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第18話 三

 週末、日用品を買いに出かけて、ふと、足が止まった。 「……」  ボディミスト、っていうんだっけ。ああいうの、薬局とかで売ってるのかなって。  男だし、別に肌の手入れなんてしたことがなかったから、どこにあるのかもわからず。でもきっと女性用肌ケアみたいなところにあるんだろうな。  そう思って、そんなようなものが並んでいる列に入ってみると、色々あって、何が何だか……。けど、ホテルにあったのを吹きかけてもらったらその日は肌がしっとりしていた気がした。もちろん、風呂に入ってしまえば、いつもの俺の肌だったけど。 「あ……」  何やらたくさんある種類の中、一番目につくところに香りのサンプルつきで並んでいたのがあった。その中の一つ、グリーンのラベルのものがホテルで、敦之さんがいい香りだと言っていたものに似てた。  結構するもんなんだな。こういうの。  でも、こんなの買って、肌のケアなんてしたってもう二度と連絡は来ないかもしれないのに。  三週間、間が開いてた。  いや、そうじゃなくて、三週間後にふと思い出して、声をかけただけかもしれない。そっちの方が、つまりは気まぐれの可能性の方が高くて。  だから、「三週間、間が開いていた」はこの場合、合ってないかもしれない。でも。 「千七百円になりまぁす」  ――じゃあ、また。  でも、敦之さんは昨日、ホテルを出る時そう言った。だから。 「ありがとうございましたぁ」  だから、三週間後に、また、あの人に会うかもしれないって。  セフレ、っていうやつなんだろうな。 「わ、サンプルのより香りが強い……風呂上がりに付けるんでいいんだよな」  ほんの少し前の自分なら縁遠い単語だった。  以前の自分なら、少し毛嫌いしていた言葉かもしれない。周囲がそういう事柄に怪訝な顔をするように、俺もそれを真似て、身体だけ繋げたってそんなの、とかさ、思っていた。まずそれすらないだろう平凡な毎日だったから。 「こんな感じ、か? 一回ずつ……シュッてやっとけば」  でも嬉しかったんだ。  会いたいと連絡をくれた。求められた。そのことが。  こんなもので何か劇的に肌が変わるわけじゃないだろうし、三週間後に本当にあの人がまた俺を抱きたいと思うかもわからない。  でも、求められたのが嬉しかったから。だから、それでいい。肌ケアなんてして馬鹿みたいと人に思われたって、別にいいよ。そんなのしたって、そう変わるわけじゃない、そもそも変わったところって、思われたってさ。  シンデレラだって、意地悪な姉たちの目を盗んで、きっと髪を梳いてできる限りで身支度を整えて待ってた。また行けるかもしれないと、あそこにガラスの靴を履いて行くことができるかもしれないと、内心ドキドキしてたよ。きっと。 「しっとり、した……かな」  ほんの少し前の自分なら縁遠いものだった。ボディミスト、なんて。 「……」  誰にも触れられたことのない身体だった。  ――拓馬。  でも、あの人が触れた。  ――やらしい顔してる。  この身体は抱かれたことがある。  ――あ、敦之さんっ。 「……良い香り」  この身体はもうセックスを知ってる。 「あ、小野池さんだ、ちーっす」 「立花君」 「今日は残業っすか?」 「今日も、だよ」 「あはは」  定時の退社時刻を知らせるチャイムを聞きながら、いつものヤニが染み付いた小さな休憩室でコーヒーを飲んでいた。ちょうど外回りから帰ってきたところ。ふぅって一息ついて、今度は外注からの部品受け取りに出かけないといけない。納期が遅れていて、通常納入の朝に持って来られたんじゃ間に合わないんだ。朝イチで作業をしたいから、それよりも早い時間に持ってきてくれと頼んでも、渋がられるだけで、対応はしてもらえない。安価で発注をかけてるうちの会社は外注にとって「美味しい仕事」じゃないから仕方がない。だから自分たちで取りに行かないと……ってなれば、お声がかかるのはナンデモ課である営業で、その中でも。 「外注受け取りに小野池さんが行くって聞いたんで今からかなぁって」  俺がその役回りになる。 「毎日毎日、しんどいっすねぇ、夏のボーナスだって怪しいのに」  毎日毎日、納期遅れの対応に営業の仕事。 「そうだね」 「……? あれ、なんかいいこと、あったんすか?」 「ないよ、別に」 「えー? その割には」  毎日毎日、あれをしてこれをして、次はこれをしないと、あ、あれをするのを忘れてた。そんな毎日。そんな仕事。 「それじゃあ外注引き取り行ってきます」 「……いってらっしゃぁい」  社用車に乗ると、禁煙マークがついているにも関わらず、タバコの匂いがした。そしてそこに混じる自分のボディミストの香り。  とりあえず窓を開けて、助手席に放り出した自分のスマホをチラリと見た。 「……」  さっき、メッセージが来たんだ。あの人から。  ――お疲れ様。また、週末、今度こそはアヒージョを食べようか。  そんなメッセージが来た。 「さて、外注行かないと」  三週間、経ってない。  先週末に会って、俺は日曜にボディミストを買った。そこから、まだ三日しか経ってない。まだ、それしか。  いいことがあったのか、なんて訊かれてしまった。  にやけてしまってたんだろうか。笑ってた? それとも口元が緩んでた? もしくは赤くなってた?  でもさ。  だって。  まさか三日しか経ってないのに連絡が来るなんて思わなかったから、だから、つい、あの休憩室で、そのメッセージを見つけて、顔とかリアクションとか。  ――はい。是非。  心の準備とか、全然、まだ、できてないまま、急いで返事をしたばかりだったんだよ。

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