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8-1 ※鷲尾×美波

 ある週末の日、鷲尾が自宅で過ごしていると、ふいに私用の携帯が鳴った。  ディスプレイを覗けば、美波薫雄の名。互いに何かあればすぐに話を聞けるようにと、連絡先を交換したものだ。  鷲尾が電話に出ると、美波の相変わらずのハキハキとした声が聞こえてくる。 『あ、鷲尾さんですか? 美波です、今お時間よろしいですか?』 「美波さん。どうされたんですか?」 『えへへ。用っていう用はないんですけど、ちょっと近くまで来たもので。今、鷲尾さんちのマンションの前に居るんです』  用がないのなら来るな、と言いたい鷲尾であるが、こうした巡回も刑事の立派な仕事である。 『少しだけそちらにお邪魔してもよろしいですか? お時間は取らせませんから』  それには、鷲尾は少し言い淀んだ。  今の己が居るのは、見渡す限り物の少ない、フローリングの方が目立つような部屋。明らかに普通の人間の家ではない。刑事の美波に見られれば強く印象づいてしまうことだろう。  面倒事は避けたい為に、会うのはいつも公衆の面前のみだった。 「……うーん、でも、今は部屋が片付いていなくて。ああそうだ、今日はこんなに良い天気ですから、外に出て散歩でもしましょうよ」  幸いにも、その提案に美波は乗って来た。  鷲尾は軽い外出の準備をしてからエントランスに降りていった。  マンション近くの自販機で飲み物を買って待っていた美波は、私服姿の鷲尾を見てほんのり頬を染めた。  小綺麗なVネックセーターを着た鷲尾は、美波がいつも見るかっちりとしたスーツ姿の鷲尾とは一味違っていた。  手足の長い長身の彼がさらにスタイル良く見え、とても凄惨な過去を背負っているとは思えない、垢抜けた二十六歳の青年という感じで、見惚れてしまったのだった。  美波はホットコーヒーを鷲尾に差し出し、自分はホットミルクティーを開けて一口飲んだ。 「ありがとうございます」 「いいえっ。……な、なんか、鷲尾さん、私服だとちょっと印象違いますね。いつもはスーツが多かったので」 「そうですか?」 「はい、あ、あの、その、モデルさんみたいに似合ってて、びっくりです」 「はぁ。それはどうも」  美波はしどろもどろだった。今日はなんだか目線を合わせられていない。  刑事と過去の事件の被害者遺族という特殊な関係の仲、何故だか鷲尾のことを根掘り葉掘り知っている気分になっていた。けれども、実際はこうして鷲尾の私服姿すら知らなかったのだ。  鷲尾の新たな一面を知れたことが嬉しく、しかし気恥ずかしくもあり、美波は紅潮する頬を手で仰いだ。  人の良い笑みの内側に限りない無の表情を隠す鷲尾に対し、美波はというと、半ばデート気分だった。快晴の空の下、鷲尾と二人並んで互いに近況を話し合いながら、紅葉で色づく並木道を歩く。同性同士ということを除いても、爽やかで恋人同士の散歩コースにもうってつけな光景だった。  鷲尾に好意を抱いている美波としてはついつい、距離も近くなってしまうというものだ。そのまま腕組みでもしてきそうなくらいの距離にまで来る。  それを鷲尾に咳払いされると、美波はうわぁっと恥ずかしそうに叫んだ。恋愛においてはなんともわかりやすい、中学生のような反応だった。  照れ隠しに散歩中の犬と戯れた際は、彼自身動物慣れしているせいかやけに嬉しそうに舐められていて、飼い主も「よそ様にいつもこんなに懐かないのに」と笑っていた。  鷲尾はペットでも本能的にわかるものがあるのだろうか、吠えられそうになったので、そのほのぼのとした様子を近くで見ていた。 「そういえば、美波さんのご実家でもダックスを飼われていたんでしたっけ」 「そうなんですよ、もうおじいちゃんなんですけどね。あの短足でちょこちょこ歩くのが可愛いからって、姉ちゃんがチョコって命名したんですよ」 「そうですか、お姉さんが」  自ら姉の存在を口に出したというのに、美波は一瞬気まずそうな表情になった。しかし、そこは職業柄か、次にはもういつもの爽やかな笑みを浮かべてなかったことにする。 「良いお姉さんだったんですね」 「……はい。とっても!」  そう言う鷲尾の観察するような鋭い瞳には気付いていない。それは途中でベンチに座ってからも同様で、美波はあまり鷲尾の顔を見れずにいた。 「そうかぁ。それじゃ鷲尾さん、今お仕事は順調なんですね」 「ええ、ありがたいことに。……そういう訳で、心配してくださるのは嬉しいのですが、俺の方は全く変わりはありませんよ。むしろ……俺なんかの為に、美波さんの仕事を増やしてしまっていることが……なんだか申し訳なくて」 「そんな……! 良いんですよ。本当はね……退職前の山内さんに、鷲尾さんが心配だって言われたんです。だから俺も一度あなたと会ってみて……けど、今は俺の意思で、鷲尾さんの事件を追いかけたくて。俺なんか、なんて悲しいこと言わないでくださいよ……」 「でも……せめてもと大学で学んでも、あの事件は何もわからなかった。俺の人生には何の価値もなかったんです。どうせなら、その道のプロになれば良かったかな」 「今からでも間に合いそうなのに」 「もうアラサーですし」 「もう、って、はあぁ!? 二十六歳が何を言ってるんですか! 若さが憎い!」  たった二歳でも、年上の美波はまるで親戚のお兄さんか何かのようになったつもりで呆れていた。見た目と実年齢が伴わない彼は、人よりもコンプレックスに感じているのだろう。  それに小さく笑みをこぼしてやると、美波も同じく笑う。 「……やっぱり鷲尾さんには笑顔が似合いますよ。鷲尾さんがこれからより良い人生を歩むことができるように、俺も頑張りま……あれっ」  天を見上げた美波の顔に、ぽたり、と一滴の滴が落ちる。そこから、連続してぽつぽつと水滴が落ちてきた。  今日の天気予報では、午後から所によっては通り雨が降るかもしれないと言っていた。  拓けた公園内では雨宿りするような場所もなく、繁華街の方に出る頃には、二人はすっかりずぶ濡れになってしまった。  美波に至ってはスーツであることもあり、中のシャツが肌にまとわりついてかなり気持ち悪そうにしていた。  ひとまずビニール傘と着替えを買ったはいいが、思いがけない土砂降りに、街中を行く人々も困惑している。 「うえぇ……どうしよう、こんなに凄い雨じゃまだ動けそうにないし……よしっ、こうなったらまたダッシュで鷲尾さんを見送って、っと」  どうにも男としてのガッツを見せようとする美波。  鷲尾は今にも駆け出してしまいそうな犬のリードを引くように、彼の腕を掴む。 「通り雨ですから、もうじきすれば止みますよ。それよりも早く着替えないと風邪を引きますね。どこかで……ああ、あそこならちょうどシャワーも浴びられますが、どうします?」  そう言って鷲尾が指差したのは、少々年季の入ったビジネスホテルだった。  そこのオーナーはクラブ会員で、互いに奴隷堕ちした人間に客を取らせたり、裏ビデオの撮影にと部屋を貸したりしている。無論、鷲尾も仕事でよく利用している場所だ。  もっとも、外観は世間一般が想像するホテルに他ならないので、まさか中でそのようなことが起こっているとは外からでは絶対にわからない。 「……な……い、いえ、俺は車に戻ればどうにでもなるので!」  それにはさすがの美波も赤面した。こうして並んでいるだけでも恥ずかしいというのに、鷲尾とホテルに入る展開までは予想の範疇を超えている。  しかし鷲尾が「俺が外に連れ出したせいで濡れてしまった……」と申し訳なさそうな顔をするもので、美波は余計に断りづらくなってしまう。  あまり乗り気でない美波だったのだが、冬に向かう肌寒い天候に一つくしゃみをしてしまうと、早くシャワーを浴びたいという気持ちにすり替わっていく。 「事件の話も、それ以外も……もっとたくさんしたいです」 「うぅ……」  それに、既に真鍋の件がある。もはやこの程度の不祥事くらい、彼にとっては屁でもないのかもしれない。  鷲尾の計画の始まりだとは思いもせず、一休みするだけという口実で、二人でホテルの部屋に入っていった。

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