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第53話 恋人
「あ、そこです。そこのコンビニのところを左に曲がってください」
道案内をするとタクシーの運転手が慣れた手つきで左へと曲がった。
「そこ、です」
敦之さんの方をチラリと見ると、じっと辺りの景色を眺めていた。平凡なサラリーマンが住んでいそうな平凡な街だ。
「結構遠いね」
「え? あ、駅から、ですか?」
まさか、敦之さんって駅直結の高層マンションとか? パッと瞬間的に頭に浮かんだのは、最近電車の中でよく見かける、こんなところに誰が住めるんだろうって思っていた超高級マンションの完成図だ。都内の駅から直結で建築中のすごい高そうなマンションは「お値段いくらなんだろう」ってむしろ興味本位で気になって、毎朝、通勤ラッシュのぎゅうぎゅうな箱詰め状態の中で考えていた。こんなところに住めるのは超有名人とか会社の社長とかなんだろうな。住んでる人全員がお金持ち……って。
「バスも出てるんです。あ! もちろん迎えに」
「そうじゃないよ」
クスッと笑って敦之さんが頬に手の甲で触れた。
「いつも待ち合わせていたけれど、ここからじゃ遠かったなって」
「……そんなこと」
「住んでる場所を訊いてもいいかわからなかったから」
「友人」だから。
「訊けばよかったな」
敦之さんは微笑んで、後悔の言葉を言いながら、嬉しそうだった。
訊けばよかったな……それは、今はもう住んでる場所を訊いてもかまわないんだっていう気持ちと、今までだって、言わなかっただけで実は両想いだったんだから訊けばよかったなっていう、くすぐったくなる後悔の言葉で。
実際に、頬に触れられて俺は少しくすぐったくて。
「あ、えっと、ここ、です」
タクシーが止まったのは独身者が主に住むようなワンルームアパート。しがないサラリーマンの安月給だとこのくらいのものだ。五つ部屋が並んでる、二階建の、普通のアパート。
「す、すみません。ここまで送ってもらってしまって」
「いや……」
くすぐったくて気持ちいい。
「あ! あの! 今日は、その部屋の中、散らかってるので、あれなんですけど、掃除しておきますんで。いつでも本当に」
「あぁ」
「大丈夫なんで。本当に、いつでも」
「あぁ」
「是非、その」
「すぐにまた伺うよ」
くすぐったくて気持ち良くて、触れたところが、話す声が、心地良くて、もっと一緒にいたくなってしまう。
「ぁ……」
本当に? またすぐに?
その時、タクシーの運転手さんが「降りますか?」とせっつくように言ってきた。俺は慌てて、降りますって告げると、ドアが開いて、「ほら」と先を促す。
「約束だ」
「……は、はい」
また頬に触れてくれる敦之さんに頷いて、タクシーを降りた。そして、頭を下げる俺に微笑んでくれた敦之さんを乗せて、タクシーは走って行ってしまった。
さっきもう一つのスペアキーを彼に渡したからだろうか。なんの変哲もない鍵なのに、手にぎゅっと握り締めて、緩んでしまいそうになる口元を手で隠しながら部屋へと帰る。
あの人が今、タクシーの中でこの鍵を眺めていてくれたらいいなぁなんて思いながら。
その時だった。
――来週末、伺うよ。
「!」
敦之さんからのメールだった。
「わ……」
俺は「はい」って返事をして、そして、自分の部屋の玄関にしゃがみ込んだ。
「……あのタクシーの人になんて思われた、かな」
そういうの、敦之さんはあまり気にしないみたいだ。デート、まだあの時は片想いだと思っていた頃に一緒に出かけたことがあるけど、その時も周囲の目をあまり気にせず、普通でさ。
それがすごく自然で。自然すぎて、確かに同性とかあんまり気にならなくなってくるっていうか。
そういうの全く隠さず、でも見せびらかすわけでもなく、ただ自然にそこにある感じで。それはあの人がとても綺麗で、上品だからこそなんだろう。何をしても嫌味じゃない感じ。
「うわぁ……」
そんな人がさ。
「……」
俺の、恋人に、なった。
あの人が俺の、恋人。俺の初めての恋人。
「……よし。掃除、頑張らないと」
頬が熱かった。あの人が俺の恋人になったと、なんだか夢みたいにふわふわした心地で、実感なんてほとんどなくて、でも、掃除をしておかないと来週、来ちゃうから。
「おい、小野池、調査報告書どうした」
「あ! もう作ってあります!」
部長がびっくりしていた。調査報告書、先日発生した不良品流出に関してのクレーム対応のことだ。品質管理の方にそれを作ってもらうのを頼むのは一苦労で、忙しいって絶対に二回は突っぱねられるから、みんな嫌なんだけど。でも俺は食い下がって、食い下がりまくって、即書いてもらった。手伝えることはなんでも手伝いますって、言ってさ。戻ってきた不良品が混入しているかもしれない製品をもう一度俺が見直して。
「じゃあ、納期調整を頼む一件は」
「もう連絡済みです! 客先からOKもらってます!」
またびっくりしてる。
「それから、その納期調整を一日でも早くしてもらえるようにって製造にも頼んであります!」
「お、おお」
「あとは何かありますか?」
「あ……いや、今は特に」
「じゃあ、俺、在庫の方で数が合わなかった品番、工程に聞いてきます」
「お、おお」
週末は掃除を頑張った。忙しかった。誰も訪れることのない部屋だから毎週掃除って言ったって、まぁ、適当なところあったし。でも、週末、彼が来ちゃうからさ。
俺の恋人がさ。
「行ってきますっ」
きっとこんな感じだったんだろう。毎夜、舞踏会に出かけながら、その翌日、いつも通り掃除をさせられる彼女は、こんな夢見心地でさ、鼻歌混じりで、何もかもが楽しくなってしまうようなそんな不思議な心地の中、次の舞踏会を楽しみに過ごしていたんだろう。
そう思いながら、会社の階段を駆け降りた。
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