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第33話 準備

 俺は、シンデレラじゃない。 「あ、あのっ、部長、これで見積もり確認をお願いしますっ」 「あ、あぁ」  シンデレラじゃないから待っていても、ガラスの靴を片手に王子は探しにやってこない。 「まぁ……いいんじゃないか?」 「ありがとうございます! それではこれで連絡してみます!」 「あ、あぁ」  だから自分から言ったんだ。  シンデレラに例えるのなら、すみません、そのガラスの靴は私のですと名乗り出るように。  またしたいですと、あの人に自分から言った。 「おい、小野池」 「はいっ」 「これを……この取説をダウンロードとコピー」 「次の打ち合わせの人数分ですよね?」  前のめりで、デスクを立ち上がり、部長の差し出した取説を受け取るとコピー機のある総務の方へと向かった。 「ちっす」 「あ、立花君」 「なんか、気合がすごいっすね」 「そう?」  そうだね。気合いは……入れてる。 「そんなことないよ」  立花君には嘘をつきながら、内心は気合入りまくりだった。今日は金曜日だから。仕事をできるだけ早く終わらせたいから。  仕事が終わったら連絡をしてと言ってもらえたから。  だから仕事が終わったら連絡をするつもりでいる。そのために今週はずっと仕事を頑張っていた。金曜日である今日、少しで早く終わるように。  少しでも早く――。 「あ! デートなんすか?」 「!」 「いいっすねぇ」 「そ、そういうのじゃ」 「いやいや、その真っ赤になる感じー、いひひ」 「立花君、冷やかさないでよ」 「いひひひー」  少しだけ奇妙に笑いながら、立花君が突っついてくる。事務所には製造部の人間が入ることはあまりない。見えないけれど製造業は製造、営業などの事務職は事務職として、色が分かれてるみたいに事務所に製造の人間が入ることもなければ、事務職の人が製造現場に出向くこともあまりない。  だから少し目立っていた。 「いいなー。つか、そんな幸せお裾分けだと思って、昼飯奢ってくださいよ」 「え、やだよ」 「ですよね。じゃあ、一緒に昼飯食いましょうよ」 「あー……」  今日は、食べないんだ。 「今日は忙しいから」 「えー、昼飯はちゃんと食わないと」 「あ、うん、大丈夫。あとで……食べるから」  今日は、食べない。 「また今度」 「絶対っすよー」 「うん……」  今夜は、するから。  セックスをするから、昼は食べないんだ。 「あ、あの! お疲れ様です! 俺、えっと、拓馬ですっ」 『……うん、わかってるよ。着信のところに名前が出るから』 「あ! ですよね!」  敦之さんの声に、気持ちが飛び跳ねた。  少し部長が驚いた顔をしていたっけ。  顧客から急遽で電話が来るかもしれないから、流石に定時は無理だったけれど。でも、営業の中で一番に仕事を上った。いつもは最後まで残ってるタイプだったのに、誰よりも早くに上がったから驚いていた。まだ製造部だって全員残ってると思う。パートさんは帰ったかもしれないけれど、現場の明かりは煌々とついていた。 『仕事、終わったの?』 「あ、終わりました」 『じゃあ、今から、会おうか』 「わっ!」 『拓馬?』 「す、すみません」  嬉しくて、はしゃぎそうになった身体がもつれて、歩道のタイルにつまづいてしまった。鈍臭いな。 「な、なんでもないです」 『そう? そしたら……』  そして、敦之さんが待ち合わせ場所を教えてくれる声に胸を弾ませながら、またつまづいてしまわないように気をつけて駆け足でそこへと向かった。  丁寧じゃなくていい。  もう初心者だと気を遣わないで欲しい。 「あ、あれ、えっと……ミストのやつ」  できるだけスマートに、でもやっぱり上手にできそうもなくて。 「これを付けて……」  敦之さんがいい香りだと、ホテルにあったアメニティのボディミストを気に入っていたから、俺が薬局で買ったそれをバスルームに持ち込んでいた。それを付けて。  どのくらいつけようか。  つけすぎてくさくなったら嫌だしな。でも、いい匂いだなって思われたいし。今日一日、仕事で頑張ったし、会社から駅まで走ったから汗もかいたし。だから、しっかりと洗ったせいで、朝のうちに下準備でつけたボディミストはすっかり消えてしまった。 「……」  シャワー直後、鏡の中、うちの洗面台の照明よりもずっと明るく照らされた俺の素肌には、まだ僅かにキスマークの痕が見えた。  大丈夫、かな。  下準備なら、してきたんだ。  ボディミストだけじゃなくて。 「シャワー、長かったね」 「! あ、敦之さん」  バスルームの入り口にはまだシャツにスラックス姿の敦之さんがいた。俺が先にシャワーを浴びたから。待たせてしまうとわかってたから、風邪を引かせたら大変だと先に入らせてもらった。  時間がかかるだろうと思ったから。 「待ちきれなくて、迎えに来てしまった」 「あっ」  後ろから抱きしめられて、もう蕩ける。 「ズボン、濡れちゃいます。まだ拭いてない、のに」 「すぐに上がるから待ってて」 「あっ……」  弱いうなじにキスをされて、奥が、キュッと反応する。 「あ、の……敦之さんっ」 「?」 「も、できます」 「?」 「準備、しました、から」  したんだ。今朝、貴方のが入るようにって、今だってちゃんと解したから、今日、そんなに丁寧に解さなくても大丈夫。 「このまま、でも、平気、です」 「……」 「も、ここ、入り、ます」  自分で、鏡の前に手をつき、腰をくねらせ、尻の割れ目を手で広げた。 「敦之さんの」  丁寧でなくていいからと、そこを広げた。 「あ、あ、あ、あ、あ」  蕩けそう。突かれる度に自分のがぷるんって揺れて、それが恥ずかしい。 「あぁぁっそこ、イッちゃっ」 「ダメ」 「あ、なんでっ」  今、ずっと激しく奥まで来てくれた腰付きをぴたりと止めて、敦之さんが鏡越しに腰を揺らしてと懇願する俺を抱きしめた。 「次から、準備はしなくていいよ」 「え、あ、どうしてっ」 「準備は、自分でしなくていい」 「あ、あ、あっ、それっ」 「わかった? 拓馬、わかったら、イカせてあげる」 「あっ、わかった、わかったから、あ、あぁぁ」  鏡の中、シャツを乱した彼に後ろから激しく突かれて喘ぐ自分がいる。うちの洗面台の照明よりも何倍も明るいその光の下で喘いで乱れる俺の素肌には、さっきはなかった真新しい真っ赤なキスマークがいくつもいくつもくっついていた。

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