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第10話 既知甘美

 すごいな。  本当に別世界だ。  こんな急に、 突然に、 空港近くのホテルの部屋を取ることなんてできるんだ。 べッドがあるだけのビジネスホテルなんかじゃなくて、 ちゃんとしたホテルの部屋。  このホテルだってフロント、 ロビーは立派なものだった。 この人がチェックインを済ませている間、 皺くちゃのスーツで待っているのが恥ずかしくと思えるくらいには、立派なホテル。  そんなホテルの一室で。 「……あぁ、 すまない。 それで進めてくれ。 あぁ……」  たぶん、 仕事の電話だ。 俺が会社に電話をするのとじゃ全然様子が違ってるけど。 「いや……」  電話の相手は、部下だよな。 まさか、 秘書、 とかだったりして。 「今日はこのまま帰るよ」  その会話に自分のスーツケースの角に見つけた傷をなぞっていた指が止まった。 この後、この人は仕事をしないんだって、そう改めて、 その会話に教えられて、ドキリとした。  その、仕事をせずにこれからすることの相手を、 また俺がするんだって思って。 「ああ、それじゃあ、 お疲れ様」  俺はまたこの人と。 「申し訳ない。仕事の電話なんてして。拓馬はもうオフィスに電話したの?」  セックス、するんだって。 「あ、大丈夫、です」  そう思ったら、ほら、 身構えてしまって返事が喉に突っかかった。 「そう?」 「は、 い」  ここで電話なんてできるわけがない。 すみませんの連呼なんて。 「………敦之さ、 ン」  それに俺が電話したくない。 この人のいるところは俺のいる場所とかけ離れていて、 まるで違う世界なんだから。今くらい俺のいるあのヤニの染みついた場所で過ごす毎日を、窮屈で退屈で、それでいてヘトヘトな毎日を今だけ知らんぷりできるのなら、していたい。 「あっ……敦之、さん」 「顔色も良くなったみたいだ」  さっきまでは飛行機酔いでクラクラしていたけれど、今は、それどころか頬が熱いくらい。それを知っていてこの人は悪戯を楽しむように少しだけ笑って、俺の赤面の本当の理由を知らないフリをする。 「か、らかってます?」  今は別のことでクラクラしてるなんて、きっとこの手慣れた人にはわかってるんだろう。 「うん。少しからかった」  俺が今、どうしてそばに来たこの人を直視できずに赤い顔をしてるのか、なんてさ。 「あっ」  そして、 腰を抱かれて、首筋に噛み付かれて、 甘い声が思わず零れる。 「シャワー、先に浴びておいで」 「っ」  たかが首筋へのキスひとつに、 これからする行為に、真っ赤になる俺へ、この人はまた書置きだけ残して逃げられてしまうからねと、優しく笑った。  笑ってしまうくらいにドキドキした。  俺は出張の帰りで、手荷物を受け取ろうとしていた。あの人も出張の帰りで、手荷物のスーツケースを引きながら空港を出ようとしていたところだった。そこで偶然にも遭遇して。それで、ビールを飲んで。こうなったんだ。こんな偶然ってあるんだな、なんて考えてはまたドキドキしてた。  大きな、もしかしたら俺が出張で寝泊まりしていたビジネスホテルの一室くらいの広さがあるバスルーム。曇りガラスで仕切られたシャワーブースの中で、何度も深呼吸をしていた。  今は。  入れ替わりで敦之さんがシャワーをしていて、その水音が聞こえてくる。  初めての時にはなかった緊張感に、目眩がする。  初めての時は知らなかったから。セックスって想像していただけで、したことのない行為だったから。でも今はもう。 「泊りでいい?」 「!」  知ってる。  水音が止んだ、と思ったら、バスローブ姿の敦之さんが髪をタオルで拭いながらやってきた。  思わず「うわ……」って、心の中で呟いたんだ。まるでさ、映画とかにありそうな、いかにもっていう姿があまりにも似合ってて。 「え? あ、はい」  バスローブの隙間から見える胸の筋肉に視線がいってしまって、慌てて、逸らして。 「スーツ、 クリーニングに出すよ」 「え! いえっ、 こんなの別にそんな、 気にしなくても」  安物なんだ。わざわざホテルのクリーニングにお願いするのは気が引けるほど量販店で買った安いスーツ。洗濯機で洗えるっていうからそれにしたんだ。だからそんな大そうなことはしなくて大丈夫だと慌てて首を横に振る。 「違うよ」 「え?」  敦之さんの髪からシャワーの雫がぽたりと落ちた。けれどバスロープを羽織っているから、 かまうことなく、 濡れたまま。 「スーツがなければ逃げられないだろ?」  ドキリとするほど綺麗な笑みを向けて、ゆっくりと彼は部屋の電話を手に取った。 「……すまない。クリーニングサービスを頼みたいんだ。まだできるかな。よかった。……あぁ、 宜しく」  敦之さんは電話を終えると俺のスーツと自分のを、すぐに取りに来たホテルマンに渡してしまった。俺なんか相手に、そんなクリーニングも、この人も不似合いなのに、 笑って、これで君は帰れないと楽しそうだった。 「あっ……」 「頬が赤い」  なんてバスローブが似合う人なんだろうって思った。 「拓馬」  それから、あのバスローブで隠してるけれど、あの胸にこれから抱かれるんだって。 「想像した? これからすること」  した。  想像した。  今も、想像してる。 「あっ」  その手に触れてもらうことを。  その裸に抱かれる、ことを。 「あっ………っ」 「頬が赤い。これからすること」 「っ、ン」  一度してもらったこと全部を思い出して、想像して。 「もう、 こんなに?」 「! こ、これは」  あの一回を、 さっきシャワーを浴びながら、ずっと思い出してた。だから、もうそこは……反応してる。それを手の甲でなぞられて、ビクンって、身体が飛び上がった。 「ベッドで待っていればいいのに」 「ン……ふぅ……ん、 く」  手の甲で擦られただけで、たまらない、なんて。 「拓馬」  あの日したキスを思い出した。 「あ、はっ……ん、く……ン」  あのセックスを。 「あっ」  思い出して、ゾクゾクしてた。 「拓馬」  この声に何度も名前を呼ばれた晩を――。

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