21 / 80

10-1 真鍋独白

 真鍋貴久は、どう表現してもやりきれない、恵まれない少年時代を過ごした。  暴走族に属していた非行少年少女の過ちでできた彼は、産まれた頃こそこの世の汚れを何も知らぬ純真な男児だった。  両親も、子供をつくってしまった以上は、これから自立してどうにか支え合ってやっていこう、と希望に満ちた未来に向かって、そこからはひたすらに仕事に打ち込んだ。  しかし子供が子供を抱えた夫婦生活など、現実には長くは続かない。  父親はある日蒸発し、幼い貴久を養わなくてはならなくなった母親は、やむなく水商売で生計を立てるようになった。  そして、それなりに稼ぎができてくると、生活はどんどん派手に、荒んでいった。  まだ小学生の貴久に金だけを握らせて家を空けることも多くなり、その唯一の母親も、いつからか新しい男をつくって、貴久を置いて出て行った。  貴久は母親を、たった一人の身寄りとして愛していた。  父親の顔はとうに覚えていなかったので、大切な母からの裏切りは幼い少年にたいそうな精神的ショックを与えた。自分は最も大事な存在である母親に捨てられた、と思い知った。  母が出て行った際言い放たれた、「あんたさえ居なければ私は幸せになれたはずなのよ」という台詞。ずっと邪魔者扱いされていたことも、その時になってひしひしと感じた。  心の平穏をなくした貴久は、あのような大人にはなるかと思いつつも、それが血の因果なのだろうか、後を追うように非行に走った。  養護施設に入ってからも、窃盗や傷害事件をたびたび起こし、警察の世話になったことも多々ある。  初めは貴久の境遇を聞いて同情し、子供のやったことだからと寛大な対応をしてくれる人間も多かったが、貴久があまりに悪行を繰り返すもので、やはり徐々に厄介者に見られるようになっていた。  まだ中学生だというのに、貴久はもう何もかも終わったと思っていた。何故自分は生まれてきたのか、自問自答しては暴れ回る日々だった。  そんな貴久の人生を変えてくれたのは、黒瀧組系の暴力団に属する吉村という男だった。  子供のいない吉村は、貴久を引き取るとそれはそれは可愛がってくれた。貴久もそこでようやく、親の愛情というものを知れた気がした。  荒んだ心はだんだんと癒され、彼の背を追って漢の道を極めることにもした。  これだけ良くしてくれた親父の為なら、何だってしてやりたい、どうにかこの恩に報いたいと、貴久は組の仕事に励んでいった。  しかしながら、義務教育しか受けられなかった彼にはまだ、理性というものが足りなかったのかもしれない。  二十歳になった頃、組の仕事だけでは足りない金を少しでも工面しようと吉村に黙って強盗を計画した真鍋は、一件目にして顔を見られてしまうという大失態を犯した。  失敗は失敗を生むもので、その若い女の部屋に上がり込むと、悲鳴を上げる前にナイフで脅して組み敷いた。  彼女に商売女の香りがしたからだろうか、一連の行為は実に衝動的だった。  大きくスリッドの空いた服を引き裂いてレイプし、金品を奪い、どうにか上手くいったと機嫌を良くした貴久であったが。  まさかその女が当時の黒瀧組若頭、蓮見龍信の愛人であったなどとは、これっぽっちも考えはしなかった。  それからは地獄が待っていた。若頭ともあろう男が一介のチンピラ風情に女を凌辱されるなど、到底許されはしなかった。  メンツに関わるからと事件は揉み消され、表沙汰にはならなかったものの、見せしめとして吉村や兄貴衆が凄惨な拷問の末、海に沈められ魚の餌になった。  貴久自体も半殺しの目に遭った。いっそ自分だけ死ぬことになるならば良かったのに、巨大な暴力組織の幹部は冷酷非情な男で、生き地獄を味わわせ、ゆっくりと年月をかけて苦しんで死んでいく様を見届けることを好むという悪趣味な人間だった。  それが黒瀧──いいや蓮見流の落とし前であった。  結果として孤立無援の状態で生かされてしまった貴久は、周りからは「お前がいるから皆不幸になる」そんな疫病神のような扱いを受け、無論組からは絶縁。  一人逃げるように誰も知り合いのいない都会に上京した。  自分のような人間は、誰かの為に動いてはいけない。反対に、誰かに愛してもらうことも不可能なのだ。  誰も信用しない人生を歩むことになったが、それはようやく手に入れた自由でもあった。人の不幸は蜜の味と言うが、今の仕事を選んだのも。好き放題にやって他人に恨まれる方が都合が良かったからだ。  だんだんと表の仕事だけでは物足りなくなり、裏で刑事の美波と取引をし始めたのも、お互い利害が一致しただけであり、そこに信頼関係はなかった。だから気が楽だった。  あの鷲尾怜仁という男の話が出るまでは。  いつものように美波は捜査情報を、貴久は裏社会の情報を交換し合う車内での密会をしている中で、貴久は美波にある依頼をされた。  鷲尾という男について、身辺の調査を協力してほしいとのことだった。それはちょうど記事の反響も大きそうな男でもあったので、貴久はいつになく乗り気になった。 「鷲尾怜仁……ってぇと、確か最近お前があっちこっち追っかけ回してる兄ちゃんのことだったか」 「なんかそれ語弊あるんですけど」 「……それにしても、なんでわざわざ十四年も前の未解決事件をほじくり返してきた? 目撃者もいない、物証もない、人間トラブルの線もほぼゼロ。なのにお前のことだから、なにか気になることがあるんだろ」 「ええ……まあ」 「……そうか、誰も予想なんかしない犯人と言やあ、鷲尾自身か。でもそりゃ無理ってもんだ。ガキが刃物か何かで両親を殺すとする。そこまではいい。ちょっと頭が回るなら、薬品で溶かすくらいはできるだろ。だが、実際の事件は二人ともバラバラに解体されたまま放置されてたんだぞ? 賢いのか馬鹿なのかわかりゃしねぇ。それに、鷲尾が真っすぐに塾から帰ったことを証言する講師や友人、家に入ってすぐ泣き叫んでたっていう近隣住民の情報もある。少なくとも鷲尾には完璧なアリバイがあるってことは中卒の俺にだってわかる」 「そんなこと、一度は捜査本部も疑いましたし、とっくに俺も考えましたよ」 「それじゃあ、なんだ? 例えば……プロの犯行って訳かい」  真鍋はあくまで冗談のつもりで笑い飛ばした。 「いえ……あながち間違いではないかもしれませんよ。俺の憶測に過ぎませんが……ね。いや、実際に真犯人がその手で殺したどうかだって。もしかすると殺し屋……それを雇った人物がいるのかもしれません」 「殺し屋? それはそれは物騒な。……ま、サツの聞き込みにだって、100%真実を語る連中が全員とは限らねぇからな」 「それなんです。とにかくこの事件、矛盾が多すぎるんですよ。誰かがきっと嘘をついている……。山内さんが床に伏せてしまった今では個人で動くのも難しいので、ぜひあなたにお願いしたく。報酬は今まで以上に弾みますよ」  ああ、それから、と言いながら、美波は鷲尾の写真に、現住所や勤め先、携帯番号、それから車のナンバープレート等を控えた詳細な資料を手渡した。 「……俺の思い過ごしなら良いんですけど、鷲尾さん自体……ちょっと怪しいところもあるんです」 「怪しい?」 「はい。どうも、夜な夜などこかへ出掛けて行っているようなんです」 「そりゃあ毎日堅実な会社勤めじゃあ、遊び歩きたくもなるだろう」 「そうじゃなくて! 張っていても、いつも途中で見失うんですよ。あれはまるで、尾行されることに慣れてるみたいに……」  言ってから、美波は何故自分でもそのような考えに至るのか疑問といったような顔になった。 「鷲尾さんは、本当にあの事件には何の関係もない。ただただ、運が悪かったとしか言いようがない。そう思いたいけど……やっぱり、普通じゃない……気がするんです」 「回りくでぇな。つまり何だ? あの事件に限っては一切関与していないが、他はわからねぇぞ……ってか?」 「そうなっても、おかしくはないと思います。あの事件が鷲尾さんの全てを変えてしまった。警察がいつまでも犯人を捕まえられないなら、自分の手で……そんな風に考えて裏社会に頼っている、とか」 「そりゃお前のことだろうがよ。お前はあいつじゃない。そこまで自分と重ねるな」 「でも……もし危険な橋を渡ろうとしていたり、あるいは既に手を染めているなら、なおさら……俺が止めなきゃ!」 「……ったく、つくづくお人好しがよ」  しかし美波は鼻は効く男だ。刑事の勘というやつが、鷲尾に隠された何かに感付こうとしている。  そう考えると、現役刑事の美波を欺くような真似をしている鷲尾という男について俄然興味が湧いた。  素人がわざわざ尾行を撒くなんて、そんなことをする理由がわからない。そもそも、刑事相手に易々とできるものだろうか?  真鍋も美波も、お互いの過去のことはそれほどよく知らないし、知ろうとも思わない。所詮は同じ穴のムジナだ。  人間、誰しも裏はあるものだ。だからこそ絶対に誰も信用してはならない。信じられるのは己の力と金だけだ。  それが人間の裏の顔というものに翻弄された真鍋貴久という男が、これまで四十四年間を生きてきた中で学んだ哲学だった。

ともだちにシェアしよう!