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2-1 親友:篠宮晃
必要最低限のものしか置いていない殺風景な部屋で、鷲尾は目を覚ました。仮住まいのマンションの一室である。
鳴る前の時計のアラームを切り、鷲尾は機械のようにベッドから起き上がると、カーテンも開けずに真っ先にシャワーを浴びた。
そうして、あらかじめ買っておいた携行食で手早く朝食を済ませ、一糸の乱れもないインディゴブルーのスーツを着る。
今朝もいつものように表向きの仕事に出勤せねばならないのである。裏の仕事だけをして生きていくこともまったく考えなかった訳ではないが、長期的に見れば飽きも早いだろうと判断したのだ。
既に亡くなってはいるが、霧島蔵之助 の元入院先であり、八代の実家とも言える病院も近い地だ。
八代の遺児であり、正真正銘霧島家とも血の繋がりのある現オーナー見習い、霧島想悟 のサポートに力を注いでいた際は、その利便性から近くに居住地を構えることを選んだ。仕事のたびに転々としているので、ここもそう遠くない内に出て行くだろう。だから人並みの生活はいらない。
それでも一応住んでいるのは、世間的に「普通のサラリーマン」を装う為だ。ただそれだけの為に毎月相応の家賃を払っているが、他に金を使う当てもないのでさして苦痛ではない。
その後はてきぱきと掃除をした。指紋を拭き取り、髪の毛や埃の一つも落ちていないかよく目を凝らして観察する。クラブに深く関わる者として、ここで生活していた証は一切残してはならない。それが鷲尾の異常とも見える日課だった。
鷲尾は最後に、玄関の前に置いてある姿見の前でネクタイに崩れがないかしっかりと確認した。そして、鏡の中の猛禽類のように凛々しい黒目がちな瞳と視線が合う。
父親と母親の良い部分だけを貰ったような整った顔のパーツはよく女に持て囃される。日焼けを好まないので色は白く、細身でもあるから、男からはもう少し健康的でも良いのではと言われることがある。
自慢のセミロングの直毛は今の会社に入る際にばっさりと切って短くしたが、これはこれで現在の立場や己のビジュアルに似合うと満足している。
自然と口角が上がる。奥二重であるから、笑うと目尻が垂れ下がり、どうにも赤ん坊のような屈託のない笑顔になる。これを嫌味に感じる人間は被害妄想同然に警戒心の強い者か、性根の歪みきった者くらいであろう。
今日も今日とて、我ながらいい男だ。
そんな風にたっぷり自己に陶酔しつつ、鷲尾は異様なほどに生活感のない部屋を後にした。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街。自宅マンションのある最寄駅から私鉄で二十分、乗り換えがスムーズな際は十分程度の場所に、現在の鷲尾の勤める会社はあった。
篠宮グループが中心となる 煌成堂 は、クラブの息のかかった医薬・化粧品等の日用品を扱っている大手メーカーである。戦前からの家族経営に始まり、現在は数万人規模の社員を抱える誰もが知る有名企業だ。
正確に言えば、ここの篠宮社長は元クラブ会員だ。
ある事情から現在はクラブから除名処分となった人間であるが、以来、クラブとの関係やあそこで見聞きした全てを外に漏らさないか、四六時中監視されている。その監視役の一人というのが、鷲尾であった。
「おっはよーうっ!」
「いてっ」
ロビー前に立っていた鷲尾の背中を鞄で叩きながら派手な挨拶をしてきたのは、同い年の同僚、篠宮晃 だった。
苗字からわかる通りに、彼は創業者の末裔であり、現社長の令息。幼い頃から甘やかされて育った生粋の御曹司である。
鷲尾は軽く舌打ちをしながら、礼儀のなっていない友人にも屈託のない笑顔を向ける。舌打ちも社会人として無礼極まりない行為だが、彼はそのくらいは気付かない鈍い人間なのだ。鷲尾ももう慣れっこである。
「……おはようございます、篠宮さん。今日もお元気ですね」
「そりゃあこの快晴だからね。もう朝から元気爆発だよ。怜仁くんも機嫌が良さそうで何よりだなぁ。さぁて、今日も一日頑張りますか!」
泣きボクロが印象的なキリリとした目を輝かせ、上下をその身に似合わない高価なイタリア製スーツで着飾った晃は、ぐっと伸びをしながらやる気満々に言った。見ている方が疲れるほどのポジティブシンキングである。
そんな晃を見ていると、鷲尾は何故自分がこのような男と同じ会社に勤めなくてはいけないのかという苛々と共に、しかしいつかその鼻っ柱をへし折ってやりたいと歪んだ気持ちにもなった。
表向きには、鷲尾は広告代理店からの転職組ということになっている。無論、実際の実力も晃とは比べものにならないが、目立ち過ぎても困るので、今のところは鳴りを潜めている。
一方、幼稚園からエスカレーター式に大学まで進学することのできる有名私立校を卒業している晃は、はっきり言ってコネ入社だ。そんな彼がよくもこうしてビジネスマンをやれているかと思う鷲尾だった。
口だけは達者であるから、丁寧な作業が命である技術職にはまず向いていない、その点営業職は下積みとしても良いのではないかと、きっと社長からも打診があったのだろう。
「ところで。怜仁くん、ではなくて、鷲尾さん、ね」
「もう慣れちゃったから今さら苗字で呼ぶのは難しいよ。なんか気恥ずかしいしさ。僕のことも名前でいいってずっと言ってるのに」
「俺のこの口調も癖なので気にしないでくださいよ。それより篠宮さん、昨日散々終わらないと駄々をこねていた書類は結局どうなったんですか?」
「あっ! うん、できたよ! いやー、実はかなりギリギリだったんだけど、なんとか終わらせた自分を褒めてあげたいよ」
「よしよし、よくできました。それでこそ俺の親友ですね」
さながらペットにするように頭を撫でながら、何の心もこもっていない偽りの台詞を吐いただけで、晃は馬鹿正直にパッと顔を明るくする。
晃は鷲尾を勝手に親友と思い込んでいる。というのも、社長の令息としてわがまま放題に育ってきた彼は、二十六歳とは思えない稚拙な人間だ。それは仕事にもおけるもので、他人に迷惑を掛けることも多い、いわゆる甘ちゃんのボンボンそのものだ。
そういった意味で陰で悪口を言われたり、そっけない態度をとられていることも日常茶飯事であり、そんな時に表面上は丁寧である鷲尾は彼にとって初めて真摯に接してくれた男という訳だ。
もっとも、本当のところは鷲尾も周りと同じ、いいやそれ以上に晃のことを馬鹿にしているのだが。
雑談をしながら目的のフロアへ向かう。二人が属しているのは化粧品部門の営業だ。その仕事柄多く働いている女性社員達が、忙しい朝に急いで化粧を施した顔を輝かせる。
「おっはよー皆! 今日も抜群に綺麗だね!」
晃はプレイボーイ気取りで当然のように笑顔を振りまくが、そのほとんどは鷲尾に向けたものであるとはどうにも気付いていない。
「篠宮くん、挨拶は朝礼でやるから。ちょっと静かにしていてくれるかな」
「課長ってばまたまたお堅いんだからー。あ、どうでした、息子さんの体育祭」
「いやだから……まあ、それは後で個人的に話すよ」
「すみません。課長。私語が過ぎる件に関しては俺からきつく言っておきますので」
「鷲尾くん、悪いね……研修も篠宮くんが相手じゃあ、やりづらかったろうに」
「いえ。特殊な経験ではありましたが、俺は仕事ができれば何の問題もありませんから」
課長も、社長の愛息子にはあまり強くは言えないしがない中間管理職。上司さえ扱いに困る彼を操っている、いや手のひらで転がしているのは中途の鷲尾という皮肉。
そのくせ、晃の左手の薬指に鎮座する銀色の結婚指輪をひけらかすようにする仕草も、女性にも男性にも疎まれる原因であった。
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