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第56話 貴方のこと

「子どもの頃は大人しかったよ」 「え、敦之さんがですか?」 「今でも、ヤンチャそうには見えないだろ?」  確かに見えないけど、でも……大人しいっていう感じもあんまりしない。 「そう、ですけど、なんていうか、クラスの人気者って感じがします」 「どうだろう……」  あ、これは、多分、クラスの人気者だったんだ、って推測した。でもそれを自慢気に自覚してないっていうか。  牛すじ煮込みカレーを二人で食べながら、敦之さんのことをたくさん聞いていた。  好きな食べ物はカレーに、シチュー、オムライスも好きなんだって、けっこう普通に男子人気の高いメニューが並んでて、ちょっと意外だった。だから、今日の夕食がカレーなのがとても嬉しいと笑顔で答えてくれた。牛すじのカレーなんて大変そうだって。苦手な食べ物は特にない。なんでも食べるって。  料理は自分ではあまりしないらしい。でも、俺と二人で明日の朝ご飯を作りたいって教えてくれた。いつもはホテルのサンドイッチだけれど、明日、食パンで二人で作ろうって。  好きな季節は特にないけれど、寒さは少し苦手らしい。あったかい方が好きなんだって。  お酒はよく飲む方かもしれない。  うん。それは知ってる。  酔うと少し笑い上戸になる。  うん。それも知ってる。  そうやって、敦之さんが教えてくれる話を聞いていた。 「じゃあ、初恋はいつですか?」 「それも言わないとダメ?」 「もちろんです! だって、俺は言いましたから」 「確かにそうだった」  くすくすと笑って、敦之さんがカレーの残り一口を食べた。 「初恋は……少し遅いんだ。中学生の頃だったよ」 「へぇ」 「ヤキモチ妬かないの?」 「や、妬きませんよ」 「俺は少し妬いたのに」 「え? えぇ? だって、俺がそれ話したのって」 「初デートの時だ」  覚えてる。水族館に行ったんだ。そして夜にホテルに泊まって、一晩中話してた時に俺の初恋の話をした。すごくすごく楽しくて、始まる前からもう楽しくて、始まったらもっと楽しくて。あんなに一日が終わってしまうのを残念に思ったことはなかった。寝てしまうのさえもったいなくて、ずっと他愛のないことでもなんでもいいから話し続けていた。 「ずっと一緒にいたくて、夜遅くまで君に付き合わせた」 「……」 「眠かっただろ? あの時は」 「そんなこと」  全然ない。俺が起きてたかったんだ。  そして、敦之さんも……起きていたかった? 「また水族館、行こうか」  まるで本物のデートみたいだって思った。  敦之さんも、あれをデートって……思ってくれていた? 「あの……いつから、俺のこと……」 「知りたい?」 「そ、そりゃ……」 「また会いたいと思って連絡先を伝えた時かな……可愛いなと、独り占めしたくはなっていたよ」 「……ぇ」  そんなの、ずっとずっと前だ。まだ、俺は不慣れもいい時で、辿々しくて。 「えええっ? それって」 「こんなに誰かのことばかりを考えたことはなかった」  連絡先を伝えた時って、だって、それって、デートなんかよりもずっとずっと前のことで、まだ会って数回の時。 「知らなかった?」 「し、知りませんよっ!」 「君に好きだと伝えて、本気になられても、と逃げられるかもしれないと心配していた」 「なっ! 何言ってっ! 本気に、なられて困るわけ」 「失恋したばかりだっただろ?」  そうだった。  そうだったっけ。  もう忘れかけてしまうくらい、すごく昔のことに思える。あの日から、敦之さんのことが自分の中で何かが降り積もるみたいに重なって。 「次の恋愛の相手に俺を選んでもらえるとは思ってなかった」 「それはこっちのセリフです。俺みたいなのが、敦之さんの相手に選んでもらえるなんて、それこそ思ってなかった。だって、たくさん……」 「そうだな……特定の相手は作らなかった」 「……」 「臆病だからね」  そして、目が合った。  ぽろりと呟くように告げたその言葉に俺は少し驚いていて。敦之さんはそんな俺を見て、ふわりと微笑みながら、そっと唇に触れた。 「……ン」  啄まれて、甘い吐息の音が小さな部屋に零れ落ちる。 「失恋すると痛いだろ?」 「……」 「だから、しないようにしていたんだ」  貴方が失恋なんてすることがあるのかと、思った。恋を失うなんてこと、ないと思ってた。恋を終いにするのではなくて、失うなんて。 「でも、君のことはそれでも好きになったけれど」 「……」  そう言って触れる唇は蕩けるくらいに優しくて、誰だって虜にできるだろうに。  聞きたい。  貴方のことが。  どんな仕事をしているのかなんてどうでもいい。素性なんでどうでもいいんだ。  俺は、貴方のことが知りたい。  何が好きで、何が嫌いで。  なんで、こんなに優しいのに、特定の相手は作らなかったのか。いくらでも、誰でも貴方に夢中になってしまうだろうに、何に臆病になるのか。 「カレー、おかわりしますか?」 「ぁ、あぁ」 「待っててください。今、よそってきますね」  敦之さんは突然、くるりと変わった会話に目を丸くした。  俺は構わずカレーを、二人分よそって、そして、それをまた並べて。ふわりと香るスパイスになんだかまた少しだけお腹が空いたような気がした。 「それで」 「?」 「敦之さんの初恋の話、聞きたいです」  貴方のことが知りたい。 「まさか、そこに、今話を戻されるとは思わなかったな」 「だって聞いてないですもん。誤魔化されません」  綺麗な貴方のかっこ悪い話、楽しい話、悲しい話。 「誤魔化されてくれなかったのか」 「はい」  貴方はクスッと笑って、懐かしい昔を思い出すように目を細めて手元に視線を落とした。 「俺の初恋は――」  聞きたいんだ。  俺は、貴方のことをもっともっと、知りたい。だから話をしよう。この部屋ならとても小さいから、きっとどんな小さな呟きでもちゃんと聞こえると思うから。だから、貴方のことをたくさん、教えて。

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