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第78話 貴方の初めて

 敦之さんの誕生日に少し遠出をして、グランピングの一泊旅行を計画した。  普段、とても多忙な敦之さんを俺がエスコートして、ゆっくり身体を休めてリラックスしてもらいたかったんだ。それと、彼の誕生日をお祝いしたかった。これからもずっと、俺が祝いたい、その一番目、初めてをとても楽しみにしていた。  今日の旅行をずっとずっと楽しみして、色々プラン立てて、色々想像していた。 「やぁ、おはよう」 「……」  なんとなく、そうかなって思ってた。そういう感じかなって……思ってはいた。でも、いざ目にすると、なんだか他人事のように感心してしまう。 「拓馬?」  まるで映画のワンシーン。  もしくは一枚の名画。 「は、初めてです」 「?」 「高級車!」 「…………っぷ、あははははは、それはよかった。また一つ君の初めての男になれた」  そう言って、敦之さんが超高級車の隣に立って笑っている姿は絵になりすぎていて、驚くのも忘れてしまうくらいしっくりきていた。 「じゃあ、行こうか」 「は、はい」  そして、音もなく、滑るように車が走り出した。本当に音がしなくて、本当に滑ってるみたいで、コンクリートの上を走っている気がしないくらい静かで心地良い走りで、俺の人生初、恋人をエスコートしてのデート旅行と誕生日のお祝いが始まった。  高速に乗ってスムーズに行ったら二時間。高速を降りてからは三十分ほど走ったところ。あまり、移動に時間をかけてしまうのはもったいないから。  敦之さんは久しぶりの運転なんて言っていたけれど、とてもリラックスしているよう見えた。  俺の方がドキドキしているくらい。  シートからして違う。座り心地も違う。空気も……空気は敦之さんの匂いが微かにしてドキドキする。それから――。 「久しぶりの運転だから、雪隆にひどく心配された。帰って来ないかもしれないから、次期当主候補をもう一人作っておこうかなと」 「ええええ? そんな」  そろそろ慣れないと、なんだけどさ。 「いや、あれは本気だった」  この人の恋人である自分を。まだ、たまに驚いてしまって、たまに不思議に感じてしまって、ふわふわする時がある。  そんな次期当主の候補なんて縁起でもない冗談、って言おうと思ったけど、確かに、雪隆さんなら真顔で言いかねないなって。 「いつもは運転手にしてもらってるから」 「でも、敦之さん、運転上手です」 「そう?」  うん。  すごくかっこいい。とりあえず見惚れるくらいには。  旅行の朝、待ち合わせた。うちのアパートの近くに車で迎えに来るからって。アパートの手前は道が細いから、あんまり長居していられないんだ。しかも朝だと、通勤の車がビュンビュン通るから少しでも停車しているとクラクションを鳴らしかねない……って思ったんだけど、こんな高級車にクラクションを鳴らす人はきっといない。  ほら、車のボンネットに世界でも知られているロゴのオブジェが飾られてる感じの高級車。しかもそこから出てきたのがモデルように綺麗な人なら、もう誰もクラクションひとつ、文句だって言えやしない。 「でも、最初はかなり恐る恐るだったよ」 「そうなんですか? すごく上手なのに。あ、でも俺、どこかのタイミングで運転途中で変わりま、…………」  そこまで言って……気が付いたんだ。 「ありがとう。拓馬」  そこでようやく気がついた。 「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あのっ!」 「どうかした? 拓馬」 「は、ひゃい! あ、でも! あのっ」  運転代わりばんこにしたらさ。 「敦之さん……」 「うん」  あ、多分、敦之さんはわかってる。ほら、笑ってる。わかってるから、だから楽しそうに少し悪戯っぽく笑ってる。 「君の運転する姿を見るのは初めてだ」 「あ、あ、あのっ」 「目に焼き付けなくちゃ」  ほらね、やっぱりそうだ。俺が。 「もー、敦之さんってば!」 「あはは、楽しみだ」  俺もこのべらぼうに高いだろう高級車を運転しなくちゃいけないってことに、今、気がついた。ものすごく、ものすごおおおおおく、怖いんですけれど。 「大丈夫だよ。シートベルトして。あ、あと、これ、当たり前だけど、高速運転だと補助があるから、アクセル離してても大丈夫」 「は、はい?」  何それ。この車は未来の車なんですか? 「後は車がスピード制御してくれるから疲れない」 「そ、そんなっ」  当たり前じゃないよ。何その機能。やっぱり未来から来た車なの? 便利なのかもしれないけれど、きっと俺はそんなことを言われてもずっと足をペダルに置いたままになる。  俺がしょっちゅう運転してる営業車なら全然いいんだ。擦った傷なんて元から山ほどあるんだから、ひとつふたつ増えたところで誰も気にしない。でもこの高級車、傷ひとつないし。そもそも敦之さんの持ち物に傷なんてつけられるわけないし。 「ね? 拓馬」  けれど、そんな俺の様子に敦之さんは華麗に微笑むだけ。そして俺は初めて、そんな敦之さんの笑顔に見惚れる暇もなく、ただ、慌てていた。 「パーキング、そろそろ寄ろうか」  ついに来た。その時が。 「は、はい!」  ここで休憩をしたら、次は俺がこのべらぼうな高級車を運転しなくちゃいけない。ただひとつ、ラッキーだったのは左ハンドルじゃなかったことだった。いや、どうかな、左ハンドルだったら、慣れていないという理由を大きく掲げて、運転をしないでいられたかもしれない。  でも、そしたら敦之さんが一人で運転をするわけだから、それはちょっと大変だし。でもやっぱりこの車を運転するのは、しかも高速では少し怖くて。 「あそこのパーキングに寄ろう」 「あ、はい」 「ここのクロワッサンはすごく美味しいんだ」 「へぇ、そうなんですか?」 「出張でよく立ち寄る」  指差した先には大きなパーキングまでの距離が表示されていた。レストランのマークにガソリンスタンド、銀行ATMにコンビニ、なんでも揃っていそうだった。 「実は、旅行って初めてなんだ」 「え?」 「恋人との旅行は」 「……」  敦之さんはずっと恋人を作らないでいた。どうせ……きっと……別れてしまうからと。 「どこかに行きたいとかもなかったしね」 「……」 「全国各地を華道家として飛び回ったりもするせいか、あまり特別、楽しいことでもなくて」 「……」 「でも、今は楽しみだ」 「俺も、です」  こんな気持ちだったのかな。俺が、ファーストキスを雑に拭い取られたと話した時、敦之さんはこんな気持ちだったんだろうか。 「俺も、すごく楽しみです。あ! あと、それに!」 「?」  恋人との旅行が初めてだと笑う貴方を、優しく、すごく優しく甘やかして、大事に大事にしてあげたい。 「敦之さんの初めてを俺ももらえました」  俺がそう呟くと、運転中で前を見続けている敦之さんが、窓は閉め切っているはずなのに小さな風でも受けたようにほんの少し背筋を伸ばして、そして、またリラックスした姿勢になりながら、「……あぁ」と小さく返事をした。 「そうだね」  優しい声で、そう答えて、車をパーキングへと入っていくためにスピードをゆっくり、少しずつ、落としていった。  大丈夫大丈夫。 「そ、それではいきますよ!」 「大丈夫だよ」 「はい!」 「チョコクロワッサン、美味しかったな」 「はい!」 「リラックスして」 「は、ひゃいい!」 「拓馬、可愛いな」 「いえ、そんなことは!」  そんな会話をしながら、不慣れな車で走り出す。 「シートベルトしててくださいね」 「大丈夫だよ」  前方確認、後方確認。 「うわ……高級ハンドル」 「ハンドルにそんなに違いがある?」 「もう持った感じからして違いますから!」 「なるほど」  そして走り出す。貴方と半分こ。運転も、それから。 「い、行きますね!」  苦労も、悲しいことも、楽しいことも、嬉しいことも。ちゃんと、半分こで、貴方の隣に居続けようと、そっとそっと、ペダルを踏み、走り出した。

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