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第70話 彼となら

 生まれて初めて、言われた。  俺と付き合いませんか、って。  それはずっと、ずっと、夢見てた言葉だった。  前に、もしも敦之さんに出会ってなかったら、俺は立花君を好きになっていただろうって思ったことがあった。身近で、人付き合いが上手じゃない俺でもすごく話しかけやすい彼に。俺のことをとても気にかけてくれる、そういう友だちを俺はいつも好きになってた。けれど、いつもそんなふうに好きになるのはノンケだったから、毎回俺の片想いのままで終わってしまう。  でも、立花君は……。  ―― 俺、小野池さんのことっ。  有頂天になって頷いていたんだろうな。  敦之さんに出会ってなくて、立花君を好きになることができていただろう俺は。その言葉に舞い上がっていたと思う。 「頭、重……」  朝、起き上がるとずっしりと石でも乗っているように感じた。小さな脳みそはキャパを超えちゃったんだ。いっぺんに色々なことが起こったから、その小さな頭に詰め込みすぎたせいで、はち切れそうで、重くて仕方がない。  それでも仕事があるからと起きあがった。  敦之さんの弟に会った。その人は別れるのなら早くしてくれと言った。兄が本気のようだから、早めにしてもらわないと傷がどんどん深くなってしまうと兄を心配していた。  きっと秘書として、家族として、何度も見てきたんだろう。敦之さんの恋が壊れて、悲しそうにする姿を。今度こそって思っても、やっぱり悲しい結末になってしまうものを、何度も。  敦之さんが出張から帰ってくるまでにできたら決めて欲しいと。  別れる気がないのなら、捨てる気がないのなら、覚悟しろって。俺の生活が一変する覚悟を。隠していたものがオープンになるということを。 「仕事、行かなくちゃ」  重たい頭が揺れる。  でも、のそのそと支度をして仕事へ向かった。灰色をしたデスクは今の気持ちにそっくりで、部長の不機嫌にまた頭が重くなる。 「いやぁ、納期はこれでも、一生懸命に駆け回って早めているんですよ」  一生懸命に駆け回っているのは俺たち平社員だ。でも、そんなの知らないし、考えたこともない部長が自分勝手に設定した納期だから守れるわけがない。あり得ないほどの短納期なんだ。  そんな愚痴を立花君となら話せる。  ありえなくない? 自分の顧客のとこ最優先とかさ、俺たちだって仕事必死で取ってきてんのに。しかも利益がちゃんとでる見積書で、納期も製造にあんまり負担かからないくらいに、必死に調整して。なのに自分は破格の価格設定で、無理な納期で、そりゃ仕事取れるじゃん。そんなことしていいのなら、いくらでも大口の仕事を取ってこれるじゃん?  そんな愚痴を立花君となら、話してさ。安い居酒屋でビール飲んで。Tシャツにジーパンで。  もしも、立花君と付き合ったら。 「……はい。はい。かしこまりました。それでは……失礼いたします。……ったく、納期を守れって、もうこんな夜に言われたってなぁ」  楽、だと思う。 「お先に失礼します……」  身分違いだと心配になることもないし、彼に相応しいとか気にしなくていいんだ。  朝、だるいなと思いながら、仕事に向かって、部長の不機嫌に溜め息をつきながら、休憩室で時間潰して、残業して、帰る。たまに彼氏と……立花君と会って、それで――。 「あ! 小野池さん!」  彼となら。  タイムカードを押して、帰ろうとしたところだった。会社を出たところで引き留められた。手をぎゅっと掴まれて、そのことに驚きながら振り返ると、そこに立花君がいた。  彼と付き合ったら、部長に知られることもないだろう。家族にも知られることなく、適当に誤魔化しておける。わざわざ秘密を暴露して、広げて、反応されることなんて心配しなくていい。  彼となら、誰にも知られずにいられる。 「あの……昨日」 「お疲れー、立花ぁ」 「あ、お疲れ様ーっす」  製造部の先輩が立花君に後ろを通り過ぎて、彼は慌てて俺の手を離した。 「歳近いから仲良いな、お前ら」 「! え? そ、そんなことないっすよ!」  慌てて否定して。 「あ、そうだ、営業の、小野池、部長に言っとけよー。納期納期ってあんな無茶苦茶な納期は無理だってよ」 「あはは、無理っすよね」 「ったく、明日、発送は無理だからな。土曜出勤なんて」 「お疲れーっす」  立花君は先輩社員がいなくなるのをじっと見つめて、そして、車が走り去る音を聞いてホッと胸を撫で下ろした。 「ビビった……急に来たから」 「……」 「それで、あの、小野池さん、昨日のことなんすけど、考えてもらえましたか? その」  手を離した。  男同士、手なんて、掴まないから。会社の人に知られては大変だから、慌てて手を離した。少し放るように。 「……」 「やっぱ、俺、思ったんすよ。だって、大変そうじゃないっすか。小野池さんしょっちゅう落ち込んでた」  放るように。慌てたから。急いで。 「いや、けど、わかります。男同士って大変っすよね。バレたらダメだし」  そう、バレたらダメ。  でも、バレたら……ダメ? なのかな? 「でも、そういうのもわかっててそれでも俺、小野池さんとなら」  お前となら、それはずっと俺が片想いの相手から言われてみたいと望んでいた言葉。お前となら付き合える、キスができる、セックスだって……そう、一線を呼び超えられたらって願っていた。叶ったことは一度だってなかったのに、今、叶うなんてさ。  本当にそういうタイミングが悪んだ。セールで買ったネクタイが、翌日更に値引きされてたり。でもそんな何度も値引きされるような商品だから、後々、あまり使い勝手が良くない色柄をしていて、タンスにしまったままになっていたり。  ついに見つけたのに。  今更になって、ずっと欲しかった言葉を言ってもらえるなんて。  でも、俺は恋を見つけた。 「きっと、俺、小野池さんを」  ――拓馬。  敦之さんとデートをしたことがある。手を繋いでくれた。そっと丁寧に優しく、どう見たって、誰が見たってそれはデートだった。愛しい人をエスコートするように。水族館で、レストランで、ホテルのロビーで。  彼は隠そうとしたことがなかった。  彼は。 「あの、立花君……」  彼はこの恋を。  ――ごめんなさい。  そう頭を下げた。  立花君は、あー……って呟いて、なかったことにしたいって顔をした。忘れてくださいって。だから、俺は魔が差したんだよって言って笑った。  彼も苦笑いをした。  実際にそうだと思う。魔が差して、ふと、男と付き合ってみようかななんて思っただけで、しばらくしたらきっとその時の自分の言葉に、気持ちに、後悔するんじゃないかな。 「すみません。お呼び立てして……雪隆さん」  ねぇ、シンデレラ。  身分違いだと、相応しくないと、思ったことはある? 「……いえ」  俺はあるよ。ずっと、俺なんかがってずっとずっと思ってたんだ。あの人が微笑みながら差し出してくれる手を取る度に、ずっとそう思ってた。俺なんかでいいのかなってさ。 「ここの花も敦之さんが生けたんですか?」 「……えぇ」 「すごいですね。前に見たことがあるんです。すごい綺麗だった。その時とは花が違ってますが、でもやっぱり綺麗だ」 「花は枯れますから」 「そっか、そうですね」  雪隆さんと待ち合わせたのは駅の地下通路。地下通路と言っただけで、どこだかわかった彼が電話越しに静かな声で「かしこまりました」と答えた。  ここにあるから、すぐにピンと来たんだと思う。  ここには敦之さんが生けた花が飾られているから。  そこで話をしたいと気がついてくれた。 「どうされるか決めましたか?」 「……はい」  身分違いだと、相応しくないと、ずっと気にしていたんだけどさ、それは誰から見たことなんだろう。  おこがましい。身の程知らず。それは誰が言ったんだろう。  ――拓馬。  それは敦之さんと俺を他から見た時のことだ。 「俺は」  あの人は、ヨレヨレの古ぼけた俺の鞄を持ってくれるんだ。仕事で埃まみれになったスーツを気にせず抱きしめてくれるんだ。手を優しく握ってくれる。  君もそうだった? シンデレラ。  灰が裾についても気にしないような人だと思ったから、ガラスの靴を履いてみせた? 「俺は、別れません」 「……」 「むしろ、世界中に言いふらしたっていいです」 「意味をわかって仰ってますか? 今まで、」 「拓馬!」 「!」  ねぇ、シンデレラ。  彼が私の王子様なんだって、君も自慢したかった?  俺もさ、そうなんだ。  俺の秘密は知られたらって思うけれど、でも、この人に大事にされているっていうことはさ、言いふらしたくてたまらなくなるくらい。 「どうして……ここに……敦之さん」  この人はとても素晴らしい人で、そんな、この人のことがとても、とっても好きなんだ。

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