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「はぁーあ! 気持ち良かった!」
事が終わるや否や、美波は何食わぬ顔で伸びをする。
美波も最近は鷲尾で性欲処理をできているせいか、いつにも増して晴れやかな笑みを湛えている。さらに偽りの恋心も加わって、美波の人生は今まさに薔薇色といったところだろう。
洗面所で洗った手をハンカチで拭きながらそんな美波を眺めている鷲尾も、さすがに呆れ顔だ。
「あなた性格変わりました?」
「えっ、なんでですか! というか鷲尾さんこそ、いつもは優しいのにプレイになると激しいんだから……でへへ」
鼻の下を伸ばした美波が腕を組んで擦り寄ってくる。
「こんなところであんまりくっつかないでくださいよ」
「あれ、え? 照れてる? うわー、鷲尾さんが照れてる! 可愛いなぁ!」
「そこまでされると鬱陶しいので」
「ぐはぁ! 冷たい! まあそんなところも好きですけどね!」
無理やり引き剥がされて美波は残念そうな顔になる。
本気で面倒くさいからそうしたのであるが、美波からすればそんな鷲尾の一見冷たそうな部分も、親密な仲にならなければ絶対に見られない態度なのだと思うと、特別感すらあるらしい。
すぐに開き直って、その童顔に似合う満面の笑みを向けた。
「……鷲尾さん。もし寂しかったら、これからはずっと、俺の傍に居てくれて構わないんですからね」
「それは……どういう」
「あの……だから、その。あなたさえ良ければ、俺と一緒に住みませんか、っていう……。俺、家事とかあんまりできないかもですけど、やっぱり誰かが待っている場所に帰る安心感みたいなのって大事だと思うんです」
こんな時ばかり年上の余裕を持ち出してくる美波。いや……それだけではない。鷲尾は彼の言葉の中に違和感を生じ、その意味を思案する。
すっかり鷲尾に惚れ込んでいる美波であるが、未だ鷲尾への疑いを完全に払拭しきれてはいないだろう。
だからこそだ。「俺が傍にいれば大丈夫」とか、「俺が彼を変えてみせる」だとか、高尚な考えでもって接している。
さらに同居するなどして一緒にいる時間が増えれば、ある程度は監視下に置ける。まったくおめでたすぎる思考回路だ。
寂しくて、傍にいてほしくて、変わりたいのは、きっと美波の方だというのに。
「今の美波さん、すごく年上っぽいです」
「これぞ年の功! ってそりゃそうですよ。た、確かに俺は童顔かもしれないですけどねぇ、」
「いえ、普段が可愛いので男気溢れる様に感動していたんです」
「……よ、よせやい照れるな」
「前向きに検討させていただきます」
「わあぁ! ぜひ!!」
美波薫雄。不器用ながらも正義感溢れる若き熱血漢の刑事。
けれど鷲尾と美波の間にはそれだけではない因縁がある。そのことを、彼は知らない。まだ教える必要もない。
彼にそれを教えるのは、未来永劫別れの時である。
近頃行われていた美波との密会に、水を差す人物はすぐに現れた。
「最近どうも楽しくやってるみたいですね、鷲尾さん」
会社帰りの帰路で、あのいけ好かない記者の真鍋が待ち構えていた。
尾けていた、というよりは、必ず鷲尾が現れるであろうルートを絞って待ち伏せしていたのだ。この男もなかなか執拗な性格のようである。
「それはどういう意味でしょう?」
「さあ? それはあなたが一番よく知ってるんじゃあないですか」
恐らく真鍋は、美波が鷲尾と深い関係を持ったことに気付いている。
自身の恥ずかしいことだってさらさなければならないのだから、美波がこの秘密の関係をばらすことはないにせよ、真鍋の情報網であれば疑惑だけでも出ることだろう。
それに、あの美波が本当に隠し通せるかどうか。恋人ができればすぐに顔に出たり、周りに惚気てしまいそうなタイプだ。
鷲尾はいったい何の話かというように、少しムッとした表情で真鍋を咎める。
「身に覚えがありませんね。それだけを言いに来たなら俺はもう失礼しますよ」
「……ふん、そうかい。なら安心しましたよ、最近は夜遊びもしなくなったみたいですしねぇ」
その言葉を聞いた途端、鷲尾が足を止める。
「…………夜遊び、とは?」
「おっと失礼、誰にも秘密の遊びでしたか。すいませんね、なんせ仕事柄、人を追いかけたり待ち伏せするのが得意なんですが……どうも鷲尾さんはそういった類いの人間を煙に巻くのが上手いように感じたもんですから、俺もついつい気になって」
詳しくは突き止められていないものの、鷲尾がなにか怪しげな行動を取っていることは把握している……と言いたげな表情の真鍋。それは美波にも共有している情報だろうか。
裏社会に半身を置いている真鍋にとって、その身の全てを沼の底へ沈ませている鷲尾は、表社会で生きる人間にはない雰囲気を纏う、ミステリアスな存在なのだ。
「単刀直入に言うと……あなたはどこか臭うんですよ、鷲尾さん。平凡なサラリーマンにはないはずの……ああ、俺と同じ臭いだ」
ねちっこい言い回しをしながら、真鍋が距離を詰め、わざとらしく鼻をヒクヒクとさせた。
同類の臭いとは、鷲尾も真鍋に対して感じていたことではあった。しかし、真鍋のそれとは訳が違う。
鷲尾は勘弁してくれといったような、迷惑そうに小さく笑いをこぼす。
「ああもう、白状すればいいんですね? 特殊性癖系の風俗に通い詰めてるんですよ、風俗。もし会社の誰かに見られたら恥ずかしくていたたまれないでしょう」
「だからコソコソしていたと?」
「ええ、そうです。言っておきますがこんなことまで記事に書こうだなんて考えないでくださいね」
「ふぅん……」
納得したように鼻を鳴らしながらも、その本音では信じた訳ではないだろう。まったく人を信用しないのが真鍋という男だ。
真鍋は何もかも中途半端な中年親父なのだ。過去の裏切りの経験から、誰も信用しない性格へと変わってしまったことが、これからの彼にとっては不利となる。
「……そんなに、俺が気になるんですか、真鍋さん」
「その言い方は語弊がありそうだが、まあ……ねぇ。あの夫婦バラバラ殺害事件は、当時のマスコミもこぞって取材したにも関わらず、大して進展もなかったでしょう。それに唯一の生き残りは幼い男の子。……それが今こうして立派に成長したとあれば、当人だけが知っている真実があるんじゃないか、なんて考えるのは、一応はジャーナリストの端くれとして当たり前だと思いませんか」
「真実、か」
そんなものは無いに等しい。クラブが関わっている以上は、実行犯や手順など、鷲尾ですらわからないことの方が多かった。
だが一つ言えるのは、あの事件は鷲尾の父への嫉妬に狂った篠宮輝明が命令してやらせたことだ。真の黒幕はハッキリとしている。
けれど、それをこんな浮ついた男如きにこぼす必要もない。
「……わかりました。良いですよ。あの事件について俺がわかる範囲の全てをお話しますから、このまま俺の部屋まで来てくださいますか?」
意外だったのか、真鍋の目がほんの少し泳いだ。
「ご都合が悪いのでしたら、今日はお帰りください。ただし俺も今度はいつ話す気になるかどうかはわかりません」
「あ、あぁ……いえ、ご協力感謝しますよ。是非とも取材させてください」
真鍋もこうなれば必死だ。貴重な仕事を取れるか、何も得ず帰るしかないか。そんなのは誰でも前者を選ぶ。
何か鷲尾に危険性を感じていても、彼が関わっている、まさか自分が騙されているとは思いたくないのが人間の心理というものだ。
それに、真鍋はまだ、自分で言うほど人間不信にはなっていないと感じた。
いくら利害が一致しているとはいえ、美波と協力関係を築くなど、もし美波が裏切って真鍋が逮捕されることにでもなったらどうするつもりなのだろうか。
心の底では、信じているのだ。捨てた両親も。死んだ組長も。美波のことも。
自分は誰かに必要とされている、愛されている、中年にもなってそんなくだらない言葉が欲しいだけ。
ならお前は誰にも必要とされていない、愛されることもない、そうこの世の絶望を教えてやればいい。
真鍋の方こそ、いい加減に現実を知るべきなのだ。
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