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第35話 誕生日会
「あれ? 今日から夏服オッケーっすよね?」
「あ、立花君」
タイムカードを押して、下に降りると、ちょうど現場工場から数名の製造部メンバーが出てきた。若い社員の一団、その中に立花君もいた。
「今日、めっちゃ暑かったのに、長袖なんすか?」
「あ、うん……」
俺はジャケットを片手に持ち、長袖のシャツを着ていた。
「まだ夏服に入れ替えしてなくて」
「えー、そんなんしてるんすか。マメっすね」
「あはは……」
本当はそんなのしてない。そんなことしなくたって、一つのクローゼットに入りきってしまうくらいしか服なんて持ってない。
言い訳を適当にしたとは知らない立花君に感心されながら、俺はジリジリと会社の玄関へと足を進める。そして、タバコ休憩らしい他の製造部の人が立花君を呼びつけるのと同時、それじゃあ、お疲れ様ですって会釈をしてその場を離れた。
待ち合わせは九時だから。早く行かないと。
食事をするんだって。だから今日はスーツにしたんだ。暑いけど、夏服にしちゃうと半袖のワイシャツになっちゃうからさ。
今日は、俺の誕生日だから。
覚えていてくれた。
祝ってくれる。
彼は優しいから、「友人」全員の誕生日を祝ってあげてるのかもしれないけれど、それでもいい。
「君はいつも走ってるね」
それでも、この人の時間をもらえたことが嬉しい。
「あっ、す、みませ、少し、時間」
大慌てで電車降りてすぐ、人が行列になっているエスカレーターなんて待っていられないと、階段を一段飛ばしで上がって、走ってきたんだ。
改札を出たところ。
目印になるものなんてなくてもすぐにこの人を見つけられる。
「大丈夫だよ。拓馬」
俺の、好きな人。
「仕事の方は大丈夫だった?」
「あ、はいっ」
「急すぎたから大変だったんじゃないか?」
「!」
心臓、飛び跳ねすぎて、止まるかと思った。
貴方がいきなり優しく俺の頬なんて撫でるから。撫でて、真っ赤だし熱くて真っ赤だって微笑んだりするから。
「こ、こちらこそ、敦之さん、忙しそうなのに俺なんかの誕生日をわざわざ」
「なんか、じゃないよ」
街中で、駅前で、人だってたくさんいて、この人はそれでなくても綺麗で目立つのに。
「行こうか」
「! は、はい」
とても綺麗で上品で、高級な人。
「暑かっただろ? その格好じゃ」
「あ、いえ」
片手に鞄を持ちながら、腕に引っ掛けて持っていたジャケットを羽織ろうとすると自然に敦之さんが手を差し伸べてくれる。
持つよ。
そう微笑んでくれるその手に鞄を手渡すだけでもドキドキした。会社から電車に乗るまでも走ってたし、電車の中でクールダウンはしたけれど、でも降りてまた走って、階段駆け上がって、そして、彼を見つけた瞬間ドキドキして、だから、手汗大丈夫かな、とか。
そんな俺が仕事で使いまくってる鞄持たせて申し訳ないなとか。
手汚れないかな、とか。
新しい鞄買おうかな、とか。
「でも、ちょうどよかった。予約した店、ドレスコードのある店だったから」
「えっ!」
なんか色々考えていた。
「大丈夫。ドレスコードがあるって言っても、気軽な店だから。そんなにかしこまらないでいいよ。すぐそこなんだ。駅から直結してるから」
「あ、はい」
夏服に変更可能になる七月一日にも関わらず、長袖にしたんだ。空調のパワー不足なオンボロ会社じゃ暑かったけど、でも、半袖シャツじゃだめなところかもしれないって。たかが俺みたいな「友人」一人にそんな丁寧な誕生日会なんてないかもしれないけど。身構えたことが恥ずかしくなるかもしれないけど。でも――。
「お待ちしてました。上條様」
でも、もしかしたら、高級なところもあり得るからと思ったんだけど。
「いらっしゃいませ」
駅から直結してる大きな、確か、ここ、少し前に話題になってたホテルだ。すごい豪華で、そこのレストランがまたすごいんだって。俺には縁遠い場所だったから「ふーん」って思っただけ、だったけど。
「こちらです。どうぞ」
だったけど、これは。
「ごゆっくりお過ごしください」
これはちょっと。
「拓馬は夜景好きだから」
ちょっと。
「あ、あの、敦之さん、あの、ここ」
豪勢すぎる気がする。
ただの「友人」の誕生日にいちいちこんな場所だなんて、破産しちゃわないのか? だって、ここ。
「俺なんかにこんな」
「なぜ」
「いや、だって、その」
「教えてくれただろう? 誕生日」
あれは、会話の一つでしかなかった。覚えていてくれただけでも嬉しいのに。それだけでも充分なのに、初めての時、夜景に感嘆の声を上げたことも覚えてくれたなんて。
「なんでもいいと言ってたから、ここにしたんだが、料理もとても良いから、どうだろうな」
どうもこうもない。こんな場所なんて、俺にはもったいない。
「ほら、拓馬」
ドレスコードだってあるに決まってる。そして、そのドレスコードに俺のスーツが及第点なのかどうかもわからない、くらい。
「食前酒のシャンパンが届いた」
「あ、はい」
「誕生日、おめでとう」
「! あ、ありがとうございます」
豪勢すぎてさ。
窓から見えるイルミネーションで彩られた中庭の光よりも、真っ白なテーブルクロスよりも、そして、目の前で微笑むこのお店のご馳走よりも、何より高級なこの人に目眩がした。
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