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第2話

 視界が緑色のモザイクめいたかと思うと浮遊感に襲われた。尻が地に着く衝撃で我に帰る。すぐに冷える汗が薄らと首と背中、額に滲んでいる。櫻岬(さくらざき)という青年は軟派で軽率ゆえの粗暴さがあり貞操観念の緩い迂愚な人物とよく誤解され、そう分類されるが、実際の彼は恋愛や性に対しては単純かつ淡白なほうで、マイペースながらも周りに合わせてしまう繊細さもあれば、そこから抜け出る聡さも持ち合わせている。そしてこの体内の濡れた肉と肉とが縺れ合う様に対して驚愕と強い負荷を覚えてしまう程度にはナイーブな面もある。  吉良川(きらがわ)(ひいらぎ)を突き飛ばすのをぼんやりと見ていた。よろめきながらやって来た彼に肩を揺すられる。 「櫻岬」 「……あれ」 「大丈夫か」  眼鏡の無い吉良川はまた目を細めていた。 「だいじょぶ。ちょっと立ち眩み起こしただけ」 「医務室に行くか」  相変わらず無愛想で目を細めている顔もそれを助長するが、実際は冷淡そうな外見にそぐわず掛けてくる言葉や口調は優しい。  櫻岬は首を振った。しかしまだ立てずにいる。 「だいじょぶ。ありがと。ホント平気」  ふいと吉良川は顔を逸らして柊のほうを向いて、まだよろよろとしながらも櫻岬の肩を支えていた手を離して立ち上がった。 「眼鏡を返せ。櫻岬を医務室に連れて行く」  話を聞いていなかったのか吉良川は柊から眼鏡を()ぎ取って、薄い二重瞼の綺麗に沿った鋭い目がレンズ越しになる。 「立てるか」 「大丈夫だってば」 「一応、行くだけだ。少し歩いてみて駄目そうなら留まればいい」  意外に面倒看がいいらしい。櫻岬は腕を取られ、吉良川は肩に回そうとした。小顔に少し華奢でシャープな印象があるためか櫻岬には彼の背丈が自分より低く見えたが実際並ぶとほぼ同じくらいだった。 「自分で歩ける」 「……そうか」  彼が大袈裟なのだ。立ち眩みはもうない。汗がすっと引いて寒くなった。歩く速さにやたらと気を遣う吉良川に合わせると櫻岬も歩くのが遅くなった。ここから近い第二医務室に行く途中でまた宮末と会う。彼は2人を見つけてやって来たらしい。第二医務室は他の建物と離れてぽつんとあった。小規模な2階建てで、カウンセラーなどもそこにいる。ここは第二だが、第一医務室はというと最も大きな本館にあり、駐車場に面していた。 「具合悪いのか?」  宮末の大きな手が櫻岬の額に添えられた。年少者にするような手付きだ。 「いやぁ……別に」  貧血気味は貧血気味でもほんの一瞬だった。それを事情も知らず、また知らせるつまりもない相手に言うのは躊躇われた。 「そうか?あんま無茶すんなよ。プリントとか必要だったら余分にもらっておくし」  宮末はまだ櫻岬の額に軽く手を置いたまま吉良川を一瞥する。 「な?」  爽やかに微笑まれ、吉良川は目を泳がせる。彼は肩を竦め、ぶるぶると震えた。何か異様なものを櫻岬は感じたが、宮末はそれを気にするような男ではない。 「櫻岬が貧血を起こしたから連れて行く」  非常にぶっきらぼうな低い声で吉良川は言った。呻めきに似ていた。 「マジか。それは大変だな。お大事に」  宮末は櫻岬を見返したが、櫻岬は様子の変わった吉良川を見ていた。何かが変わった。顔色か、雰囲気か、表情か。顔をいくらか赤く染め、警戒したように強張った。 「大丈夫か?」  呆けていると額の上の指が緩やかに動いた。 「貧血ってほどじゃないよ。吉良川が大袈裟なんだ。ね、きらりん?」 「きらりん?きらりんっていいな。可愛い。俺もきらりんって呼んでもいいか?」  びくりと"きらりん"は戦慄いた。 「や…………めてくれ」 「そうか。残念」  宮末は爽やかに、嫌味にならないような苦笑を浮かべた。何故、呼ばせないのだろう。批難の意はない。それは呼ばれることになる吉良川の自由だ。ただ、何故自分には許した愛称を宮末には呼ばせないのか、純粋な関心を抱く。櫻岬から見て彼は気紛れ屋に見えない。 「じゃあこれからも吉良川で」 「そうしてくれ」  櫻岬は爽やかな好青年と何か怯えたような感じの同ゼミ生を見比べた。猛烈にゆっくりと後退りたくなる。すでに半歩下がっていた。 「ごめんな、呼び止めて。早く診てもらったほうがいいよな。じゃあな。絶対、無理だけはすんな」  颯爽と彼は去っていく。毛を逆立てた猫みたいな吉良川も、宮末が背を向けると途端にただの無愛想な大学生に戻った。 「もしかしてきらりんってさ、」 「なんだ」  言い終わらぬうちに食い気味に返ってくる。 「フューチャーのこと苦手?」  あくまで「苦手」と表現したものの、さらに突き詰めるならば「嫌い」という域にまで達してはいないか。 「………苦手も得意もない」 「そっか。フューチャー、優しくてかっこよくて嫌われるようなとこないけど、そういう完璧さみたいなのが逆に苦手って人もいるからさ。そういうアレかと思った」  レンズによって僅かに小さく見える目が泳いだ。櫻岬はもうとっくに立ち眩みを起こしたことなど忘れていた。今は、あまり関わりはなかったくせ最近やたらと顔を合わせるこの愛想のない同期の興味でいっぱいだ。彼と今2人でいるのが不思議な気がする。 「櫻岬は、宮末と仲が良いんだな。あまり気の合いそうなタイプには見えなかった」 「そう?これでも大学入って初めて喋った仲なんだけどな」  はっきりは言わないが、宮末は真面目で意識の高い優秀な学生と言いたくて、櫻岬のことはチャラチャラして勉学にも励ます遊んでいそうだと言いたいのだろう。そういう自分の印象に自覚はある。それにしても彼はよく"フューチャー"を気にした。  櫻岬は医務室で簡単に事情を説明したが、また立ち眩みを起こすことはなかった。きちんと食べて早く寝、よく休むよう言われた程度で済んだ。吉良川が大袈裟なのだ。医務室には5分といなかった。2人で出てきて、まるで仲良しみたいに2人でいる。 「あの柊とかいう人は放っておいて大丈夫だったん?」 「大丈夫だろう。別に子供じゃないんだ。群れるような人でもない」  嫌味かな、と櫻岬は反射的に思った。試すように冷めた目とかち合う。 「そっか。マイペースそうだもんな、あの人」  視線がぶつかったまま、吉良川は逸らそうとしない。何か言いたそうで躊躇っている。櫻岬はなんだとばかりに首を傾げた。 「うん?」 「ああいう関係を……―どう思う」  段々とぼそぼそはっきりしなくなった語調を理解するのに少し時間がかかった。気付くと吉良川は俯いている。伏せた横顔も張り詰めたような尖った麗かさを帯びている。 「どうって?」 「気持ち悪くなかったか」 「分かんない。誰とも付き合ってないか、付き合ってる人も知ってれば別にいいんじゃない。それによる。気持ち悪いかどうかは」  角膜に長い睫毛が滑り落ちるのを眼鏡の隙間から見ていた。瑞々しい酸っぱさを覚えて櫻岬を視界から外した。 「傷付いた?」  柊に"七瀬ちゃん"なるカノジョがいることは知っている。キスをする相手の恋人の有無について吉良川が知っているのかまでは知らない。つまり嫌味にも成り得た。 「綺麗事を並べられるよりかいい」 「やめたらいいじゃん」 「そうだな。やめるか」  潔い返事を意外に思う。何かしら言い訳めいたことが返ってくるものとばかり思っていた。 「そもそもなんであんな変なツルみ方してんの」  ちらとさりげなく捉えた表情は憂いを帯びている。 「友達が…………欲しかった」  どこか重く響く。妙に生々しく切ない。 「ああいうふうな関わり方になるとは思っていなかったけれど、満足はしている」  櫻岬は自分が吉良川に対して誤解していたのを知った。第一印象からそのまま勝手に彼の性格を決め、どう応対されるのか高を括り、自分がどう見られているのかも想像を固着させていた。彼は思っていたより純粋で、素直なのかも知れない。 「オレが友達じゃん。うん、やめるのがいいよ。なんか怖いもん、あの柊って人。これからはオレとツルもう」 「櫻岬には櫻岬の人付き合いがあるだろう。気を回すな。でも、ありがとう」  無愛想なりに彼は微笑を固く浮かべた。それもまた櫻岬のなかの吉良川の像を崩す。 「オレにはオレの人付き合い、ね。せっかく、ただの同じゼミって関係からお近付きになれたのに。仲良くしよ」 「これでも俺なりに、打ち明けたつもりだぞ。友達……として」  吉良川の語末はまたぼそぼそとして、顔はいくらか淡く染まった。 「なるほど。ンなら良かった。次、なんの講義取ってんの?近くまで一緒に行こ」  次の講義は彼とは違ったが同じ建物だった。櫻岬の受けるのは1階大講義室の基礎・教養科目だが、吉良川は2階の小規模な語学らしい。 ◇  新しい、いつものグループとは違うルートでできた友人は櫻岬の関心を強く持たせた。櫻岬からいつもの大人数を抜けてたびたび吉良川のもとに赴く。柊とは切れたのか、一緒に居るところを見なくなった。それだけでなく大人数の講義では吉良川の目の前であの美男美女カップルを目にしたこともある。キスをする仲でいて、そこに本当に情を通わせるところがなかったのは吉良川を見ていると確かなようだ。まるきり気にした様子はなく、櫻岬がひとりで気を揉んだ。この講義室は教壇に向かうにつれ下方になる造りのため、美男美女カップルのカレシのほうは何度か吉良川を振り返ると見上げるかたちになる。その行動に気付いたのは櫻岬のほうで、目が合うと柊は意味深長に笑った。そして何事もなく講義を聞いているらしいカノジョの肩に腕を回したり、抱き寄せたりした。隣の吉良川はまったくそれを気にした素振りもない。配布資料の余白に板書している。講義が始まる前に宮末がやって来て、隣が空いているか訊いてきた。そして吉良川を挟むかたちで座っている。それから吉良川が妙にぎこちなくなった。やはり宮末が苦手らしい。そもそも柊を気にしている場合ではないのだろう。宮末と吉良川に一方的ながらも不仲疑惑を持ったくせに気を遣えなかったことを櫻岬は反省した。そこまで宮末を気嫌いする理由が分からない。余裕のある爽やかな態度か、あるいは、意識の高い優秀な学生への敵愾心か。想像できたのはこの2つだけだ。  少し低めのチャイムを聞き、90分の講義が終わる。 「次何の授業。オレ11号館なんだけど」  吉良川は配布資料を綺麗にファイルに綴じている手が妙に緊張している気がした。話を聞いていないようだった。その隣の宮末がひょいと櫻岬を見る。 「おれも。一緒に行っていい?」 「うん。きらりんは?」  吉良川のぎこちなさを考えれば断るべきだが、櫻岬に宮末を突き離す理由がない。反射のように諾としてしまう。案の定、吉良川は「ちょっと用があるから一緒に行けない」と言った。 「そっか。分かった」 「悪いな」  その声は小さかった。宮末にはおそらく聞こえなかっただろう。櫻岬もやっと聞き取れたほどだ。  3列ほど前に座っていた美男美女カップルが立ち上がって櫻岬は気を取られた。柊とそのカノジョが櫻岬のいる席真横の通路を上がっていく。 「べいべぇ」  柊の声が降る。吉良川が目を見開く。呼んだ者を向くと"七瀬ちゃん"なる美女と腕を組んでいた。 「ほら、ずっとカッコいいって言ってた紅くん」  甘えたように喋っていたというのに、一瞬で柊の声は気取ったような作ったような声音に変わった。"七瀬ちゃん"の上反りした睫毛とブラウンの引かれた目に見つめられ、動けなくなった。どういう状況なのかも分からない。櫻岬は彼女のカレシをどういうつもりだとばかりに睨む。マットな質感の赤いリップカラーがよく似合う口が何か言っているのも聞いていなかった。吉良川のほうを一度も気にせずに柊はただ櫻岬が注目されるようなことをする。 「ホントだ。カッコいい。真八(まや)よりカッコいいんじゃない?」  ハスキーな声質で、肩に伸びてきたしなやかな手には綺麗に磨がれた爪が照る。ペットショップのショーウィンドウにぶち込まれた気分だ。 「浮気しちゃイヤだよ」  美男美女カップルは買いもしない愛玩動物を愛でて2人で楽しんでいる。不快な空気だった。何か陰湿な、当て付けめいたものを感じる。友人をひとり横から掻っ攫っていた自覚がそう思わせるのか。それでいて柊という奴は胡散臭かった。惚気に使われた、そういう花畑になりそうな呑気なものではないのだ。(すす)いでもすぐには流れ落ちない粘液に全身を浸されたような、言いようのない不快感…… 「櫻岬にカノジョ居たら悪くねぇか?」  その空気を爽やかに宮末が引き裂いた。悪気の感じられない正々堂々と、しかし押し付けがましくない語調で、その表情もただただ純粋な疑問を呈しているように感じられる。  肩に触れていた軽い手が離れた。小さな声で謝られる。 「はっはっは。カレシが許してくれたら個人的には全然(ぜ~んぜん)、いつでも遊んでくれよな」  宮末の助け舟ですっかり調子を取り戻し、普段のグループでやっているような軽率で軟派な態度を繕う。柊は"七瀬ちゃん"を引き取ると、ただにこにこと笑っているだけで、キスをする仲で面識が無いはずはない吉良川のことは一切見向きもせずに行ってしまった。 「ありがとな、フューチャー」 「惚気に使われちまったな」  "フューチャー"はからからと軽快に笑った。吉良川はどこか居心地が悪そうだった。 「きらりん、用あったんだろ?ゴメンな、付き合わせちゃって。じゃあ、またな」 「ああ。また」  ぶっきらぼうに、顔を見ることもなく彼は逃げるように去っていった。その理由と思しき人柄を含め優秀な学生は、吉良川に頓着する気配もない。  特に会話もなく次の教室に移動する。言葉を常に交わしていなくても、宮末は機嫌を損ねたり、また機嫌を損ねたのかと(おもね)るような相手ではない。ただ話すことがないから話さない。焦らせることなく、そして焦ることもなく無理矢理喋る必要のない人だから櫻岬のほうでも楽だった。  宮末と2人でこの講義を受けるのは初めてだった。いつものグループなら何人かが真面目に聞いているか、誰も聞かずに顔を伏せたりスマートフォンをいじっているかだったが、何となく真面目な態度の彼に感化され、珍しくきちんと教授の話を聞いていた。穴埋め式の配布資料に回答を書き込んで、蛍光マーカーを引いた。以前の講義はほとんど書き込みなどはしなかった。今回だけすべての欄が埋まっている。単位を得るためのテストのことなど何も考えていなかった。今楽しければいいのだ。大学は遊ぶところである。音の外れたような低いチャイムが鳴り、講義室の前までは宮末と一緒だった。彼と別れ、一気に離散していく人波の中に吉良川を見つけた。その隣に背の高い人影がある。それはおよそ180cm以上はあると踏めた。その者の隣にカノジョの姿はなく、吉良川はキャンパス裏に引き摺られていく。柊と切れていないのだ。追うか、追うまいか。一度追おうか考えたのが咄嗟の判断で、少し遅れて社会通念が押し寄せる。不要な世話、行き過ぎた節介ではなかろうか。柊と吉良川の関係は2人が決めることだ。そこに割り入ってどうする。櫻岬は見送ってしまった。学生会館にいるいつものグループと合流する。途中でひとりで飯を食う"七瀬ちゃん"の優美な姿を見かけた。そこにカレシの姿はない。今日は曇りなのだと、なんとなくその時に気付いた。  ゼミの開催される第二キャンパスにある建物脇は寂れている。第二食堂は閑散を極め、人の出入りが多い曜日の昼間のほんの短い時間しかやっていない。住宅街の中に突き出るような造りのため大学生の昼間の活気は近隣住民の迷惑に成り得た。3席ほどテラスもあるが、やはり寂れて使われた形跡がない。第二キャンパスが新しい建物が多い割りにどこか不気味で陰気な空気を持っているのだ。わずかながらも防音のための木々やビオトープがあり鬱蒼としているからかも知れない。  吉良川と再会したのはこの第一キャンパスから小さな車道を挟んですぐの第二キャンパスだった。きちんと整備はされていて、危険視するようなものはなかったが、どこか廃墟と見紛う暗さが否めない。そういう建物の陰にいた。相変わらず人気(ひとけ)がない。彼は壁に背を預け、煉瓦敷の地べたに座っていた。綺麗に梳かされていた黒髪が乱れている。水分の多い目が櫻岬を見上げ、気怠げに立ち上がった。 「何してんの」  雨がぽっ、ぽっ、と気のせいかと思うほど曖昧に降っている。 「少し休んでいた」  (ひび)割れた唇の薄皮が白く照っている。 「こんなところで?」  真横の廃墟みたいな建物の1階西側は経年変化で曇っているもののガラス張りで、一部クッションの剥き出したソファーや黒ずんだプラスチックの椅子やテーブルもある。差し詰め廃墟のラウンジといった様ながら、時折利用者も見かけるのだからそう忌避するものでもない。 「ああ」 「貧血気味?きらりんルールに従って、医務室行かなきゃだよ」  櫻岬から吉良川は目を離した。レンズ越しの視線が自分の後方を見ていることに気付いて振り返る。柊だ。柊が、第二食堂から出てくるところだった。手には食堂にある寸胴なコップが握られている。さらさらとした前髪の奥の色素の薄い目が挨拶代わりとばかりに大きくなり、片方の口角を吊り上げた。そして大きな手の中にあるコップを傾け、柊は水を口に含む。自分が飲むのか、と櫻岬が思った途端に、コップを握るのとは反対の手が吉良川の肩を掴む。彼は振り払おうとしたが抵抗は敵わなかった。乾燥した唇に桜色の瑞々しい唇が重なった。接合したところから水が一筋滴った。吉良川は仰け反った喉を震わせ、水を与える大きな身体を離そうとしながらその手は縋っているようだった。一口では済まない。二口、三口。コップの水が空になる。櫻岬はそれを見ていた。 「キスで腰抜かしちゃったんだよ。ね、きらりん」  吉良川は腕で口元を隠し柊を睨んでいる。櫻岬といえば、腰を抜かすほどのキスというものを想像して顔を熱くした。 「もう用は済んだだろう……」 「あとはべいべとよろしくやる?」 「櫻岬はそんなじゃない」  柊に瞥見される。 「なんで?すればいいじゃん。男同士のキスなんか、何の意味もないよ」 「じゃあなんですんの?」  単純な疑問点を持って口を挟む。 「オトコノコだもん。キスしたくなるでしょ?」 「……なる?どっちかっていうとキスしたがるのオンナノコじゃない?」 「やっぱべいべって純情。キスのほうがエッチより断然気持ち良くない?」  櫻岬はあまり毛の生えないのがわずかながらコンプレックスの顎を撫でた。じょりじょりとするのは髭ではなく肌荒れだ。 「その相手がカノジョじゃなくてきらりんなのおかしくない?可愛いカノジョいるじゃん。カノジョじゃダメなん?」  柊の目の色が変わった。しかし相変わらず笑みは崩さない。 「カノジョはカノジョ。そんな毎日チュっちゅチュっちゅできるワケないじゃん」 「きらりんにはしてもいいのかよ」 「うん。だってそういうお友達だもん」  吉良川の皺を刻む眉がひくりと動いた。 「あんまり、きらりんのこと、バカにすんなよ」  柊の視線が櫻岬から側められる。眇められた目は何か言いたげだった。 「べいべって、いい子じゃん。彼に惚れなよ。そのほうが楽だよ」 「何、惚れるって」 「そのまんまの意味」 「やめてくれ!この話は、やめてくれ……やめて……………ほしい」  悲痛な色を持った懇願に柊の笑みは満足そうだった。対して櫻岬は吉良川を見下ろすばかりで何も言えない。 「きらりんをよろしくね、べいべ」  両手を打ち鳴らして柊はコップを返しに行くらしかった。第二食堂に消えていく。ここに残されたのは沈黙だ。 「おかしなことに巻き込んで悪かった」  先に口を開いたのは吉良川だった。櫻岬はぼうっとしていたが、その声ですぐさま我に帰る。 「オレが自分から首突っ込んだようなもんだし、別に」 「今聞いたことは、全部忘れてくれ」  立ち上がることを手伝わせはしない。吉良川はよろよろとひとりで立った。 「分かった」 「すまない。でも………嬉しかった」  何が?とは訊き返せなかった。色々抱え込むには頼りなく思えるのは、背丈があっても線は細いからだ。 「もう何言ったかも忘れたよ」  吉良川は少し不細工に笑った。それは苦笑だ。3歩進んで忘れてしまえればいいようなこともあるけれど、ヒトは作為的に一瞬で忘れるようには出来ていない。吉良川には好きな人がいるらしい。それを忘れてやれずに、誰何(すいか)してしまいそうな自分を櫻岬はどうにか抑え込んだ。

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