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第36話 優しい人

 すごい、お伽話みたいな時間だった。  帰り際、レストランの入っているホテルと駅は直結していたけれど、駅周辺にも散歩できそうな場所があるんだと、少し歩いてた。  道沿いになる鑑賞用の小道には花が咲いていた。どこからか甘い甘い、少し蕩けてしまいそうな甘い香りがする。 「ここ、クチナシの花がまだ咲いてる」 「この甘い香りの、ですか?」 「そう、すごく甘いだろ? ほら、あれがそうだ」  あんなに遠くに咲いてるのにこんなところまで強烈なほどに甘い香りがするんだ。 「こっちがノリウツギ、綺麗に咲いてる」 「詳しいですね」 「……あぁ、そうだね」  博学、なんだろうなぁって、でもその知識をひけらかすわけでもないのがスマートで、上品な人だ。高級シャンパンとそのクチナシの香りで酔っ払いながら、花と足元を照らす光が灯った歩道を彼と歩いていた。 「こんな誕生日、初めてです」  思わず、そうぽつりと話した。 「そう? ……よかった」 「あの」  きっととても高いフルコースなんだと思う。値段なんてわからないけれど、でも、ものすごく高い、知ってしまったら目玉が飛び出るようなご馳走。  それをただの「友人」に誕生日だからと与えてくれる優しい人。 「ありがとうございます」  優しくされるのはとても心地良くて、その優しいところが好きになったのに。 「喜んでもらえて嬉しいよ」  今は、少し、好きじゃない。 「すごく嬉しいです」 「そんな大したことはしてないよ」 「いえ、そうだ、お返し、しないと」  俺にだけ、優しい人ならいいのに、なんて。 「あの誕生日、って、いつなんですか?」 「……俺の?」 「は、はい」 「友人」に優しい貴方の誕生日を「友人」達はこぞって祝いたがるだろうけれど、俺はそのうちの一人だろうけれど、もしかしたら順番なんて最後の最後で、あなたの誕生日当日になんて会うことすらできないかもしれないけれど。 「十月」  甘い、クチナシの香りを孕んだ風に、敦之さんの髪が揺れた。それはそれは見惚れるほど綺麗な横顔で、この人を独り占めなんてできないってわかってるけれど。  したい。 「夏が終わった後、十月の二十五日」  貴方のことを独り占めしたくてたまらない。  綺麗な瞳がスッとこっちに向けられただけで、心臓が止まりそうになる。  おこがましい。  身の程知らず。  そう言われそうな俺の気持ちを見透かされそうで俯いた。  すごく、この人が。 「あ、あの……この後って」  欲しくてたまらない。 「ここを抜けるとタクシーが止まってる、そこまで送るよ」 「……ぇ、あの」 「明日は仕事だろう?」 「あ……」  そうだけど、まだもう少しくらいなら。 「困ったな」 「?」 「そんな顔をされると、さっきのホテルに戻りたくなる」 「!」 「戻って、押し倒したくなる。でも、君を抱き潰して、そのあと、遅刻でもさせたらあの上司の剣幕が……」 「あ! あれはっ!」  ものすごく大袈裟なほど困った顔をした敦之さんに大慌てで、でも、特に返す言葉も見つからなくて……もう、なんなんだ、あんたのせいで、って、上司に小言の一つや二つ、三つ、四つ、いや、十くらい言ってやりたくなったけれど。 「すごい剣幕だったから」 「は、はぁ」 「君が大変そうにしてるわけだ」  ふわりと微笑んで、俺の目元を親指でなぞると、そのまま両手を掴んで、キスをくれた。花の観賞用にと作られた歩道の真ん中で、薄灯に照らされながら、そっと唇に触れられるキス。 「明日まで君を食べるのはお預けだ」 「!」 「少し痩せすぎていたのが心配だったんだ。それに」 「?」 「それに、明日は夕食抜いてしまうだろう? だから今日は君を太らせるのが俺のプラン」  この人の優しいところが嫌い。  独り占めしたくてたまらなくなる。 「そして、明日は俺がそのご馳走をいただくプランになってる。甘くて美味しいご馳走を」  でもやっぱりこの人の優しいところがとても好きで、好きで。 「ここ、笑うところだったんだけどな。キザすぎるって」 「……敦之さん」  好きで、息が詰まりそうなくらい、好き。 「誕生日ありがとうございます。早く、明日が来て欲しい」  本当に、本当にあのまま帰ったんだ。  帰らされた、かな。  ――それじゃあ、また明日。  また明日って言われたのは初めてだった。いつも次もあるのかなって、期待しながら「それじゃあ」って別れたから。  でも、こんなにその明日が来るのが待ち遠しくて、明日がやって来た後、約束の時間になるまでが焦ったくてたまらなかったのも、初めてだ。  仕事しながらずっと考えてた。  ―― すごい剣幕だったから。  そう敦之さんに言われた恥ずかしい営業部長に少し苛立ちながら、待ち焦がれた待ち合わせに近づく時計の針を何度も見詰めてた。  だってさ、昨日会った、今日も会う。貴方はその間他の友人のところには行かないでしょ?  二日も貴方を独り占めできるってことでしょ?  早く、早く。 「お疲れ様です」 「おー、お疲れ」  早く、早く。  駅まで走って、電車に揺られて。  たまらなく空腹なんだ。  ねぇ、その空腹すら快感になるくらい。  ねぇ。 「拓馬」  貴方に会いたくて、たまらなかったんだ。

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