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第話 秘密の箱
―― 傷は浅いうちにしていただけると、私どもも助かります。
敦之さんが、今回は本気だからって言ってた。
―― 別れるなら早めにしてください、ということです。
兄である敦之さんを心配していた。
―― どうせ、貴方はいつか兄を捨てるから。
俺が、あの人と別れたいといつか思って、傷つけるから。
―― 職場の皆様はご存知ですか? 貴方がゲイだということを。
誰にもカミングアウトはしたことがない。一人たりとも俺の恋愛のことを知らない。
――ご家族は?
家族だって知らない。言ったことは一度もない。言うつもりはなかった。
彼は、俺のこの生活が一変すると言っていた。
「……」
ねぇ、シンデレラ。
「本当だ……上条……華道のすごいとこなんだ」
君はどうしてた? 家柄の違うところのお嫁さんになって、どうだった? 周りの人から君のことを王子の花嫁だと認識されてさ、けれど、本当の姿は灰被りのお嬢さんなんだって思われるのは平気だった?
けどさ、それだけだったら、まだ大丈夫だよね。
君はいいよね。お姫様になれたのだから。悲劇のさ、元は姉たちにいびられている可哀想な灰被り。でも、お姫様になれた。
けど、俺はゲイでさ、周りにそんな人はいなくて、周りの人はそんな人がいるとも思ってないんだ。知られたら、どうなるんだろう。
へぇ、そうなんだ、そんなすんなりとした対応をしてくれるのなら、俺は隠さないでしょ。そうならないから、絶対に何かしら過剰な反応をされるって思うから、言わなかったんだ。隠してたんだ。
家族にも。友人にも。
「ちーっす、お疲れ様っす」
「ぁ……立花君」
立花君は俺がゲイって知らない。知ったらどうするんだろう。
営業部長が知ったら……うちの両親が知ったら、元同級生たちが知ったら、どんな顔をするんだろう。この職場で知られたら。
現代風? そんな考え方の人もいるだろう。理解があるんですって。でも、基本、皆、自分と違ってたら見るでしょ? 理解があるふりをして近づいて、好奇的な質問をしたり、恋人のことを異様に聞きたがったり。
「? どうかしたんすか?」
ほら、想像しただけで鼓動がひどく乱れる。
怖い、かな。
少し、怖い。
「今日はもう上がりなんすか?」
「うん……」
「あ、そうだ、納期変更になって早まったって」
「あ、うん、ごめん、それ俺が製造にメール連絡し忘れてさ」
気がついた営業部長がこっちを一瞬睨んでから、大きな大きな溜め息を露骨に吐いて製造に連絡をしてたんだ。今日の俺は、失敗ばかりで、ダメだったから。
「元気ないっすね」
「そう? そう、かな」
「あの……俺、相談乗りましょうか? あれじゃないんすか、また、恋人さんの」
「え?」
「あの、間違いだったらすんません。その」
今日は本当に失敗ばかりでさ、気持ちがふわふわしてるんだ。嬉しくて舞い上がるのとかとは違う。足をどこに着地するのかもわからないくらい、頭の中がぼんやりしていて、考えられてないんだ。だから、小さなミスをたくさんしてる。
「もしかしたら、なんすけど」
立花君はキョロキョロと周りを見渡して、会社の人間が誰もいないことを確認してから、駐車場と社屋の隙間に俺の手を引っ張った。そこは誰も通らない場所で、草が伸びきっている。そこで、もう一度誰もいないことを確認してから、こっちを見て、口を開いた。
「その……小野池さんの恋人って、男、かなぁって」
「!」
ねぇ、俺が女性だったら、すごく綺麗なお伽噺になれたのかな。小さな町工場で働くただの女性がひょんなことから華道の当主、それこそプリンスに出会って恋をする。
けど、俺は男だから。
一瞬だった。
一瞬で、全身から汗と熱が全部流れ出たような感じがした。
「すんません! そのっ、いや、なんとなくなんすけど、キスマとか、女ってあんまつけなくね? って思って、なんかガン見してるみたいでキモいかもなんすけど、場所が場所っつうか。後ろのうなじのとこ、だったりしたから、それこそ、女は……つけないんじゃないかって……思って、それに、前、駅で偶然会ったことあるじゃないっすか」
隠し事を詰め込んだ箱をパッと開けられた。誰にも見せるつもりなんてなかった秘密の箱を開けられて、中身が全て晒されてしまった。
「あの時、ちらっと振り返ったら、そのすげぇモデルみたいな男が小野池さんの手を掴んでて。すげぇ芸能人みたいだったから、すごい覚えてて」
晒されて、吹き出す羞恥心に身体が熱で蒸発する。
「なんか、色々苦労してそうだったし、悩んでたし」
このまま熱で消えられたらいいとさえ思えるほど。
「けど! 俺、全然、男とかあのっ、あれなんすけど、なかったんすけど、今はわかるっつうか」
これを営業部長にも、家族にも知られる度に味わう。熱で消えられたらいいと思うほどの羞恥心を味わう。それは確かに一変するんだろう。自分の世界が変わるくらいの熱に一瞬で胸がただれる。
「俺…………小野池さんなら、全然」
「…………ぇ」
「俺、小野池さんのことっ」
ねぇ、シンデレラ、君なら平気?
「セレブじゃないっすけど、俺はっ」
俺は……。
今日は、本当にダメな日だった。
「……ただいま」
ふわふわしていて、足をどこに着地させて歩けばいいのかもわからなくて、ずっとぼんやりとしていた。
――俺と付き合いませんかっ?
ズルズルと玄関に座り込んで自分の古ぼけた革靴へと視線を落とした。
薄暗い中でもわかるくらい、立花君が真っ赤になっていた。立花君にゲイだと知られてしまった。誰にも言わないと言ってくれた。俺も今はそうだし、って照れ笑いをしてた。俺の革靴と同じくらい古ぼけた作業服姿で。
「……」
――今、ホテルに戻ったよ。結婚式はどうだった? どこのホテルだったんだろう。急な出張じゃなかったら、必ず迎えに行ったのに。残念だ。
「……ぁ」
本当にダメな日だ。ふわふわして、敦之さんからメッセージが届いてるのも気がついていなかったなんて。
「頭の中がぐちゃぐちゃだ……」
溜め息と一緒に何かを吐き出せたらいいのに、何を吐き出したらいいのかもわからないほど、胸のところがぐちゃぐちゃでどうしたらいいのかわからなくて、しばらくそこにうずくまったまま動けずにいた。ただ、頭の中に。
―― 小野池さんの恋人って、男、かなぁって。
その言葉が再生される。
そして再生される度に、暴かれた瞬間の動揺にまだ足元がぐらついてる気がして、心臓がギュッと絞られたような気がして、呼吸が喉に詰まってしまうような苦しさに目をぎゅっと瞑った。
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