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第28話 溜め息が
そのうち、忘れるよ。
前みたいになれる。
「おい、小野池、頼んだ書類できてるか?」
「あ、はいっ」
いつもそうだったんだから。失恋したって、仕事に忙殺されてそのうち胸の辺りは痛まなくなる。
「メールしますか?」
「当たり前だ。早くしてくれ」
「は、はいっ」
いつだってそうだったんだから。
「それから、大口の、新規のお客様の接待の方は俺が準備する」
「はい……」
お客様って。
普段、他の顧客に対しては「客」とか「顧客」っていうのに、自分が取ってきた大口のところだけは「お」を付けて呼ぶんだ。それに接待の準備なんて今まで一度だってやったことないのに、この相手の時だけは全部自分でしようとする。なんか……。
「怪しいっすよね」
午前中の仕事のことを昼休みに立花君に話していた、食堂は三階にある。今まではデスクで食べてたんだけれど、彼が、食事くらいちゃんと食わないとって、毎回俺を誘うから。
「ぜーったいに何かあるんすよ!」
ここで食べるようになった。
「えー? 何って、何?」
「た、と、え、ば、着服とか」
「何を?」
「……金?」
「うちの会社の? どうやって」
「……」
「……」
「……」
「……言ってみただけっす。着服ってなんなのかあんまわかってないんで」
「っぷ」
立花君は面白いし。
「でも、絶対に怪しいっすよ」
「はいはい」
金曜日に仕事が終わった後に酒に誘ってもらってから、その前からもよく話はしていたけれど、あれ以来、少し仲良くなった気がする。
「んもー、小野池さん、スルーしないでくださいよ」
「してないってば」
「はいはいって」
「だって、怪しくても、怪しくなくても、俺には関係ないし。仕事だ」
彼は話しやすいし。今は、フリーって言ってたっけ。彼女欲しいなぁって言ってたから、ノンケ。
「そうそう、そうなんすよ。小野池さんって、案外クールっすよね」
「そう?」
「そうそう」
好きに、なってた……かもしれない。今までなら。
「基本、クールっす」
クールに、なれたらいいのにね。全然無理なんだ。まだ、俺はあの人のことを思い出す。いつもなら、そろそろ失恋期間が終わる頃なのに。
失恋なら慣れているはずなのに。
実らないと確定の印を押されたら、しばらくはそのことに悲しんで、溜め息をついて、そうだな、二週間も経った頃には、その悲しいのと悲しみから来る倦怠感と溜め息は随分と軽減されている。溜め息はまた山積みの仕事に向けて吐くくらいに戻ることができる。
でも、まだ。
「そうかなぁ……」
抱かれたから、かな。
まだ、連絡がもう来ないだろうスマホをポケットに入れて、振動したような気がする時がある。
そして、その度に、そのポケットをスラックス越しに手で触っては、落胆の溜め息を溢す自分が、まだ、いるんだ。
「は? 予約してないってどういうことだ」
大きくて見事なシャンデリアにオブジェのように絢爛豪勢な生花、こういうところは敦之さんがよく似合う。
ふと、そんなことを思いながら、レストランの入り口から見える大きな生花を眺めていた。すごく大きな生花。俺の背丈よりもずっと大きくて、そこだけが別世界みたい。花が力強くそこに息づいてる感じがする。
綺麗だな。
前にも、こんな感じに花が生けられてたっけ。敦之さんと歩いた地下の連絡通路のところで。
こんな花が毎日通勤路にあったらすごく元気になるのになぁって話してた。
「……」
今日は、忙しい一日だった。午前中に外回りをして、午後は事務仕事をしながら、打ち合わせの資料を作って、その打ち合わせに同席して。
それから、部長が取ってきた大口の顧客とホテルのレストランで会食接待の手伝いをする予定だった。というか、案内をするだけ。ここから、直帰で帰るらしいから、俺は社用車で部長をここのホテルに連れて行くだけ。酒を飲むんだろう。顧客は直にこっちに来るから大丈夫だと言っていた。
ここに立花君がいたらまた名探偵風に「怪しい。ただの飲み会じゃないっすか」と訝しむかもしれない。
「おいおい、俺はちゃんと予約しただろうが。名前を見てみろ」
会食接待を自分でセッティングするなんて珍しいことをするから。
「大変申し訳ございません。今、伺ったお名前は確かに……やはりないようです」
「はぁ? だから、俺はちゃんとネットで予約をした。あと三十分もしたら顧客が来ちまうんだよ」
「ですが、あいにく本日は満席となっておりまして」
「だから、その満席の」
「もしかしたらお客様……こちらの別支店にご予約されておりませんか? 当店は他にも支店がいくつかございまして」
「…………はぁ? じゃ、俺のミスだっていうのか」
「いえ……もちろん、席が空いていれば、ご案内させていただきましたが、先ほどもお伝えした通り、満席でして……午後、21時半以降であれば」
「そんなの! 無理に決まってるだろ。顧客が来ちまうんだよ」
そんな押し問答がもうすでに十分は続いてると思う。この時間に他のレストランを紹介してもらうとか、探すとかすればいいのに。どうしてもここがいいわけじゃないだろう。このホテルで一番高いレストランなんて、ただの見栄だろうに。
「…………ぁ、お客様」
ふと、我儘で横暴な部長に困っていたレストランのスタッフが、インカムを耳にしっかりと押し当ててから、席をどうにか用意しやがれと騒ぐ部長の言葉を遮った。
「今、お席を用意いたしますので……もう少しお待ちいただけますか?」
「……なんだ、用意できるじゃないか」
「個室になりますが宜しいですか?」
「おぅ、もちろんだ」
鎮火した部長に一礼をした後、席の準備があるとようやくこの押し問答から解放されたそのスタッフがインカム越しにしている会話に。
「……はい。それでは、上條様は……」
ある人の名前が聞こえた。
上条って。
敦之さん。
彼の苗字と同じ名前。
上条……敦之。
「あ、ぶ、部長、それでは俺は」
「あぁ、お疲れ」
「お疲れ様です。失礼します」
今、あのスタッフ、上条って言った。
そして、自然と足が駆け出していた。
人違いだろ。上条なんて名前、そこまで珍しくないだろ。でも、言ったんだ。確かに、上条って。あの人と同じ苗字を呟いたんだ。
いるわけない。
でもいるかもしれない。
今その名前を聞いたからって、ここにいるわけじゃないかもしれない。別人かもしれない。
でも、いるかもしれない。
いたとして、見つけられるわけが。
「…………ぁ」
でも、見つかるかもしれない。
「あ」
いるかもしれない。
「敦之さん!」
声がブサイクなくらいに震えてしまった。
その名前を呼ぶのに。
綺麗なスーツ。ぱっと見でさ、高級だなってわかるんだ。そしてその人が振り返った。
ほら、仕立てられたスーツは振り返る時、背中にできた皺一つでさえ、他のそれとは違って見えるんだ。
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