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第64話 雑談

 旅行のこと、本当に決めちゃってもいいのかな。  本当の本当に、ただの温泉一泊旅行とかになっちゃうんだけど。  独り占めできるとこって言ったら……どこまで本気にしていいんだろう。  電波も何も届かない無人島もいいってこと? なんて、そんなところに辿り着く手段すら知らないけど。  でも、誕生日なのに、本当にいいのかな。  冗談じゃなく、電波は届かないとダメだよね。仕事の電話とかかかってくるかもしれないし。と言っても、敦之さんは俺といる時、ほとんど仕事でもなんでも電話をしないけれど。一回だけ、すごく前に一回、秘書の人に電話をかけたことがあったけど、その一回だけ。だからこそ、一緒にいる時にかかってくる電話はとても大事なんだろうなって思うから、じっと静かにいい子にしてる。  そして、そして、何より。  何より問題なのが。  旅行代金…………どうしよう。  言い出したのが俺だから割り勘?  でも、敦之さんって割り勘っていう単語すら知ってなさそうなんだけど。  いや、そしたら俺が二人分出せる宿? けど、敦之さんにしてみたら、いつも使っているホテルの一泊代にも及ばないんじゃ……そしたらただの「宿泊」じゃん。  それでもいいんだけどさ。  敦之さんにしてみたら楽しい? ただの「宿泊」なんてして楽しい?  かといって、なんだか凄そうな宿とかにしたら、やっぱり宿泊代が……本当に申し訳ないんだけど、気になる。  敦之さんはきっと俺が庶民っていうのは、住んでるところを見たって、それに普段の様子身体って滲み出ていて気が付いてるだろうし。  優しいから「宿泊」でも喜んでくれると、思う。  いや、そこで妥協していいのか?  せっかくなんだから、やっぱり敦之さんにだって楽しんで欲しいし。  でもでもやっぱり、代金が……。 「小野池さん!」 「!」 「あっぶね」 「あ……ごめ」  考え事に集中していて、図面がぎっしり詰め込まれている引き出しを引っ張りすぎていた。その引き出しが重みに耐えかねて、ぐらりと傾きかけた瞬間、立花君がパッと手を差し伸べてくれた。  耐久重量と中身が合ってないんだ。一番上の引き出しを全開に引っ張り出してしまうと、棚自体がその引っ張り出された引き出しの重さに耐えかねて、前に倒れてしまう。中に入っているのはただの図面だけれど、紙だって、この奥までかなり長い引き出しに目一杯溢れるほど詰め込んであれば馬鹿にならない重さになる。 「これ倒れたから流石に大怪我っすよ」 「ごめん」 「この前、これでも整理したんすけどね」  確かに前にたくさんの古い図面を抱えているところに遭遇した。  そこそこの仕事をこなして、そこそこの給料でっていう人がほとんどだから、こういう片付けはどんどん後回しになって溜まっていく。  いや、違うかな。  そこそこの給料だから、そこそこの仕事しかこなさない、が正解かな。 「立花君って真面目だよね」 「へ?」 「いや、なんか、他の人って図面の片付けなんて誰もしないんじゃないかなって、思うから」 「……あー……いや、全然真面目じゃないっすよ。小野池さんが仕事、一人で踏ん張ってるの大変だから」 「え?」 「俺が少しでも手伝えればなぁ、なんて」 「……」 「って、あ、つうか、マジでこれっ、気をつけてくださいよ。本当に倒れたらやばいんで。あれ、一番左の引き出し、立て付け悪くなかったっすか?」  確かに、一番左の棚は引き出しがなかなか開かなかった。 「あれ、俺っす。この前、思いっきり引っ張ったら案の定傾いて、そんで……」 「ええええ? 大丈夫だったの?」 「なんとか。力だけはあるんで」  どうやら、同じ失敗をして、引き出しが前に倒れてしまったらしく、その時に立て付けが悪くなったようだった。 「怪我とか」 「大丈夫っすよ。なんで、マジで気をつけてください。考え事とかしてたんすかぁ? もしかして、ラブラブな恋人のこととか?」 「!」 「あは、大正解っすか?」 「あ、いや……」  立花君は社内でも歳が近いせいもあるのか、気さくだし、同じ環境にいることもあるんだろうか、話しやすい。 「今度、旅行に行こうと……その、思ってて」 「へぇ、いいじゃないっすか」 「うん」  こんなの相談したら、ダメかな。職場だし。でも。 「どこに行くんすか?」 「あー、それが……」  でも、恋人と旅行なんて、初めてで――。 「――というわけなんだ。って、ごめん、仕事の途中に」  いいっすよ、別に製造なんて、皆、サボりサボりだし、と笑って、いつものあの休憩室の古ぼけたソファに立花君が寄りかかり、足を放り投げるように伸ばした。作業服は頻繁には替えて貰えないから、その裾の部分が真っ黒だった。 「なるほどー、なんかセレブなんすね」 「あー、うん」 「大変っすねぇ。お金持ちだと」 「全然、向こうは俺が庶民とか自分がどうとかない人なんだ。でも、旅行だし」 「俺なら、温泉一泊でテンション爆上がりっすけどね」  もちろん俺もそうだよ。温泉旅行とか楽しそうだしさ。けれど、ありきたりな旅行じゃ、せっかく敦之さんに時間を作ってもらうのに申し訳なくて。かといって、高くて素敵なところを見つけたところで、「いつもたくさん色々してもらっているから、今回は俺が出します」の一言を気軽に言えるかどうかというと……情けないことに少し難しい。  結局、夏のボーナスはなかったし。昇給だって、本当の本当に、本当に、微々たるものだったから。 「うち、安月給ですもんねぇ」 「あはは」 「どっか、いいところあっかなぁ」 「ごめん。急にそんなの言われても困るでしょ。ありがと。あの引き出しの件も」 「いや、俺、同級生が旅行代理店勤めてるんすよ。今、業界厳しいらしいんで、値引きとかは難しいかもしれないっすけど、何かないか聞いてみます」 「ええええ? ほ、本当に?」 「はい」 「本当に? うわぁ! ありがとう、本当に助かる。俺、慣れてなくて、本当に困ってたんだ」 「……」 「本当にありがとう!」  思わず、立花君の両手をがっしりと掴んでしまうくらい。 「っぷ、小野池さん、本当に、を連呼しすぎっす」  だって、本当に困ってたんだと答えたら、また言ったと、立花君が大きく口を開けて笑っていた。

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