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新居編 4 自惚れ屋

「ぅ、うーん……ぅーん」  どれもいいんだけど……でもなぁ。高い。とにかく……高い。いや、夏はボーナスゼロだったんだから、冬出たらラッキーなわけで。そしたらそのラッキーなボーナスがそもそもなかったって思えばいいわけなんだけど。でも、そもそものそもそも、ボーナス出るのかな。本当に。  確かにほんの少しは利益のある仕事取れたけど、でも、その利益をちゃんと社員に還元する経営者かどうかが疑わしいというか。 「うーん……」 「何を唸ってるんです? 目を開けたまま眠っていびきでもかいてるんです?」 「あ……雪隆さん」  顔を上げると整ったアーモンド形の瞳を細め、こっちを訝しむように見つめる雪隆さんがいた。たまに敦之さんがからかって顔を真似る、雪隆さんのよくやる表情だ。細身の黒のスーツがよく似合う彼が手に腰を当て、目の前に立っていると、まるでモデルさんみたいで見惚れてしまう。さすが、敦之さんの弟さんだなぁって。 「こんにちは。ホテルまでわざわざいらしてくださったのに、申し訳ありません。兄ならまだ当分こちらには来れないと思いますよ」 「あ、はい」 「どうやら今日は当主を愛しい人のところにお届けする手間が省けましたね」 「い、いとっ」  今日は、ホテルでのお仕事だったから、久しぶりに外食でもしようかって誘ってもらったんだ。ここのホテルのレストラン、俺が前に雑誌で見つけて、こんなお洒落なケーキ、どんな味なんだろうって呟いたのを覚えていてくれて。  ピカピカに磨いたようなブラックチョコレートで覆われたケーキの上には、多分チョコレートクリームでできているんだろう、敦之さんの好きな淡いピンク色の薔薇が花びらを広げたように咲いていて、その真ん中に果物が置いてある。それから同じブラックチョコレートでできた蝶々がその花のまわりを飛ぶようにくっついてて、食べるのがもったいないなぁって思った。  それを食べようと誘ってもらったんだ。 「あ、でも、そしたら、雪隆さんも早くデートができますか?」 「なっ! で、デートなんて」 「環さんと」 「! し、しませんっ」  いっつもツーンとしていて、いつも不機嫌そうにしているけれど、夜の間眠るために閉ざした花びらのような唇をぎゅっと真一文字に結んで、真っ赤になってしまった。最初の頃は嫌われているんだろうと思ったけれど。最近ではそうでもないかなぁ……なんて思ってたりする。なんて、本人に言ったら、ものすごい勢いで否定されるんだろうけど。 「デート、じゃないんですか? でも、敦之さんが言ってました。今日の帰りの交通手段をしつこく聞いてくるから多分、デートなんだって」 「あの人は……すぐそうやってペラペラと」  あ、今度は怖い顔になってしまった。でも、真っ赤なまま。 「デートなんかじゃないです。ただあの人が今体調不良なので、見に行ってからかってやろうと思ってるだけです」 「風邪引いちゃったんですか? 心配ですね」 「ち、違っ、貴方、人の話聞いてました? 私はっ」  聞いてました。敦之さんから。ソワソワと移動の時に薬局に向かっていった雪隆さんのことを。 「私のことはいいんですっ、それで? 何を唸ってたんです?」 「あ、いえ、その……炬燵を」 「炬燵?」  そうだった。俺は炬燵を見てて。 「敦之さんが使ったことがないっていうから、プレゼントしようかなって。クリスマスの」 「また……払えるんですか? 安月給なのに」 「やすっ…………まぁ、安いですけど……」  えへへ、って苦笑いを溢す俺をじっと見つめて、じーっと見つめて、それから溜め息を一つ吐いた。 「一応、余計なことですが……兄の部屋は全て床暖房が敷かれているので、炬燵なんていらないです」  あ、そうかも。お邪魔するといつも暖かくて心地よかった。 「そっか……そうですよね……」 「たまに、鈍いですよね」 「え?」 「一緒に住めばいいじゃないですか」 「は? え? あの、なんで、急にその話にっ」  今度は俺が真っ赤になってしまったんだろう。ほら、雪隆さんが反撃ができたって勝ち誇った笑みをそのキュッと結んでいた唇に見せた。 「その時は引っ越し祝いに何か差し上げますよ」 「い、いや、それはちょっと難しいかなって」 「なんでです?」 「だって、俺の通ってる会社、工業地帯で」 「えぇ」 「敦之さんの仕事を考えたら、今みたいに都会の駅に近い方がいいでしょ? けど、一緒に住むってなったら、絶対に敦之さんは俺の楽な方で、自分が苦労する方を喜んで選んでしまうから」 「なるほど」  自分の不都合なんてきっとあの人は気にしない。俺の不都合がひとつもないようにしてくれてしまう。けどそんなの申し訳ない。 「本当、鈍いですね」 「え?」 「兄の一番大事なものなんてわかるでしょうに」 「……」 「でも、まぁ、住む世界が違うから、とか、分不相応だとかくだらない理由でないので、いいですけど。そろそろ、こちらに来れるんじゃないですか?」 「ぇ?」  雪隆さんがぎゅっと掴んだら折れてしまいそうな細い手首にある時計を見た。 「拓馬!」  まるで預言者のようだ。雪隆さんが教えてくれた通り、その直後、敦之さんがこっちへ手を振りながら、颯爽と現れた。 「拓馬!」  ――兄の一番大事なものなんて。  わかってる……とか、くすぐったいよ。 「待たせた」 「……いえ」 「そうです。お待たせしていたので僕がお相手をしていました」 「ありがとう、雪隆」 「どういたしまして」  ペコリと頭を下げると雪隆さんは歩いて行ってしまった。少し、急足だったのは多分、この後向かう人のため、なんだろう。 「じゃあ、俺たちも行こうか、拓馬」 「あ、はい」  ――大事なものなんてわかるでしょうに。  うん……わかってる。わかっちゃってる。自惚れみたいで、世界中の人に笑われるかもしれないけれど、俺は知ってるんだ。 「敦之さん」 「?」 「お疲れ様でした」 「……」  この人が一番大事にしているのは俺だって。 「あぁ、ありがとう」  この笑顔を見れば、わかってしまうんだ。

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