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浴衣旅行編 6 コーヒーピクニック

 敦之さんは毎朝、起きてすぐ、俺にキスをくれる。おでこだったり肩だったり、そっと優しく俺に唇で触れてから、ベッドを出て、まず最初にスマホを確認する。仕事の連絡が急に入っている場合があるから。一日の予定が変更になったりしてないか、雪隆さんからの連絡がないかを確認するんだ。朝、目覚めた瞬間から、もう上条家の当主としての一日が始まる。  起きてから出勤するまで寝ぼけてたっていられるサラリーマンの俺とは大違い。  そして、敦之さんは連絡の確認を終えると、キッチンでコーヒーを飲んで。タブレットで何かしてる。もう仕事が始まってるんだ。今は生花上条家の会報に載せる記事を書いてるって言ってた。文章はちょっと苦手なんだって苦笑いをこぼしてたけど、そんなことない。俺より全然上手。  俺は一緒に、ちょっとだけノロいけれど、起きて来て、敦之さんが淹れてくれたコーヒーをいただきながら目が覚めるのを待つ感じ。  それが毎朝のルーティーン。 「うーん……」  目が覚めると、いつもと違う日差しの入り方。違うベッド。違う照明。違う天井。  まだ寝ぼけてる俺は、あぁ、そうだ、昨日から旅行に来てるんだった……って、そこで思い出して、のそりと起き上がって、敦之さんを追いかけるようにベッドを出た……んだけど。 「あの……」 「あぁ、拓馬、おはよう」 「おはようござい、ます」  キッチンのところで唸っていた敦之さんが俺に微笑んで、おでこにキスをくれた。 「どうかしたんですか?」 「いや、コーヒーを淹れようと思ったんだが、ポットがよくわからない」 「ポット……」 「電源コードが見当たらないんだ」  ポットに電源……。 「あ、これじゃないですか? 台座のところに収納されてます」 「なるほど」  見るとポットを置く台座のところに電源コードが収納されていた。その先端を摘んで引っ張るとシュルシュルと電源コードが出てきてくれる。 「さすが拓馬」  そう褒められて、子どもみたいに笑ってくれた。 「俺は機械に疎い」  うん。敦之さんは機械が少し苦手。俺の方がそこは、いや、そこくらいしか、だけれど、得意、かもしれない。  雪隆さんも少し機械が苦手だったっけ。スマホとかタブレットとかは二人とも日々使うから大丈夫だけれど、それ以外は少し手間取る。 「今、コーヒーを淹れるから」 「あ! 俺、やります! って、やってくれるのはコーヒーメーカーですけど」  うちにあるのとはちょっと違うコーヒーメーカー。コポコポと楽しげな音を立てて湯の滴がコーヒーの中に沈んでいく。 「ど、どうぞ」 「ありがとう」  敦之さんはブラックで飲むんだ。けど、俺にはちょっと苦いから、ミルクを追加。 「美味しいですね……」 「拓馬が淹れてくれたからね」 「コーヒー豆がいいんです。でも、あ、ありがとうございます。そしたら、毎日俺が」 「そこは俺が拓馬の世話を焼きたいからダメ」  そんなことを言われて真っ赤になる俺を見て敦之さんはまたちょっと笑って、コーヒーを一口。  いつもと違う朝だ。 「……外、今日も天気良さそうだね」  外へ視線を向ければ、マンションから見える青空じゃなくて、窓から裸足で外に出たら気持ち良さそうな緑が溢れてる。 「あっちでコーヒーを飲もうか」 「え?」  同じこと、考えてたのかな。 「おいで、拓馬」 「え? あの」  コーヒーを片手に持ちながら手を引かれて、窓から外へ出ると広縁を通って、テラスも越えて、そのまま裸足で川の淵へと腰を下ろした。 「ピクニックみたいだろ?」  パンツの裾を折って、水へと足をつける敦之さんはまるで少年みたいだった。昨日の色っぽい浴衣姿とは全然違っている。それにこんなラフな格好をしてるのもすごく珍しい。 「少し冷たいな」 「でも、気持ちいいです」 「そう? ならよかった」  部屋と部屋の間を流れている川は綺麗な水音を奏でながら何処かへと流れてく。素足をその水につけると少し冷たくて、なんだか特別な場所で飲むコーヒーの温かさが際立って。  不思議。  静かに時間が流れるのを感じながら朝のコーヒー。  いつもと違う。  朝起きてすぐスマホで仕事の連絡がないか確認しない。  タブレットで会報用の記事の続きも執筆しない。  朝、起きた瞬間から上条家当主の敦之さん、じゃない。 「今日は少し出かけたいんだ」 「あ、はい」  こんなすごい宿に泊まって、贅沢すぎる時間をもらってるのに、なんてバチ当たりな、って神様と敦之さんのファンに叱られてしまいそうだけれど。  こんなふうに過ごせるだけでも、すごいことなんだけど、でもやっぱり思ってしまう。  もっとここにいたいなぁって。  こんなふうに敦之さんを独り占めできたらなぁって。 「付き合ってくれる?」 「もちろんです。あ、買い物、とかですか?」  そして。 「内緒」  思ってしまった。 「えー? どこに行くんですか? 買い物、あ、来る途中にアウトレットあったから、そこ?」 「内緒だよ」 「えー、どこだろ」  ここに敦之さんと以前来た誰かも、そんなこと、きっと思ったんだろうなぁって。  今日一日がすごく長く延びないかなって。  明日が来なかったらいいのになぁって。  楽しそうに今日一日のことを考えながら笑うこの人の隣でそんなことを考えていた。

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