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第34話 明日から七月
電話とかでもしたら、ダメ、だよな。
その、今週末、というか、明後日会うってもう約束なら取り付けてるんだから、あの人がどんな仕事をしているのかは知らないけど、でも忙しそうだから、ダメだろ。
明後日まで待てばいいだろ。
「……」
オンボロ会社のオンボロ空調機じゃ歯が立たなくなってきた猛暑。六月最後の日。休憩室のこれまたオンボロソファに浅く座り、背もたれにだらしなく寄りかかると、今買ったばかりで冷えているコーヒーの缶を額に押し付け、目を閉じた。
明日、誕生日なんだ。
別に、だから? って感じ。自分から誕生日に意気込んで自身を祝おうとかはないよ。家族に誕生日おめでとうと言われたって、さ。かといって、友人と呼べる奴はイコール俺の失恋相手なわけで。
誰かに祝われたいとかでもない。本当に、誕生日? だから? って感じ。
「……」
だったんだけど。
「……はぁ」
敦之さんが覚えてるわけないだろ。俺の誕生日なんて。
話したのは大分前のことだし、セフレの誕生日なんて覚えてないだろ。それにその話をしたのだって食事中の他愛のない会話の中の一瞬だけなんだし。
――へぇ、二十五か、若いな。
――若くないです。もうギリギリの二十五なんで。
――ギリギリ?
――はい。七月、一日が誕生日なんです。
――そうか。もうそろそろなんだね。
――敦之さんは、あの、何歳なんですか?
――俺? いくつに見える?
そんな、本当に他愛のない会話。
だから覚えてるわけがない。覚えてて欲しいとかでもない。そこまで期待過剰じゃないよ。でも、誕生日に好きな人と。けど、明日は会う約束してるんだから我慢するとして、電話くらいしたらダメかなって。
でも、セフレはそんなことしないか。
セフレの誕生日は祝わないか。
敦之さん優しい人だからしそうだけど、でもそれしたらなんかあっちもこっちも祝わないとって……あ、そう考えたら落ち込みそうだ。俺以外のセフレのこととか。たくさんいるんだろうし。
「……はぁ」
そういえば、あの時、敦之さんの誕生日聞き忘れたな。いつなんだろう。聞けばよかった。聞いたら教えてくれたかな。そしたらお祝い……いや、それこそセフレが誕生日に会いたいと集中しても困るもんな。教えないか。
「……はぁ」
そう考えたら、落ち込みそうどころか、落ち込んできた。
「溜め息つくくらいに暑いっすよね。スーツ」
「! 立花君」
「ちっす。大変っすね。営業はまだスーツなんすね」
製造部は社長があまり社内をチェックしないこともあって、ほとんど制服が形を成してない。まだ若い立花君に至ってはほぼ私服同然だ。どこの空調機もオンボロということに耐えかね、下のズボンは膝下まで捲り上げ、上に関してはもうただTシャツだ。
営業は今日までスーツ。
くだらないけれど、服装の乱れは会社の乱れだと事務所だけは目を光らせて服装をチェックしている。社長の気にするべきところはそこじゃないだろって思うけれど。そういうことしか気にしてないのが問題だとも思うけれど。目を光らせるのなら経営に関してだろって。
「もう七月ですもんねぇ」
「……うん」
明日から七月。
「そうだね」
七月一日は俺の誕生日。
「七月だ……」
今までなら、昨日や明日と変わらない一日の一つだったのに。
「! ご、ごめ、電話」
「ういーっす」
現場も暑いんだろう。少しバテてそうな立花君がさっきの俺のようにソファに浅く腰掛け、背もたれに寄りかかっていた。
明日は誕生日だと、ずっと、今日もスマホをスラックスのポケットに突っ込んでいた。それが振動して、慌てて取り出して、名前を見て、またもっと慌てて。
「は、はい!」
『……今、大丈夫?』
「は、はいっ」
立花君に会話を聞かれてしまわないように、ヤニ色休憩室を飛び出した。
『……忙しそうだ』
あの人からの電話に飛びついてしまった。
外なんだろうか。優しく穏やかな普段の敦之さんの声に混ざって、遠くからわずかに雑多な音がする。仕事中なのかな。やっぱり忙しそう。時間が早送りになっているような、そんな気配が電話越しからでも伝わってきた。
「ぜ、全然っ、今、休憩してましたっ、から」
『そう? そしたら、明日』
「! は、はいっ」
その言葉に心臓が、跳ねた。
覚えていてくれたのかもしれない。俺の。
いやいや、覚えてないって。
あ、でも、明後日の金曜がダメになるから明日に変更しないか、とか?
あったらいいな。
とにかく、会えるのなら――。
『誕生日、だろう?』
「!」
そしてその言葉に、もっと跳ねた。
『もしよかったら、予定、まだ埋まってないなら、食事でもどうかなと思って。ただ仕事が詰まっていて、少し遅くなりそうなんだ。九時とか……なんだけれど』
「! ぅ、埋まってません!」
週末以外はなかったんだ。
なのに、誕生日だからって会ってくれるの?
嬉しくて。つい、思わず返事の声がまるで子どもみたいに大きくなってしまった。
『そう? それじゃあ、食事どう? 何か食べたいものがあれば』
でも、心臓も跳ねるし、声も大きくなるよ。
覚えていてくれたんだ。
俺の誕生日を。あの会話で、他愛のない話題のひとつだったのに。
『何かある? 食べたいもの』
「な、なんでもいいですっ、と、わっ」
嬉しくて、嬉しくて、つい階段を踏み外してしまった。
『大丈夫?』
「だ、大丈夫です! あの食事もなんでも平気です! 好き嫌いはないのでっ」
『じゃあ……』
本当になんでもいい。ホント、なんでもいいよ。
『それじゃあ、また明日、九時に』
「はい、あの、また、明日」
『明日……』
優しい人だからセフレ全員の誕生日を祝っている、とかでもいい。
たまたま覚えていて、たまたま暇で、たまたま電話をしてみようって思ったんでもいい。もう、なんでもいい。
彼が覚えていてくれたんだ。俺の誕生日を。
「わ……ど、しよ……嬉しい」
ただそれだけで、本当に嬉しくて、口元を手の甲で抑えていないと大喜びで声をあげてしまいそうなくらい、すごく、すごく胸がはしゃいで仕方なかった。
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