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第71話 黒い馬車に揺られて
駅の地下通路、そこに雪隆さんを呼びつけた。
ここがよかったんだ。ここで初めて、あの人の花を見たから。
話があると伝えたら、静かで、冷ややかな声が「わかりました」と答えて、何時がいいのか尋ねてきた。
「拓馬!」
貴方はまだ出張中のはずなのに、来てくれた。
「どうしてここに」
敦之さんがここに、来てくれた。
「君の様子が、昨日、おかしかっただろう?」
「……」
「嫌な予感がした」
――今、ホテルに戻ったよ。結婚式はどうだった? どこのホテルだったんだろう。急な出張じゃなかったら、必ず迎えに行ったのに。残念だ。
俺は、ちゃんと返事をしたよ? ねぇ、貴方にバレてしまわないように、ちゃんと。
――楽しかったですよ。幸せそうにしていました。懐かしいメンバーにも会えました。お仕事お疲れ様です。
そう、ちゃんと返事をしたのに。
「どこのホテルか君は返事をしなかった。それに言葉がいつもよりも強張ってる気がした」
「そんなの」
「好きな子のことくらい、わかるさ」
息を切らして走ってきてくれた? スーツ姿の敦之さんの額に汗が滲んでる。そして、手を伸ばして俺の頬に触れて、ふと自分の指先が冷たいと気がついて、手の甲に変えてから撫でてくれた。
冷たい指先。
走ったから?
それとも、緊張したから?
「敦之さん……」
敦之さんの表情が切なげに揺れた。
「兄さん」
「……お前が見繕った仕事ならちゃんと終わらせてきたよ。わざわざ出張に行かせたんだろう? その間に、拓馬に会おうと」
「でも、どうしてここだって」
「お前は俺の秘書なんだ。お前が拓馬のことを調べ上げたように、俺も、お前の居場所くらい簡単にわかる」
ずっと、頭の片隅で疑問に思っていたことがある。
「あの、俺が雪隆さんを呼んだんです」
「拓馬」
「お話があるって」
どうしてこんなに優しく誠実な人が、身体だけの相手を求めてたんだろうって。「ユウ」って、最初に俺を間違えた夜、丁寧に優しく俺を抱いてくれた時からずっと、不思議だったんだ。
こんなに優しい人なら、こんなに綺麗な人なら、いくらでも恋人を見つけられるのにって。誰だって貴方を好きになるのにって。けれど、貴方が選んだのは安易に繋がれる関係だった。
雪隆さんが言ってたんだ。
―― ……あの人は怖がりだから。
そう言った。
「あの……」
貴方は恋をする度に告げられる別れが悲しくて、諦めたんでしょう?
「いいです」
「拓馬?」
「俺、かまいません」
恋を、しなくなったんだ。
「俺、敦之さんが好きです」
恋をする度に痛くて仕方がなくなるから。誰だって痛いのは嫌だし、怖い。
「わかっておられるんですか?」
「はい。わかってます。ちゃんと、考えました」
怖がりだと弟さんが心配していたこの人の手をそっと繋いだ。俺の手、あったかいでしょ? もう十月になるんだ。指先が冷たくなってしまう。でも、俺、けっこう体温高いから、これなら冷たくならないで済むでしょう?
「考えて、改めて、敦之さんが好きだなぁって思ったんです」
貴方は、男同士とか、俺みたいなのを、とか、一つも気にすることなく、いつも、どこでも手を繋いでくれたから。ね? こうして、いつも、ちゃんと俺と手を繋いで、恋を、してくれていた。
「あの、すみません。俺、お花とか疎くて」
「疎くて当たり前だ。それに俺の露出はまだ少ない」
「でも三十になったら……」
「あぁ、当主だ。色々変わる」
どんな風に変わるのかさえ俺には想像ができなかった。
「だから、その前には君に言わないとと思っていた。自分の仕事のこと、君にかかる迷惑の、」
鼻、触っちゃった。
敦之さんのスッと通った綺麗な鼻を、指で摘んじゃった。
「迷惑なんて思わないでください」
車の外を流れていく景色に視線を逃して、貴方は少し身構えるように「迷惑」という言葉を絞り出そうとしたから、その高い鼻をむんずと掴んだ。
少しびっくりして、目を丸くした貴方がおかしくて俺は笑っちゃった。
「それを言うなら、俺なんかが当主のパ、パート……ト」
「君がいいんだ」
「……」
「君に俺のパートナーになって欲しい」
やっぱり、つい、おこがましいことを言っていいのかと躊躇っている俺に触れて、すんなりとそのおこがましい言葉をくれた。
貴方のパートナー、っていう、一介のサラリーマンにはちょっと名乗れない名称を。
「ずっと、そう言いたかった」
畏れ多いよ。そんなの。華道の家元なんだよ?
「でも、素性を全て話して、逃げられるのが怖かった」
身分違いも甚だしいでしょ?
「もう、諦めてたんだけどな」
「……敦之さん」
「君のことは逃したくなかったんだ」
「敦之さん」
「だからずっと言い出せなかったんだ……拓馬……」
繋いだ指先を絡めるように引き寄せられて、そのまま――。
「コホン」
「! す、すみませんっ」
「雪隆」
キス、しちゃうところだった。
敦之さんの、その色気っていうか雰囲気に、ほろほろ絆されて。
「いえ、こちらこそ……お邪魔してしまい申し訳ありません。ですが、兄のその砂を吐くような甘い言葉がちょっと……苦手です。それから、流石に兄のキスシーンは見たくないので」
「! すみませんっ」
「いえ、よくそんなに甘い言葉を並べられて笑わないなぁと感心してました」
「え?」
そうかな。笑わないけど。ドキドキはするけれど。
「お前は辛口だなぁ」
「貴方が激甘口なんです」
うわ。
「いつもじゃないさ、拓馬にだけだ」
「そのようにお願いします」
「もちろん」
「初めて見た」
「? 拓馬」
「敦之さんも兄弟喧嘩するんですね」
「喧嘩ではありません。呆れてるだけです」
「気にしなくていい。あれはいつもああなんだ」
「秘書のことをあれ、とは?」
「俺が行かなくていい仕事を無理に押し付けて、出張に行かせただろう?」
「えぇ、最近、恋人のおかげで、デレデレしていたので仕事をしっかりしていただいたんです」
こんな敦之さんは初めて見たんだ。ね、すごい、敦之さんが知らない顔をしてる。
「デレデレしてたって構わないだろう?」
「緩んだ顔があまりにだらしなくて」
数分前まで、結構シリアスだったんだ。貴方のことで、すごく悩んでいたのに。
「どうかされましたか? 拓馬様」
「拓馬?」
「いえ、あの」
貴方と乗った黒色の、馬車代わりの高級車に揺られながら、今は嬉しくて、楽しくて、幸せで。
「敦之さんが好きだなぁって思ったんです」
なんだか笑ってしまったんだ。
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