、いえ、あの」
「あの時、朝、起きたらいないから、俺は失礼なことをしたんだろうと思ったんだ」
俺の名前を憶えていた。
あの日のことを覚えていた。
「そ、そんなことはっ」
「本当に?」
「は、はい」
「それならよかった」
そう言ってこの人が優しく微笑んで。俺は、微笑まれたことに少し驚いていた。
「出張だったのか。 じゃあ、お疲れ様、だ」
「お、疲れ、さまです」
空港の中にあるバーであの人がグラスに入ったビールを傾けた。こんなところ寄ったことがなかった。というか空港に来る用事など普段はないから。行きの飛行機の時も空港で搭乗手続きを終えてからもその前もどこの店にも寄らずにいた。
「敦之さんは旅行、ですか?」
「いいや、俺も出張だよ」
そう、だよな。こんなスーツを着てるんだからプライベートってこともないだろ。 初めて会った時も思ったけど、自分のいる場所でいうところのビジネススーツとは全然違うから、なんだか仕事をしている人には思えないというか。スーツのカタログかもしくはファッション雑誌から飛び出してきたようにしか見えなくて、つい、おかしなことを訊いてしまった。
それに比べて、今日の俺はこのあいだよりもひどい有様だ。 長距離移動に、飛行機酔い、もうスーツなんて嫉になろうがどうでもいいくらいにヨレヨレだ。 もちろん、空港でこんなふうにグラスを傾けて楽し気に談笑しながらビールを嗜むような風貌なんかじゃない。ガラゴロと音を立てながら、スーツケースを引きずってコンビニ弁当を買って帰るほうがずっと似合ってる。
「飛行機は苦手?」
「え?」
「疲れてそうだ」
「いえ……」
彼は言いながら自分の目元を指さした。 多分、クマがすごいんだろう。 でも、何ら普段と変わらない。 疲れてるのなんていつもだし、寝不足が続いてクマがあるのも常だ。
「でも今日は少し俺も疲れたな。途中までは快適だったんだが、空港が近くになったら急に飛行機が揺れだして。 着陸の時なんて少し身の危険を感じるくらいだった」
「俺はずっとそんなでした。 なんか気流が乱れてるとかで、ずっと」
「それは……ご愁傷様だ」
その人は楽しそうに笑って、またビールを一口、ロに含んだ。
変な感じだ。まさかこの人にもう一度会うなんて思ってなかったから。 名前はあの時聞いたけれど、連絡先なんて交換していない。 本当に一晩だけのことだった。 俺はこの人の 「相手」 をして、この人は俺の初めての 「相手」 になってくれただけ。
ただ、それだけ、だったから。
って、別に今だって、それだけ、だろ。
何か約束してここでこうしてるわけじゃないんだから。 成り行きというか、なんていうか、ただちょっと付き合い程度に一杯飲んでるだけなんだから。この後とか、ないし。 何を期待して。 って、別に期待なんてして。
「ありがとうって……」
「……え?」
「あんなこと言われたの初めてだったな」
「……あ、あれは」
「あれは、君の初めての男っていう大役は担えたってこと?」
大役なんて、滅相もないことだ。 むしろ俺なんかのことをこの人が覚えていたことがまず。
「もう。帰るところだった?」
「……ぇ」
別に期待なんて、していない。
「出張が終わった後にオフィスには戻らなくても大丈夫?」
「あ、はい……直帰、なので」
期待なんて。
名前すら憶えてもらえてるわけがないと思っていた。 この人の 「相手」にあの時なれたのはとても珍しいまぐれだった。もう、二度とない、出来事だった。
「そう……俺も、今日はもうフリーなんだ」
「……」
「もう君の初めてっていう大役は推えないけど」
「……あ」
「もし、この後、何も用事がないのなら」
もう二度とない。
「俺の相手をしてくれないかな」
出来事だった。
ヤニの染みついた休憩室が似合いの灰被りのサラリーマンには似つかわしくない場所、時間、相手、だった。それこそ魔法の杖でも振り翳さなくちゃ起きることのない、稀な出来事、だったんだ。
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