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第29話 期待

 その人がいた。背中だけだって見間違えない。  敦之さんがいて、その隣にスーツを着た、敦之さんよりも華奢な男性がいた。二、三、会話をして、その敦之さんよりも頭一つ以上小さな男性はその場を離れた。その時、少しだけ横顔が見えたけれど、とても美人に思えた。男性だけど、その言葉がよく似合う人だった。  一人になったその背中に胸のところがぎゅっと締め付けられる。痛いのと苦しいのが混ざっているそれは、まるで、あの人とした深いキスの息苦しさに似ていた。 「……あ」  間違えたりなんてしない。 「敦之さん!」  忘れて、ない。  まだ。 「敦之、さん」  貴方のことを。 「敦之さん、ですよね?」  忘れてないんだ。 「……君とは、本当に嘘みたいに偶然が起こるな」 「!」  とても綺麗な人なんだ。上品で、高級で、上等な人。俺の、雑多で慌ただしくすり減るような日常にはいない人。 「拓馬」 「!」  俺は、この人とセックスをしたことがある。 「空港でばったり再会、その次、今回はホテルのレストラン」  この仕立てられた高級スーツの下の肌に触れたことがある。背中にしがみついて、爪を立てたことがある。 「すごいな」  この人のを口で咥えて、身体の奥を――。 「拓馬」 「! す、すみません。あの、さっきレストランで貴方の苗字が聞こえた気が」  変、だっただろうか。でも聞こえてしまって、そしたら走り出した。貴方のことを、探してた。 「ちょうどあそこのレストランで食事をするはずだったんだ。でも、君の……上司、かな? が、困っていたようだから、席を譲ったんだよ」 「すみません! なんか、同じレストランの別の場所を予約してしまったらしくて、それで」 「あぁ、あのレストラン、他のホテルにも入ってるから」 「それでっ」 「いいんだ」  食事って、さっきレストランで譲ってもらった場所は個室って言ってたっけ。きっとさっきの綺麗な人とするはずだったんだ。それを邪魔してしまったと慌てて頭を下げた。けれど、少しだけ、ほんの少しだけ、嬉しくもなった。あの綺麗な人はさ、後ろ姿だけでもわかるほど、とても色っぽかったから。この煌びやかなホテルの中だと、少し目を引いてしまうほど吸い込まれそうな黒色のスーツを着ていた。  そんな人と敦之さんの食事が無しになってくれたと、日々窮屈に暮らす心の狭い俺は内心、少し喜んでしまう。 「でも食事するはずだったんですよねっ、すみませんっ、あの」  あぁ、でもそしたら、レストランで食事をしないで、そのまま部屋へ行くことになってしまったのかな。さっきのは今日のデートがなくなったとかじゃなくて、食事は後で、俺の時みたいにルームサービスにして、部屋で……それなら、邪魔どころか、手伝いをしてしまったのかもしれないのか。  彼とこの人が二人っきりになる手伝い。  今度はそう思って、落胆してる。  どっちにしたって、俺はもうこの人にとっての。 「いや、いいんだ。謝らないで」  思わず、何も考えないで探して、追いかけてしまったけれど。敦之さんにしてみたら、俺なんかに追いかけられても、驚くだけで、迷惑だったよな。邪魔どころか、彼との時間に水を差すだけの。 「君はあの上司の人との食事に同席しないの?」 「え?」  必死すぎた自分のことが急に恥ずかしくなって俯いて、自分の足元をじっと見つめていたら、そこに磨かれた黒色の革靴が向かい合わせで並んだ。 「しないなら」 「……ぇ」  期待なんて、しないほうがいい。  そうそうすごい偶然は続いたりしない。二回あることは三回、なんて、そんな運のいいこと、俺には起こらない。  俺としてくれたあの初めての一回、あれも約束がすっぽかされて俺が代わりに相手にしてもらえたけれど、今回はそうはならない。俺がその邪魔をしたんだから。  だから、食事に同席しないのならの後に続く言葉なんて、期待しないほうがいい。あんな綺麗な人とこれから過ごすはずだったこの人が、代わりにと俺を誘ってくれるわけが。 「時間は、ある?」 「……」  誘ってもらえるわけが。 「でも、あの、さっきの人、は」 「? 秘書だよ」 「え? 秘書? え? そしたら、あ、あのっ」  今度は、秘書がついてるような人なんだと慌てた。敦之さんはその慌てた様子がおかしかったんだろう。急に吹き出して笑っていた。  だって、慌てるだろ。  本当に、俺にとっては天上人だったんだから。秘書がピッタリとくっついてるような人は俺の周囲にはいない。うちの会社の社長だって、秘書なんてものはついてないし、いたとしてもあんな綺麗な秘書なんて。 「ごめんごめん。予想外な勘違いをしてるようだったから」 「す、すみません」  きっとどこかの社長、とかなんだ。高級スーツに、高級ホテルの扱い方、それに秘書。本当に俺には不相応っていう言葉がぴったり来る。 「おいで、部屋を取ろう」 「え、あの」  さっきの綺麗な人が秘書。  それなら、その秘書の人がここにいたら怪訝な顔をしただろう。あんなのを相手にされるのですか? と。 「君にこの後、予定がないのなら」 「……」  お前みたいなのが相手にしていい人ではないのだと、嗜められるだろう。 「……ない、です」  けれど、追いかけたんだ。 「この後、何も、ないです」  差し伸べられた手を、ほら、こうして、強く握りしめてしまうほど、俺はこの人のことを忘れられてなかったから。  俺はこの人のことが、好きだから。  手を放されてしまわないように、しっかりと握った。

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