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第61話 眠れる森の
――すまない。早速、使わせてもらった。お土産に弁当を持ってきたから。
「ふはっ?」
タイムカードのところで、変な声が思わず出てしまった。立花君とどうにか二人で直した機械は、ご機嫌はやや斜めながらも、仕方がない、と動いてくれるようになり、製造プランは少しの遅れで進められている。自分の仕事も特に溜まってるわけじゃないから、今日はもう帰れそうだなって。
まるで神様が、ほら早く帰りなさいって言ってるみたいに、今日は何事もなく、部長からの無理な注文もなく帰れそうなんだ。
だから神様が、ほら、彼がアパートで待っているから、帰りなさいって。
「あ、小野池さんだ。お疲れ様っす」
「お疲れ様っ」
急いでタイムカードに打刻をして、ちょうど上がりだったらしい立花君と、数名の製造の人たちへ挨拶をし、階段を駆け降りた。
俺が、言ったんだ。
いつでも、時間のある時とか、なんでも、自由に、気が向いた時とかに鍵使ってくださいって。好きな時に来てもらって構わないって。そう言ったんだ。
でも忙しい人だから本当に来てくれるなんて思ってなかった。来てくれたらとても嬉しいけれど、でも、それは難しいんだろうなって。週末だけじゃなくて、平日も彼に会うだなんて。
平日も彼に会えるだなんて――。
「た、ただいまっ」
自分の家なのに少し緊張して、たったそれだけの言葉が喉のところにつっかえてしまった。
「…………ぁ」
小さな小さなワンルームのアパートは玄関から部屋の中が全て見える。そこに本当に彼がいた。リビングにはベッドと小さなテーブル。そのテーブルに突っ伏すようにして、彼が居眠りをしていた。
「……」
そっと、起こさないように近づいて。
「……」
じっと、見つめてしまった。
綺麗な人。睫毛、すごく長いんだ。目を伏せてるとよくわかる。いつもは凛々しく結んである唇が油断して薄く開いてて、キリリと整えられた髪は枕代わりの腕でくしゃりと乱れている。
まるで、眠れる森の……だ。
ずっと見つめていられる。
だから、そっと、そーっと、彼にぶつかって起こしてしまわないように、角を挟んだ隣に座った。
寝息が聞こえる。
穏やかで優しくて、気持ち良さそうで。
眠れる森の……では、王子様のキスで目が覚めるんだっけ。
俺が頬にキスをしたら起きてくれるのかな。でも、とても気持ち良さそうに眠っているから、このまま、できたら起こしたくないなぁ。
でも、起きて欲しいなぁ。
声が聞きたい。
おかえりって、笑ってくれる敦之さんの声が。
でもやっぱり眠っていても欲しいなぁ。
居眠りしてる敦之さんなんて初めて見たから。
すごくレアなことだからさ。
でも、やっぱり起きて欲しい、かな。
こんなところで居眠りをして風邪でも引いてしまったら大変だから。忙しい人なんだし、秘書さんがいるような人だし、風邪なんて引いてられないだろうから。
だから、そっと、こめかみのところにキスをした。そっと、そーっと。
王子どころか、なれても、その王子の従者くらいがちょうどいいだろう俺のキスで目が覚めてくれるのかなって思いつつも、そっと唇で触れたら。
「………………ぁ」
起きてくれた。
「恥ずかしいところを見られたな」
まるで眠れる森の姫君にかけられた魔法が解けて、静かに目を覚ますように。
「おはようございます」
「……おはよう」
そして、居眠りしていたところを見られて少し恥ずかしそうに苦笑いを溢して。その拍子に、はらりと目元に髪がかかって、素敵だった。
「おかえり」
「ただいま……です」
乱れた前髪の隙間から覗き込まれて、ドキッとした。
見たことのない美麗な人の油断した姿、隙だらけの表情、それから柔らかい声で。
「仕事、お疲れ様」
「敦之さんこそ、お疲れ様です」
いっぺんにたくさん交わせた挨拶の言葉に。会う場所がホテルじゃないからこそできる挨拶に。
ただいま。
おかえり。
たったそれだけのことにもくすぐったくも優しく、愛しい気持ちになれるんだ。
「あの……」
「?」
「鍵、使ってくれて、ありがとうございます」
貴方が俺に会いたいと思ってここに来てくれた、そのことが嬉しくてたまらなくて、だらしなく笑ってしまった。
「好きだよ。拓馬」
そのだらしのない口元に貴方がキスをしてくれただけで、俺は世界で一番の幸せな奴になれるんだ。
「こ、これって!」
「弁当、和食なんだけれど、仕事先で売っていたから」
「これってめちゃくちゃすごい高級料亭のところのじゃないですか!」
ニコッと笑ってくれるけれど、この弁当いくらするんだろう。誰でも知ってるような高級料亭の弁当。もちろん、千円、二千円なんかじゃないのはわかる。
「君が喜んでくれるかなと思ったら、会いたくなって」
「……」
「そして、この間もらったばかりの鍵を早速使わせてもらったんだ」
「……」
嬉しいって、思った。
多分少し、今の俺は頬が赤くなってると思う。すごくくすぐったかったから。
「早速使って、少し、遠慮がなかったかな」
「あ、いえっ! あ、あの」
「?」
「敦之さんに、俺のこと、思い出してもらえたのが、嬉しくて……」
自分がこの人のそばにいない時間でも、この人の胸の内に自分がいるって、なんだかとても嬉しいなって。
「あー……というか」
「?」
今度は敦之さんがほんの少し頬を赤くした。
「実は……」
そして、照れ臭そうに、口元を手で隠して。
「しょっちゅう君のことを考えてる」
そう言って、王子様みたいにかっこよく微笑みながら、俺の頬にキスをした。
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