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花の王子が行く編 4 いつでも溺愛

 ――突然、言い出したんですよ。町内会で開催しているような釣りの体験会に参加したいって。  びっくり、した。  ――良いと思いますよ、体験、経験は創作意欲を向上させますから。  あの、でも、それがたとえば、もっと何か芸術的なら、そうかもしれないけど。ただの町内会イベントだよ?  ただの釣り大会だよ?  ――引率、すみませんがよろしくお願いします。  引率って、まるで先生が子どもを連れてどこか遠足へ行く時みたい。  けれど、そう言って電話を切る時の雪隆さんが、にっこり微笑んでいるのが想像できた。微笑ましい、のじゃなくて、手がかかる兄の面倒をみなくてよくなったって思ってこぼれた笑顔、みたいな。  それにしても。 「…………はぁ」  もぉ、敦之さんってば。 「はぁぁ」  きっと、そう。俺が釣りとても楽しかったって、そこで釣って食べた小魚の唐揚げがとても美味しかったって、そう言ったからだ。  楽しそうだって笑ってた。  素敵だねって言ってくれた。  美味しそうって。 「……」  くすぐったい。  全部を捧げてくれるんだ。優しさも、誠実さも、気持ちも、心も、時間も。俺みたいなちっぽけで、どこにでもいるような普通のサラリーマンなんかに。  それがとてもくすぐったくて、嬉しくて、幸せで、たまらなくて。 「あ、お疲れ様でーす。小野池さん、こんなところで何してるんすか?」 「ぁ、立花くん」 「外暑いっすねぇ。暑すぎて食欲ないからさっぱりしたもの食おうって外出たんすけど、行きと帰りだけで汗だくになるんで、むしろ余計にバテた」  そう言いながら、作業服の中に風を送り込もうと、胸元の辺りをパタパタと仰いでいる。 「…………」 「? 立花くん?」  そしてまだ引かない汗をどうにか収めようとしつつ、じぃぃっと俺の方を見つめてる。 「彼氏さんと電話すか?」 「! ぇっ、違っ、これは、違う、人っ」  ニヤリと笑われた。 「そうなんすか? だって、真っ赤になって、なんか嬉しそうだったから、今日の帰り、デートなのかなぁって」 「ちがっ!」  そんなに真っ赤、だったかな。 「あははは、そんじゃ、お疲れーっす」 「お、お疲れ様、ですっ」  そんなに嬉しそう、だったかな。  顔、熱かったけど。  嬉しかったけど。  だって、本当に王子様なのに。本物の王子様なのに。俺に寄り添ってくれる。一番近く隣に、来てくれる。豪華なお屋敷の階段を笑顔で降りて、高級革靴だって脱いで、僕の隣に裸足で歩み寄ってくれる。それが嬉しくてたまらなかったから。電話で彼の声を聞いた訳でも、彼とこの後デートの約束をしたわけでもないけれど、いつでも大事にされているって実感するから。  ―― 張り切って高価なものなど買わないように。  釣り竿、いらないんだっけ。本当に張り切って、驚くような値段のプロ仕様のものとか買ってきちゃいそうだから。 「言っておかなくちゃ」  今日帰ったら、釣りのこと、話さなくちゃ。きっと、すごく嬉しそうな顔をしてくれるから。 「さて、午後も頑張ろう」  貴方が嬉しそうにするところが見られるって、素敵な楽しみが増えたから、午後も張り切って、少しでも早く帰れるようにと、デスクに戻った。その足取りは、少し前、彼に出会うまでの俺なら絶対にあり得なかった足取りの軽さで、晴れやかさで、楽しそうだった。 「釣り、できるって?」 「はい」  ただの町内会の釣り体験だよ?  どこか広大な海で船で釣りをするわけでもなくて、クルージングとかをするわけでもなくて、高い高性能の釣り道具なんて持ってなくてもいい。河原でやるような、小さな釣りイベントだよ? 「それはよかったっ!」  けれど、敦之さんは笑ってしまうくらいに嬉しそうにしてくれる。 「あ、あの、頼んだんですか? その釣り、雪隆さんに」 「……そうなんだ」  そこで急に、パッと華やいでいた敦之さんの表情が曇った。本当は内緒にしていたかったんだけどって、しょんぼりとしている。 「雪隆さん、おやすみの日だったのに手配してくれたので」 「そうだね。仕方ない。今日は講演会があったから、電話出られなかったし。けれど、そうか。よかった。釣り行けるのなら」  そしてまたパッと華やいで、大袈裟ですって笑ってしまいそうになるくらい嬉しそうにしてる。 「あ、そうだ。釣竿はいらないそうです」 「え?」 「向こうで用意してくれるので、持参しないようにって雪隆さんが教えてくれました」 「えぇ、でも」 「俺が子どもの時もそうでしたよ」  子どもみたい。  雪隆さんなら、「みたい、じゃなくて本当に子どもなんです」って言いそうだけれど。  無邪気で率直で、そして、真っ直ぐで。 「確か、その時使った釣竿いただけました」  全部を捧げてくれるんだ。 「じゃあ、そうだね。余計なことになるところだった。もしも釣り体験に参加できないようだったら二人で行ってみたらいいと道具を一式揃えようと思ってたんだ」 「えぇ?」  優しさも、誠実さも、気持ちも、心も、時間も。 「大丈夫ですよ。気軽な体験だったの、覚えてます」 「そうか」  俺みたいなちっぽけで、どこにでもいるような普通のサラリーマンに。 「楽しみ、ですか?」 「もちろんっ」  それがとてもくすぐったくて。 「俺も、楽しみです」  嬉しくて、幸せで、たまらなくて、自然と口元がいつだって、貴方のおかげで緩んじゃうんだ。

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