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 晃の母、さつきが死んだのは晃が十歳の頃だった。  死因は、交通事故。目撃者によれば、当時の彼女は買い物帰りだったが、不注意で赤信号の横断歩道に足を踏み入れ……そして、大型トラックと正面衝突したらしい。  即死だったと聞いて少しだけ安堵したのは、大人になってからだ。最後まで苦しみながら死ぬなんて、あまりにも母が不憫だ。  確かに運転手側の注意が足りなかったせいもあるが、止めようがない車の前にいきなり飛び出したのは母だし、運転手は逃げることもなく慌てて救急車と警察を呼んだ。運転手だけを責めることはできない、結果としてそれはなんとも不運な出来事で終わった。  しかしまだ幼い晃には悲劇を容易に受け止められるはずもなく、晃は母が死んで以来毎日泣いていた。  それでも父は厳しかった。母の死を、子供の晃にも容赦なく告げた。  ただその時、父は隠そうとはしていたが、悲哀の涙を浮かべていたのだ。  普段の凛々しい態度が嘘みたいに叫んで、周りの人や物に当たり尽くして……当時の晃より幼稚な言動を繰り返していた父の姿は印象深く、晃の記憶にもはっきりと焼き付いている。  母と出会って、結婚し、晃が産まれてからも、一度も愛情表現らしいことがなかったという父。  それは愛が無かったからではない……不器用すぎて、言葉にできなかっただけ。酒が入って気が緩んだ際などのたまに発した言葉こそが、彼なりの最高の愛情表現だったなんてこともあっただろう。  本当に微塵も愛が無かったのなら、涙なんて出るずもない。  お嬢様育ちの母には厳格な篠宮家は合わず、精神を病んだ末の自殺だったのではないかなんて、葬儀場で親戚のおじやおばがこそこそと話していたのを聞いてしまった。  だが、父の涙を見た瞬間、そんなことは絶対にありえない、むしろこの親戚達こそが母を追い詰めたのではとさえ思ってしまった。  一連の法事が終わってからは、何を思い耽っているのか、父は魂が抜けたように長いこと墓前にいた。  その背を照らした夕暮れはとても幻想的で、綺麗だった。  幼い晃も、太陽が明日にまた見られる保証なんてないと理解した。沈みゆくそれに、どうか行かないでほしいと心から願ったのであった。  母がいなくなってしまったのはとても悲しかったが、今にして思えば、母の死を通して多くを学んだこともある。  失って初めてわかるもの。日頃の苦を労い、感謝し、正しく愛を伝えることの大切さ。彼女の存在がどれだけ晃の心を占めていたか。  そして、父が普段のように毅然としていたなら、晃は父を嫌いになっていたかもしれないということ。  失って、そのまま置いてきてしまったものもある。  晃の場合は、人を本気で嫉妬する、罵る、憎むといった醜い感情。  おかげで社会での競争もしなくなってしまった。最低限自分の役割さえできていれば何も問題はないではないかと、馬鹿らしく思うのだ。  「あいつに勝とう」だとか向上心のある友人とは話が合わなくなり、しかし、心の拠り所が外にも欲しかったのか、無作為に理解者を求めようとしたこともある。そんなことをしていては結局は上手くはいかず、皆離れていってしまったが。  でもそんなものはなくていいんだ。心を強く押し潰され、この世にいたくないとさえ思ってしまうような悲しみをもう一度背負うくらいなら、そんなもの、なくたっていい。 「それに僕は今は美鈴がいるからいいけど、パパがずっと寂しい思いをしているのは僕が一番よくわかってるから。どうにか心の傷を埋めてあげたいんだけど……早く孫を見せてあげるのが手っ取り早いかな? なーんてね、へへっ」 「……そうか。だから篠宮さんって、いつも笑っているのかな」 「うん? そういえばそうかな。真剣な時も、なにへらへらしてるんだって怒られちゃうんだよねぇ。僕はそんなつもりはないんだけど」  何か考え込むように言う鷲尾に、彼が自分のことをそんなに見てくれていたことがなんだか嬉しくて、晃は笑った。  鷲尾の冷たい声音には気付かずに。 「……はぁーあっ。暗い話しちゃったね。本当に僕らしくないや……。ごめんねっ、怜仁くん。ほら、また明るい僕に戻るから! ねっ!」 「篠宮さん……。無理、しなくていいんですよ」 「無理なんてしてないよっ。全然大丈夫。ママのいない生活は、もう慣れたからさ」 「あなたの気持ちは痛いほどわかりますよ。俺も……幼い頃に、両親を亡くしているんです」 「えっ……」 「だから……俺と篠宮さんは、似た者同士。そういうところも親友らしいと思いませんか」 「……そうだね……。僕、こんなに僕のことをわかってくれる人、君が初めてだよ」  晃がちょっと照れ臭そうに顎を触った。  鷲尾は、晃にとって何故だか不思議な感覚になる男だった。例えば子供の頃から知っているような気さえした。波長が合う、というのはこんな風なのだろうか。  けれど彼も親を失った経験があるとは今まで聞いたこともなかった。そういった話をしない人間だと思っていたので、余計に嬉しかったのかもしれない。  ああ、だから、二人は引き合ったのだろうか。そんな風に幸せな考えが頭から離れなくなった。 「……なら次は俺の話を聞いてくれませんか」 「え? うん、もちろんいいよ!」 「じゃあ、今夜皆が帰った後にデスクで待っていてください。俺と会うことは、くれぐれもご内密に」 「うん……?」  その時の鷲尾は、どこまでも深い闇を孕んだ眼で晃を見つめていた。だが晃は身に迫る危機に気付かない。  どんなに酷くとも止まない雨はない。雨が上がった先には、きっと眩い虹が見えるはずだ。  そんな人生観を持った晃の心は、自分の想像とは真逆の厚い雲で覆われていたのかもしれない。

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