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第76話 ふわふわ
ふわふわする。
――いってらっしゃい。気をつけて。
彼に見送ってもらってしまった。たくさん仕事を頑張ったから、急な出張公演だってしっかりこなしたんだ、数日の休暇はいただいたと笑ってた。
留守番、してるんだって、笑っていた。
俺の帰りを待ってるんだって。
玄関先まで見送ってくれた王子様のような敦之さんに、ふわふわする。帰ったら、まだいてくれるなんて、ふわふわするに決まってる。
「おはようございます」
いつもどおりにタイムカードに出勤を打刻して、そのまま自分の灰色のデスクに――。
「おおおお! おはよう! 小野池君!」
「!」
天変地異。
その瞬間に思い浮かんだのはその言葉だった。それと。
あなたは誰ですか? って、質問。
「いやぁ、いつも仕事頑張ってくれてありがとうねっ」
「あ……あ、いえ、あの」
本当に誰ですか? って聞いてしまいそうになった。だって、部長? だよね? あそこの席に座ってたんだし。いつも人を呼びつけて話す部長がこっちに‘歩いてくるから、ちょっとびっくりしすぎて身構えてしまった。
多分、風貌は同じだから、部長だと思うんだけど。え? でも、本当に誰? ニコニコしてる。
「いやな、社長がたいそう喜んでいたぞ?」
はい? 何を?
「まさか誕生日にあんな見事な花束をもらえるとは生まれて初めてだとね」
誕生日? 誰の? 花束?
「おや? 見かけなかったか? 社長室のところ」
見ないでしょ。社長室の中なんて、朝からいちいちチェックしないでしょ。
「大きな花束。まさか君にあんな有名な華道家の親戚がいるとは思わなかった」
「!」
そこで、わかった。
華道家なんて知り合いさえいなかったよ。それなのに親戚って。
多分…………これは敦之さんじゃなくて、雪隆さん……だと思う。親戚って、言ってた。まるで……それは。
『せめてものお詫びの印です』
「あ、あの?」
『就業中なのでは?』
「は、はい。けど、その」
『気にしないでください。ひどいブラック企業なのは存じております。ああいう輩は権力にめっぽう弱い。音がしそうなほど尻尾を振っていたでしょう?』
少しだけ、思ってはいたけれど。敦之さんと雪隆さんって、本当に兄弟なのかな。こういうところがすごく、その。
『兄弟ですよ』
「!」
『今、私と兄は本当に血の繋がった兄弟なのかなって思ったでしょう? 正真正銘、兄弟です。ご安心ください』
いや、むしろ、安心できないっていうか。それに心の中を読まれてしまった。
『……兄が言ってました』
「?」
『いつも一生懸命なんだと』
少し環境の悪い職場のようだ。心配なんだよ。けれど、彼は彼のできることを一生懸命にやっているから。邪魔も余計なこともしたくない。
そう、敦之さんが俺のことを雪隆さんに話していた。
『その一生懸命さが報われるようにと私の一存で勝手にお手伝いをしただけです」
こういうところは似てる。声の感じ。優しくて、品があって、しとやかで。
『ああいう輩はとても愚かなので、扱いが簡単なんです』
あ……でもやっぱり、兄弟じゃないんじゃないかな、こういうところ。
そう思っているのが、電話越しに電波でも届いたのか、雪隆さんはくすくすと笑いながら、ですから、兄弟ですよと、また俺の頭の中の言葉に返事をして電話を切った。
なんか、不思議な人だな。もっと冷淡な人かと思ったけれど、すごく温かい人、なんじゃないかな。
「あー、サボり一名発見」
「!」
「ちーっす」
「ぁ……えっと、お疲れ、さま」
立花君だ。
「聞きましたよ? すごいって。社長が大はしゃぎで、営業部長がなんか、へーコラしてるって」
「あー……」
「親戚っつって」
「……」
「恋人さん……のこと、っすよね」
「……」
ヤニ色休憩室で足を伸ばして、古ぼけたベンチに腰掛けた立花君が缶コーヒーを開けた。プシュッと、中の空気が吹き出す音がして、それから、立花君の溜め息が聞こえた。
「……ごめん……」
「謝られると、なんか、すげぇ、あれっすね」
「……」
「あー、残念って思います」
「……」
「たまにしんどそうにしてたじゃないっすか」
「……」
「けど」
あっという間に飲み終わった缶を部屋の端にある缶捨ての中へと入れた。ちょうど、缶一つ分の穴が空いていて、そこに投げ入れた。
「けど、たまに、すっげぇ、嬉しそうにしてた」
「……」
「仕事必死で終わらせて、タイムカードんとこでめっちゃ慌ててて。それがなんか、すげぇ可愛かったんすよ」
あの人に会える日はいつも仕事を必死で終わらせてたっけ。タイムカードを機械に差し込んで、ガシャンと古ぼけたそれが時間を打刻し終えてくれるのを待つのさえ焦ったいほど、早くあの人に会いたくて仕方なかった。
「いいなぁ、こんなふうな彼女とか、いいなぁって、思ったんすよ」
「……可愛くなんて」
君と、だったら。
どんな恋をしていたんだろうか。女性が恋愛対象の君と、近づく度に、俺は心配になっていたんだろうか。いつか、やっぱり女性の元へと戻っていくかもしれないと心配になっていたんだろうか。
たぶん、そうだと思う。
でも、その心配がないから敦之さんが好きになったわけじゃない。王子様だから、好きになったわけじゃなくて。俺は――。
「忘れてください!」
「……」
「俺は、親戚とか言い切れる自信ないし。その、家族っぽいっつうか、なんつうか、一生、とかまで考えてなんかなかったし。可愛いなぁ、って思っただけなんで」
「……」
「なんで忘れてくださいっ」
俺は、あの人を好きになって変われたんだ。毎日が変わったんだ。まるで、それは萎れかけていた花が新しい水をたくさんもらって、曲がっていた背を伸ばして、萎れかけていた花びらを陽に向けて開くように。
あの人に、もらったんだ。水を、陽を。
「そんじゃ!」
「立花君」
「あ! それから!」
休憩室を出ようとしたところで振り返ると、ニコッと笑って。
「辞めないでくださいよ? セレブになっても。ボーナス、出ないっすけど」
「……辞めないよ」
ニコーって笑って、製造部へと戻っていった。
「……さて」
可愛くなんてないよ。俺、男だし。女の子じゃないから。彼女にもなれない。
「俺も、仕事に戻らなくちゃ」
ごめんね、立花君の彼女には、俺はなれないんだ。
「わ、嘘っ、え?」
アパートに辿り着くと、いい匂いがした。優しい、お醤油と少し甘い砂糖? かな、美味しそうな匂い。
「あ、あのっ」
「あ、おかえり」
「……」
嘘みたいだ。
「肉じゃが、作ったんだ」
「あ……あの」
「男が食べたい手料理第一、らしいから」
「……」
「手を洗っておいで。一緒に食べよう。拓馬」
「あ」
「あああ! それから」
嘘みたい。
「……おかえり」
帰ったら貴方がいて、料理をしている貴方を見られて、そして、おかえりのキスをしてもらって。
「た、ただいま」
好きな人にこんな挨拶をできるなんて。
嘘みたいに幸せで。
「敦之さん」
とてもふわふわする。
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