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第58話 可愛い人

「あの、敦之さん、背中大丈夫ですか?」 「あぁ、もちろん」 「タンコブとか、できてませんよね?」 「…………君は、誰だっけ?」 「!」 「ここは、どこ……俺は」 「もう、からかわないでくださいっ」  あはは、って、うちの小さなキッチンで敦之さんが笑った。コンロは一つ、まな板を置いただけで他に何も置けなくなるほど、小さな流しがそのコンロの隣にあるだけの、とりあえずなキッチン。もちろん、敦之さんがいつもホテルで口にする料理なんて一つ作るだけでも苦労しそうだ。その中で、彼は楽しそうにサンドイッチ用のレタスをちぎってる。 「大丈夫だよ。タンコブもできてないし、記憶喪失にもなってない」 「だって、すごい音がしたから。あの……本当に大丈夫ですか?」  昨日、ベッドから落ちたんだ。敦之さんが。  小さなベッドだから。彼が普段寝るのはとても大きなベッドなんだろう。あんな小さなところに一人ならまだしも、大人の男が二人、は。 「確かにすごい音だったね」  本当に。隕石でも落下したのかと思ったくらい。ものすごい衝撃音に飛び上がると、ベッドから彼は消えていて、慌てて名前を呼んだら、そのベッドの脇から返事がした。  目が合って。 「本当にすごい音だったな」  二人してびっくりして、笑った。 「わ、笑い事じゃないです」 「笑ってたくせに」 「あ、あれは!」 「君に笑われてショックだった」 「!」 「なんてね」  少し、印象が変わった。もっと大人っぽい感じの人だと勝手に思っていた。いつでもどこでもスマートで、紳士で、気品のある人だと。でも今は――。 「……」  ふ……と、唇が触れる。  ただ触れるだけのキス。 「記憶喪失になったら、ここに置いてくれる?」 「……もちろんです」 「それなら安心だな」  今は、悪戯が好きで、俺をからかうのが楽しそうな、少し子どもっぽいところもある可愛い人だと……思った。 「でも……」 「拓馬?」  俺のぽつりと切り出した「でも」に敦之さんが表情を曇らせる。記憶喪失になっても貴方をここで匿うくらいいくらでもする。けれども……そう、ぽつりと呟いた言葉に。 「でも」  もっと、表情が曇るように、少し悲しい顔をしてみせよう。さっき、記憶を失くしてしまったとうそぶいて、俺をからかったから、今度は俺がするんだ。 「でも、そしたら、少し大きめのベッドを買わなくちゃですね」 「……」  ね、少し、びっくりした? 「また、落ちちゃったら大変だから」 「……いいよ、買わなくて」 「? ……!」 「こうして眠ればいい」  俺を引き寄せて、ぎゅっと身体が隙間なくぴったりと重なるように抱き締められた。 「これで落ちないし、記憶も多分失くさない」 「……ン」  今度はしっとりと触れるキス。  こんな彼を知ってる人は世界にどのくらいいるのだろうと考えた。悪戯が好きで、表情がくるくると変わる。少し子どもっぽい可愛い人だと知っている人間は。  きっと「友人」たちは知らない。 「さて、レタスはちぎったよ」  だって、最初の頃、貴方とホテルで会ってセックスばかりをしていた頃、貴方はとても上品で、全てが綺麗に整っていたから。まるで、豪勢な花束みたいに綺麗で、豪華で、見る人をいくらでも魅了できる人だったから。全てがとても整っていた。今の貴方はちょっと違う。なんて説明すればいいのか、わからないけれど。 「ツナとハムどっちにしようか? 拓馬」 「……ぁ、えっと」 「ハムがいい? ホテルだと、ハムのサンドイッチをよく食べていただろう?」 「……」 「どうかした?」  さっき、キスをした。一回目は触れるだけの。 「拓馬?」  二回目はしっとりと唇を重ねた。 「……ぁ、えっと」  するのかなって、少し思った。その……。 「拓馬?」  いつもなら、してた、から。  その、朝にもう一度、チェックアウトギリギリまで。 「あ、あの」 「……」 「えっと」 「どうかした?」 「その、いつもなら、して……たので」 「セックス?」 「!」  ナチュラルにその単語をスラリと言われてしまうと真っ赤になって狼狽えてしまう。 「あ、あの、いつもホテルだと朝にもう一回、そのしてたので、だからっ、今、キスがそんな感じしたし」 「そうなんだ。絶倫モンスターだから、朝にも君を襲わないと、どうにも爆発してしまいそうで」 「えぇ?」 「でも、チェックアウト、遅くていいんだろう?」 「!」 「十時でないとダメかな。こちらの部屋は」  また引き寄せられて、キスをもらった。 「だ、ダメじゃないです」 「なら、食事をして、洗濯をして、掃除は?」 「あ、昨日しっかりしたので、大丈夫……です」 「じゃあ、洗濯が終わったらまたしよう」  まるで遊ぶ約束をする子どもみたい。 「まずは腹ごしらえだ」  まるで手遊びをするみたいに手を繋いで、キスをして。 「洗濯物が終わったら、ぜひ、絶倫モンスターに付き合ってくれ」 「ぜ、絶倫だなんて」 「違う、絶倫モンスターだ」 「っぷ、敦之さんみたいにカッコいいモンスター、じゃなくて、絶倫モンスターならいつでも」 「いつでも?」  まるでおままごとみたいに、ゆっくり料理さえ楽しんで。 「いつでも大歓迎です」  小さな小さなキッチンに二人で肩を触れ合わせながら、笑いながら、三角のサンドイッチをゆっくりのんびり、作ってた。

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