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第72話 愛しくてたまらない

 タクシー代わりに秘書である雪隆さんを使ってしまったけれど、大丈夫かな。 「あの、ご自宅に帰らなくて大丈夫ですか? それに出張だったのに荷物は」  スーツケースどころか、旅行バッグ一つさえ持っていない。 「大丈夫。荷物なら送ってしまったし、それに君のうちなら」  滞在するのに必要なものは全て揃っているだろうって笑ってる。笑って、ぎゅっと強く抱き締められた。愛撫とは違う抱擁。俺がちゃんと腕の中にいることを確かめるような、確かめて安堵するような力強い抱擁。  雪隆さんに俺のアパートまで送ってもらったんだけど、地下通路での話はとりあえず、ひと段落、なのかな。俺はこのまま敦之さんと一緒にいても。  いい……んだよね? 「華道家だと伝えずにいてすまなかった」 「いえ」 「驚いた?」 「はい」  すごく強く抱き締められてるから、彼の声が近くてくすぐったい。自分の声が彼の懐に吸い込まれていくみたいで安心する。  変なの。  小さな部屋の真ん中でずっと、ぎゅっと抱き締められながらの立ち話。 「ずっと弁護士とか、どこかの社長さんかと思ってました」 「俺が?」 「はい」  あとはエリート官僚、とか。そう言ったらすごく笑ってる。俺はそんなに賢くないと、笑って、そんなふうに見えるかなって。見えるよ。とにかくエリートで、頭が良くて、お金持ちで。 「お花の人だとは思いつきませんでした」  でも、そう言われると似合ってるなぁって思った。たくさんの花に囲まれた王子様。 「だから、お花詳しかったんですね。博学な人だなぁって思ったんです」  お花のことを優しい声色で教えてくれた時、知識が豊富で、けれどそれをひけらかさない人だなぁって思ったんだ。 「さっきの地下通路」 「あの花も綺麗でした」 「あの時、君がいいって思ったんだ」 「?」 「花を褒めてくれただろう?」  ―― 良くないですか? 毎日使う通勤路でこんな綺麗な花を見られるんなら、俺、会社行くの少し楽しいかも。 「あの言葉が無性に嬉しかった。救われた気がした。君に」  あれは貴方に、いつもたくさん優しくしてくれる貴方に少しでもお礼がしたいとお酒を買ったんだ。買ったけれど、重くて、そんなの持ち帰りには適してないって、気がついて、下手だなぁって自分に呆れてた。そしたら、すごくすごく綺麗な花が地下通路なんていう少し息苦しいところに活けられていた。そこと、そこの周りだけが、通勤の無機質で空気さえも止まって居座るような無風の場所に咲いていた。息遣いさえした気がした。花の甘やかで、優しい息遣い。 「……俺」 「その時思ったんだ。君がいいって」 「……」 「いつか終わるとしても、その時まで君といたいと」  貴方の腕の中も同じだ。 「傷つくだろうけれど、君にならいいと思った」  貴方の腕の中では優しく呼吸ができる。  仕事でぎゅうぎゅうに詰め込まれて、薄暗い色ばかりの視界に飛び込んでくる優しい花色に気持ちが和らいでいく。空気が薄いのでは? と思うほどの目眩が消えて、深く息を吸って、頑張ろうって思える。 「俺は、敦之さんのこと傷つけないですよ」 「……」 「本当です」 「……」 「大好きです」 「……」 「終わりになんて、しないです」  攫うように抱き締められて、そのまま深く、深く、口付けられた。 「ン……ん」 「拓馬」 「あ、敦之、さん」  舌先が絡まり合って、辿々しかった唇を自分から角度を変えて、貴方の唇に重ねた。 「拓馬」  深くて、濃いキスに、力強い抱擁が違うものになっていく。 「あっ……っ」  甘く蕩けるような感じ。 「あっ……の」 「拓馬?」  セックスに繋がる抱擁に変わる。 「あの、今日、敦之さんと会えるなんて思ってなくて」  だから慌てて腕で少し、敦之さんから離れたんだ。 「その……」 「じゃあ、一緒にシャワーを浴びよう」 「そ、そうじゃなくてっ、その、ご飯」 「?」 「夕食なら」 「ち、違くてっ、だから、えっと」  あぁ、やっぱりこういうの下手だなぁ。切り出すタイミングも、言い方も全然色っぽくできやしない。 「お昼、食べちゃったんです」 「……」 「その、なので」 「もしかして、拓馬、俺と会う時は昼も抜いてたのか?」 「はい。その……そういうの、の、時は控えるって。やっぱり、あの」  俺は女性じゃないから、さ。 「なので、今日は……」 「あぁ、もう!」 「!」  びっくりした。敦之さんが声を荒げるなんてこと、滅多にないことだから。 「どうりで君は細いわけだ」 「こ、これはっ」  怒った? と思ったら、ぎゅっと俺を抱きしめて、腰を引き寄せるように密着させながら、額をコツンと俺の額にくっつけた。溜め息を、零させてしまった。 「夕食だけ控えてるのだとばかり」 「……」 「気にしないよ」 「……」 「もしも、そうだな、お腹が痛くなってきたら、その時ちゃんと言ってくれ」 「ぁ……」 「そんなことで君のことを嫌いになんてならないから」 「ン」  首筋にキスををされて、キュッとお腹の底が締め付けられる。 「ほ、本当に?」  もっとくっついていたいと、気持ちが急かす。 「あぁ、本当だ」 「俺みたいなの」 「言っただろう?」 「?」 「君がいいって」  この人とくっついて離れたくないって。 「そんなの、それじゃあ、いつもお腹空いただろう?」 「いえ、あの」  大好きな貴方ともっとずっと、ぎゅうってくっついて離れたくないと、気持ちが、身体が忙しなく俺を急かすんだ。 「敦之さんと会えるってこそのことで胸がいっぱいになるので、気にならないです」 「……」 「なので、あの、敦之さん?」 「本当に」  敦之さんの腕の力が強まったと思ったら、そのまま。 「本当に、君が可愛くてたまらない」  そのまま抱き上げられてベッドに寝かしてくれる貴方からほんの少しでも離れることのないように、ぎゅうううって。 「拓馬……」  腕に、たくさん力を込めて貴方にしがみついた。ここまで近くに来ると香る、花のように甘い香りの貴方に。

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