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第62話 恋を知らなかったら

 夏が終わろうとしてた。 「あっつ……」  でも、まだ夕方になっても、日中の暑さが染み込みすぎたコンクリートはどこかじんわりと発熱しているような気がして、額からはじんわりと汗が滲むほどで。  帰りの電車を降りると、ぎゅうぎゅう詰めの車内と大して変わることのない息苦しさに、来ていた半袖シャツの胸元をパタパタと仰いでいた。  敦之さんとは、続いてる。 「友人」じゃなくて、交際を続けている。  忙しい人だから海とかは行けなかったんだけど、俺は俺で、仕事が忙しいし、夏休みはどこもかしこもものすごく混んでいて人だかりしかないようなお盆の数日だけだったし、お盆の間、敦之さんはうちに遊びに来てくれてたから、むしろ、すごく満喫できたっていうか。  時間を作ってくれたんだと思う。  そのあと、少し忙しさが増していたように思うから。  秋になったら、少しゆっくり旅行とか……誘ってみようかなぁ、なんて、思って。  浴衣似合いそうだし。敦之さん。というか、浴衣姿が見たいなぁって。  でも、敦之さんは多分すごい人だろうから、ただ旅行に行きたいなんて言っちゃったらさ、すごいところとかにさ、連れて行ってくれそうだから。けど、俺が決めたら……うーん、あんまりすごいとこは怖気付いちゃうし、お財布的にも厳しいし。だから、どうしようかなって。  行きたいなら早く言わないと秋になっちゃうなぁとか。  そんなことを思いながら、毎日を過ごしてた。  そんな夏の終わりに。 「……ぁ」  とてもしっかりした封筒が、配達や色々なチラシと一緒にポストに入っていた。 「これ」  結婚式の招待状だった。  最後に会ったのは夏になろうとしていた六月。俺は、久しぶりにあいつに会えるってワクワクしてた。嬉しくてさ、テンション高くて、けど、一瞬で落ち込んだっけ。  久しぶりに会ったあいつは女性を連れていた。  恋人じゃなくて、婚約者。  その時の女性と今度結婚するんだって。 「ふぅ」  部屋に帰ると、日中の暑さがしっかりと居残っていて、入った途端にまた汗が吹き出した。  窓を開けて、風を通しながら、花柄の綺麗で立派な封筒を開けると、挙式を挙げるから来てほしいと書いてあった。見覚えのあるあいつの字で。 『元気にしてるか? あれ以来、また会えてないから、当日、会えるのをすげぇ楽しみにしてる』  わざわざ手書きで俺に。 「……元気だよ」  変な感じだ。  あの日、もしもさ、婚約者を紹介されていたかったら、俺はその時は悲しい気持ちにならずに済んだかもしれないけれど、結局、どこかであいつが結婚することを知って、打ちひしがれていたんだろう。あの日、自分の中で一張羅のスーツを着て、あいつに会いに行って、婚約者を紹介されたから、久しぶりに会えると浮かれきってた気持ちをぽっきりと折られたから、俺は自棄になって敦之さんに声をかけられた。  自棄にならなかったら。  あの時失恋をしていなかったら。  この恋をしてなくて、敦之さんにも出会わなくて、こんな恋を知らないままだったら。  今、どんな気持ちでこの招待状を受け取ってるんだろう。  すごく悲しくて、たまらなかったかな。  それとも、もうその前に、やっぱりどこかのタイミングで彼女を紹介されて、失恋して、立ち直れて諦めがついていた?  もしくは諦められたと思った時に、これでまた抉られたような気持ちになっていたのかな。  部屋の中が少し涼しくなってきた。  今日は、敦之さんは出張でいない。飛行機に乗るって言ってたっけ。だから、今日は一人の夜だ。だからエアコン入れなくてもいいかな。暑くても、別に俺一人だし。  でも、明後日、こっちに戻ってきたら、帰りはあのホテルには泊まらず、ここに、うちに寄りたいって言ってた。だから、その時は、部屋を涼しくしておいてあげよう。  御出席の「御」に二本線を入れて、それから、出席に丸をつけた。  メッセージは……どうしようかな。  もしも、敦之さんに出会えていなかったら、俺は出席していたかな。出席は、していたかもしれないな。ひどく悲しい気持ちになりながら、欠席にする理由なんて思いつかないから。あいつの少し下手な手書きのメッセージに泣いていたかもしれない。 「そっかぁ、出席する頃は……秋、かぁ」  じゃあ、あいつの結婚式のある週以外の、その前、かな、後でもいいけど。敦之さんに旅行行きませんかって話ししなくちゃ。忙しい人だからすぐ予定なんて埋まっちゃうだろうし。  出張から帰ってきたら、言ってみよう。  ――ブブブブ  その時、スマホに電話がかかってきた。  敦之さんだった。 「もしもし?」 『拓馬』 「お疲れ様です。お仕事、今日は終わったんですか?」 『あぁ』  ホテル、かな? 声の感じが室内っぽい。 『拓馬は今帰ったところ?』 「はい」  もしも……。 『行きの飛行機がずいぶん揺れて、拓馬のことを思い出した』 「あはは、あの時の」  敦之さんに出会えていなかったら、俺はどんなだったんだろう。 『これは大変だと思ったよ』 「本当に大変だったんです』 『あぁ』  この恋を知らない俺はどんななんだろう。 「あ、そうだ、今日、仕事で――」  けれど、今、恋をしている。  だから、この恋をしている俺はたまらなく幸せで、くすぐったくて、どんな時だって、すぐに笑顔になってしまうんだ。

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