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第4話

◇  帰属意識のあるあの大所帯のグループに戻って、櫻岬(さくらざき)はそこから1人で抜け出そうとはしなかった。フューチャー(もとい)宮末(みやまつ)とは軽い挨拶を交わしたりするものの、2人で講義を受けたり飯を食うということもなくなれば、吉良川(きらがわ)とはほとんど関わらなくなっていた。ゼミでも自ら話しかけることはない。キャンパスでは一人でいるか柊に連行されているようなところを見るくらいだ。  単独行動が多かったからといってこの集団の核みたいな存在の櫻岬が疎外されることはなかった。何となく気が合って、何となく時間を潰すのに一緒にいて、何となく集まる。それが自由で居心地が良い。多少の遠慮や気遣いはあれども、そこにギスギスした仲を取り持つという類いのものはない。仮に嫌っている、(いが)み合っているということがあっても彼等彼女等は秘している。それを過ごしやすく感じる。楽だ。落ち着く。  忘れかけていた頃に(ひいらぎ)からの呼び出しがあった。グループで食堂の一隅を陣取っているとき、"キャンパスの王子"が来たから、周りは色めきだった。まるで芸能人の扱いである。 「話あるんだケド、いい?」  すでに座っているが、腕を持ち上げられている。拒否権は無いに等しい。柊の顔はしかつめらしい。櫻岬はグループの奴等に彼に謝ってついていった。"七瀬ちゃん"の姿はない。 「話って何?」  移動している間に切り出すが答えはない。日当たりの悪い10号館の2階のラウンジに連れ込まれ、ソファーへ放り投げられる。 「腹減ってるから食うよ」  朝から何も食べていない。食堂で食おうとしていた持ち込みの握飯のフィルムを剥く。柊も反対のソファーに座り、膝の上で弁当を包むバンダナを解く。 「きらりんのこと」 「―が?」 「最近放置プレイなの?」 「違うよ。気を遣うなって言われたから、これお互い気を遣って面倒臭くなるやつだなって思って。それならオレが気を遣わないでいるほうが楽じゃん。そのうち向こうも気を遣わなくなるし」  箸の持ち方は綺麗だったが、かちかちとプラスチックの棒2本を打ち鳴らして行儀が悪い。 「ふぅん」 「人の付き合いに口出すなよ」 「べいべも結構、ボク等の付き合い方にあれこれ言ってたケドね」 「そりゃ変だもん。キスフレンドだかなんだか知らないけど」  ミートボールを喰らっている。白米にはおそらくでんぶのピンク色でハート型が作られていた。 「カノジョが作ったの?」 「自分で作った」  冗談のような響きもあった。ギザギザに切られた茹で玉子まである。 「べいべもきらりんのキスだけフレンドになればいいじゃん」 「なんで?」 「きらりん一人で可哀想だから。べいべと友達になれてすごく嬉しそうだったし。キャンプ誘ったんだってね?行きたそうだったな」 「でも断られた」  柊に話していたのが意外だった。柊のことを吉良川はそこまで信用しているようには見えなかった。否、キスをする仲で、柊は吉良川にとって特殊であろうとも友人だ。キスを「させてもらいなよ」と簡単に売るようなことを言うような奴であっても。 「2人きりだと思わなかったんでしょ。ほら、べいべって友達いっぱいいるじゃん?人数合わせとかさ、あとは、もう1人別個で仲良い人いるでしょ。きらりんとはナカガワルイ」 「フューチャー?」 「まぁ、名前は伏せるけれども」  飄々とした感じが薄れ、柊は弱くも怒気を感じられた。機嫌が悪い。 「2人きりなら断らなかったって言うのかよ」 「分かんないケド。残念そうだったし、見てらんなかった。陰で泣いてるかもね」 「……だとしたら、やっぱ面倒臭ぇよ」 「おかげでキスどころじゃなかったよ。そういう気分じゃないってさ。ハグで精一杯。ハグする相手は間に合ってんの。これじゃあキスフレンドにもなれないね」  ぱくぱくと自分で作ったらしいでんぶのハート型を壊していく。 「友達欲しかったとかいうきらりんの気持ち利用しといてひでぇよな」  練り梅の味が顎の付け根を締め付ける。 「ボクはきらりんとキスがしたい、きらりんは友達が欲しい。いいじゃない?これで。べいべもきらりんのキスフレンドになれば分かるって。あの唇は病み付きになる」 「なんか、ハレンチだ。そういうの。きらりんの決めることだし」 「させてもらいなよ、キス」  飯を食いながら、よくもそのような下卑た物言いができる。 「だからその言い方。させてもらうとか、そんなんじゃなくて、きらりんがオレとしたいか、だよ」 「それだとしたくないと思うな。きらりん好きな子いるし。ははは、でも好きな子いるのにボクと毎日キスしてるの。すごくない?」 「聞きたくなかったし、別にオレからしたいわけじゃないし、アンタと飯食うと不味くなる」  2つめの握飯には手を付けられなかった。この男と喋りながら食うには惜しい。練り梅の酸っぱさしか分からない。 「きらりんの好きな子、気にならない?」 「ならない」 「どうして?」 「きらりん本人からは聞いてない」  性格の悪い柊が言うのなら、どうせは"七瀬ちゃん"だろう。吉良川の好きな人をカノジョにしていることに優越感を覚えいるに違いない。本当に性格が悪い。性根から捻じ曲がっている。カバンとオムチキンむすびとりんごカスタードパイ、サラダチキンとヨーグルトの入ったビニール袋をぶら下げて櫻岬は食堂に戻ろうとした。階段下に吉良川がいる。柊との会話を聞かれていた。気拙そうにレンズ越しの瞳が泳ぐ。 「悪かった……な、色々と。世話をかけた」 「別に世話は掛かってないけど、あんたは面倒臭い人だ。柊みたいな性格悪いヤツに利用されんなよ」  櫻岬は一度も目を合わせなかった。顔すら向けない。 「ああ。それと、ありがとう」  何に対する感謝か分からない。1人で食堂に移動する途中、反対から宮末が来た。 「よっ、(ホン)ちゃん。なんか、なんとなく久しぶりな感じするな」 「えぇ?そう?」  わざとらしく戯けてみせて宮末の前ではやはり子供らしく振る舞ってしまう。 「ところで昼飯はもう食ったのか」 「途中」 「途中?途中って?」 「中途半端に食っちゃったから、今から続き食おうかと思って。フューチャーは?一緒にどうよ?」  会えば誘っている。そういう外面の良さがある。食堂にいるはずのいつものグループにはチャットメッセージで戻れないことを告げた。宮末と学生会館で飯を食う。彼の弁当は柊のようにでんぶのピンクやカラフルなカップ、ファンシーなピックなどはない。弁当箱もごてっとしている。近況を語り合い、講義や課題に纏わる話をする。宮末とは大体そういう関わり方で、下品な話は特にない。陰口や噂をするでもない。 「そういえば、キャンプ、誘えたのか」  そういえば、で櫻岬はこの話題に切り替わることを察した。軽く横に首を振る。 「そうか。じゃあ、おれとキャンプだな」 「オレはそりゃ予定がら空きだけどさ、フューチャーは忙しくない?大丈夫そう?」 「キャンプじゃなくてもいいか?」 「どゆこと」  彼はマイボトルのこだわりドリップコーヒーを飲む。良し悪しの分からない苦い香りが鼻腔まで届く。 「親戚がコテージの管理人で、格安で借りられるからどうかと思って。やっぱり予定通りキャンプがいいか?」 「コテージ?マジか。良いじゃん」 「お、じゃあ決まりな」  その一言で予定はあれよあれよと決まっていった。何故キャンプに行こうとしたのかも忘れた。日程が決まり、移動も宮末が車を借りて運転までしてくれるらい。至れり尽せりで、食材は櫻岬が買うことになった。  音の響きやすい学生会館の円形テーブルで櫻岬は望むように事の運んだ子供みたいに盛り上がる。その傍を柊と吉良川が通り過ぎた。学生会館の中を通り抜けるとショートカットになる。ついでにトイレにも寄れれば自動販売機もある。居てもおかしくはない。彼等がガラス扉を隔てるまで櫻岬は強張って黙りこくってしまう。ずいと宮末が首を伸ばし、顔を覗き込まれる。 「吉良川と何かあった?」 「何もないよ」 「そうか。深くは訊かないけどよ、何かあったら相談くらい乗れる。自分のことでも口にしてみて分かることってあるからさ」  櫻岬は無言のまま頷いた。 「―なんて……吉良川のことだと、おれに相談しても仕方ないか」  爽やかな笑顔が少し濁っているような気がする。 「フューチャーはめっちゃ頼りになる。オレの憧れだから。ンでもマジで大丈夫!ホントに何でも無いんだ」  宮末は澄んだ目を丸くした。照明器具の形が歪曲して映っている。漫画のキャラクターの目みたいだった。かといって涙ぐんでいるわけでもない。時間が止まったように2人は顔面を向き合わせたまま固まった。 「ははっ!これじゃおれが励まされてるな」 「あ~!もぉ、接待しますよぉ、社長さん。まぁ、マジだよ。うん。マジ、マジ。キャンプ行くのひとつさえオレはフューチャーに相談しなきゃ決められないようなやつなんだよな。決められなくて誘えなくて、それならカレーだけでも作りたいって時間稼ぎみたいにルーから作ろうとするやつなんだよ。うん、オレはそんな感じだから、頼りにしてる。これでも」  抑揚がおかしくなった。誤魔化すのは苦手だ。剽軽で軟派で軽率、それが自分の周りに振り撒いた像だ。それを脱いで素直に弱音を晒す覚悟がまだできていないくせ、宮末に己を開示したくもある。中途半端さは隠せない。 「コテージ行ったらカレー作るか。ルーから。おれも調べてみた。色々あんのな、小麦粉使うとは思わなかった。興味あって。ジャムみたいなやつ使うのでいいか?ケチャップから作る?」 「オレ、カレーは甘いの好き」  宮末は清涼感のある笑みを浮かべる。歳の離れた弟にするようなその態度で、転落し受け止められるかのような安堵を覚えた。 「じゃあそれで作ろう。よく調べておく。(ホン)ちゃんとどんなカレーが作れるか楽しみだ」 「その日までカレー食わないからね、オレ」  宮末は朗らかな表情を見せている。吉良川との喉の辺りで絡まって呼吸を堰き止めているような問題は忘れてしまった。  咄嗟に得た既視感を分析しようとした。ゼミのある教室の前でまた密会している。2人の関係を知らなければただの仲の良い奴等に見えただろう。いつ誰が来るかも分からない場所でキスしている。気付いているのか、いないのか。櫻岬はこのひとつ前の時間が空いているために、移動が早かった。だから人の来る時間まで存分に惚気ようとするカップルを目の当たりにしても仕方がない。どうせ彼等も時間を潰すための1コマを取らなかったのだろう。迂闊に取って単位取得にならなければ成績が落ちるリスクがある。その時間を課題に充てたり潰した昼食の代わりに充てたほうが良い。宮末も別の曜日はそうしていた。彼等もそうなのだろう。  壁に押し当てた者から柊は身を剥がして振り返った。櫻岬は後退る。半歩後ろは階段だ。それを忘れて踏み外す。数段転がり落ちて踊り場のほうに近くなっていた。膝や腰が熱で疼き、遅れて痛みが訪れる。上の階からぼそぼそと会話が聞こえる。そして一度登りきっていたはずの手摺りからひょこりと柊に見下ろされる。色素の薄い目が見開かれた。彼は足音を響かせて立てずにいる櫻岬の傍に駆け寄ってきた。間抜けな姿を見られてばつが悪い。 「バカじゃないの」  柊の第一声はそれだった。へらへらした顔は引き攣っている。 「はぁ?」  手摺りを頼りに立ち上がる。左足首の骨と骨の間に一枚カードでも差し込まれたような違和感がある。それから鈍く痛んだ。 「ドジ」 「いいから、あんたは吉良川とちゅっちゅしてろよ」  階段を降りることも上がることもできない。左足首が震えている。力を掛けられない。柊は眉を顰めて高い目線から見ている。 「足痛めた?」 「痛めてねぇよ。さっさと吉良川のとこ戻れよ。あっち行け」  色素の薄い目が階段脇の小窓によって逆光している。 「バカ」  喧嘩を売られ、買おうとした直後に櫻岬の身体は宙に浮いた。真上に柊の顔がある。平均身長ほどはあるのに容易く抱き上げられている。階段を降りていく。 「ちょっと!これからゼミあんだけど」 「医務室連れてく」  このやり取りも最近交わしたような気がする。一年や二年、数ヶ月とそう遠くはない日に。 「足首痛めてるんでしょ」 「ほんっとに、あんた等と関わるとろくなことない」 「友達と接吻交友(ナカヨシ)してたら、いきなり階段から落ちるなんて思わないでしょ」 「思わなかったのかよ。てっきり真下まで落とすつもりかと思った」  左足首は張っている感じがする。打身はほとんど薄れている。第二キャンパスの外に出ると疎らながら人目があった。長身の美青年に抱き上げられている。屈辱だ。 「降ろせよ」 「歩いて行ったら日が暮れちゃうよ」 「いいのかよ。お姫様抱っことか浮気だろうが」 「これが浮気とか、べいべって童貞なの?純情なの?ボクのカノジョ、こういうカッコいいオトコノコとかわいいオトコノコがイチャコラしてるの好きだから大丈夫だよ。無罪、無罪」  適当にあしらっているらしく下から見た柊は真っ直ぐ前を見て、普段の言動さえなければ確かに心惹かれるものがある。顔面の造形に隙がない。 「あ、きらりんの好きな子だ」 「え?」  顔面にはまったく隙がなかった。下から見ても崩れない。美しさの辻褄が合っている。肌も良い。しかしぼそりと柊は呟いた。櫻岬の反応によって、驚いた顔をし、同時に本日二度目、櫻岬は重力に逆らえず地に叩き付けられた。 「あでっ、」 「(ホン)ちゃん!大丈夫かよ!」  走ってきたらしく息を切らしている宮末が肩を叩いた。 「あれ、フューチャー?」 「怪我は?腰は無事か」 「大丈夫。おいコラ、ちゃんと運べよな」  地面に尻餅をついたたまま、宮末には陽気に接し、柊には悪態を吐く。幸い左足首が追撃を受けた感じはなかった。掌がわずかに擦り剥いて小石が減り込んでいる程度だ。 「おれが運ぶよ。医務室だろう?」  先程と同じように宮末が抱き上げようとする。 「ちょ、ちょ、フューチャー!大丈夫だって。ホント!(こいつ)が大袈裟なだけで……」 「いいや。負荷がかかるのはよくない。このまま連れて行く」 「いやぁ、さすがにまずいって!平気へーき!フューチャー、だいじょぶ……」 「遊びに行くんだろ?湿布貰うなり、マッサージしてもらうなりちゃんと処置してもらえ。長引くぞ」  柊同様に軽々と抱き上げられる。兄貴分と一方的に思い込んでしまう同期の腕の中に収まると柊は柊らしくなかった。しかし観察する間もない。宮末が彼を睨んでいるようで、それが珍しかったのだ。 「彼のことは任せてくれ」 「……ボクも行くよ」  宮末は何も言わなかった。逞しい腕に支えられ、本館にある医務室へ運ばれる。 「フューチャー、ゼミ大丈夫なん?」 「ああ。気にすんな。紅ちゃん、折れてるとかじゃないよな?」 「悪くて捻挫くらいじゃない?」  関節は動く。後日病院に行くことにして湿布を貼られる。足を伸ばし座っている横で背の高い男が2人、壁のように並んでいるのが威圧的だった。2人は互いに目を合わせることもない。喋らず笑わずただ突っ立っている宮末と柊というのは厳つく険しい。 「オレもう大丈夫だし、戻っていいって」 「ゼミあるんだろう?送っていく」 「別に平気」 「平気じゃない。また階段から落ちたらどうする?おれは大丈夫だから」  宮末は根からの良い人だ。こうなったら引かない。 「ボクが付き添うよ。後は帰るだけだし」  一度目の前で友人を落としたことを宮末は忘れていないようだ。怪訝な眼差しだ。彼が他者に負の感情をあからさまにすることはほぼない。彼等は仲が悪い。険悪だ。 「もう落としたりしないし、付き添うだけだから。安心してよ、べいべ」  2人は互いに見向きもしない。 「分かった」  柊に言う。 「ここまでありがとな、フューチャー」  自然と甘ったれた声音に切り替わる。 「大怪我じゃなくてよかった。大事にな」  普段は爽やかの張り付いた精悍な顔が憂愁を帯びる。後頭部をくしゃりと撫でられ、櫻岬は浅く唇を噛んで子供になってしまう。 「うん」  二言三言交わして一方的に兄貴分だと思っている同期は医務室を出ていった。柊は小さく溜息を吐いた。 「あの人のコト好きなん?」 「アンタと違ってイイやつだからね、そりゃ好きでしょ」 「ふぅん」  付き添うというからには肩を借りて歩くものと思っていたが、柊はまたひょいと櫻岬を抱き上げた。 「いいって!降ろせよ。また落ちたらどうすんの」 「汚名返上、名誉挽回ってやつ?」  医務室を出て、他人の足で移動する。一度落ちるとすぐに信用はできず、身を捻って柊の服を摘んだ。 「ボクのコト好きになっちゃった?」 「なるワケないっしょ」 「さっきのあの人さ」 「フューチャー?宮末っての。下の名前が松籟(しょうらい)だからフューチャー」  訊いてないとばかりに柊は下唇を突き出した。 「七瀬ちゃんの元カレだったりして」 「え?」 「ボクが欲しかったから奪っちゃった。ず~っと言い寄ってね」 「でも付き合ってるなら、カノジョもアンタを選んだんでしょ。人のカノジョに言い寄ってサイテーだけど、真っ当なんじゃないの」  宮末の仇とばかりにぽすりと肩口を軽く叩く。 「あんま言うなよ、それ。カノジョのほうの株も下がる。あんな綺麗な人捕まえといてさ」 「あの人の優しくて素朴過ぎて友情一直線なトコが不満なんだって。さっき見ててなんとなく納得した。で、ちょっと妬いた」 「なんでヤキモチ焼くの。おかしくない」 「七瀬ちゃんは今ボクのカノジョであの人を捨ててボクを選んだコトになるケド、男としてはあの人のほうが上ってコトだったんだよ。ボク、それを言われてたんだなって」 「そりゃね。フューチャー越える男はなかなか居ないよ。別にアンタがヤキモチ焼くことじゃないね。トイプーはオオカミになれないの」  柊は返事をしなくなった。なるべく乗らないよう指示されているかなり小さなエレベーターに乗ってゼミの教室に戻ってきた。その前で降ろされ、すでに来ている教授に謝った。 ◇  痛んだ左足にもすぐ慣れて、いつものグループの奴等も歩く速度を緩めたり、なるべく歩かせないようにと気を回した。"お姫様抱っこ"で運ばれて行く様を見ていた奴もいたらしく、それで話が盛り上がったりもする。大きな講義では別のグループからもその話題を振られたりして、笑い話に昇華した。喉が乾いて猛烈に蛍光イエローの炭酸ドリンクが飲みたくなった櫻岬は大講義室をひとりで出た。気の良い友人たちは付き添うと言ったがその必要はない。 「櫻岬」  日当たりの悪い通路で自動販売機は建物の裏側だ。呼び止められる。陰気な感じがした。吉良川が立っている。 「やっぱりあの時、階段から落ちたのか」 「なんのこと~?」 「(とぼ)けるな。この前のゼミの前……」  ただでさえ冷淡で薄情そうな顔立ちに深刻げな表情を浮かべ、雰囲気は暗然たる感じなのだ。 「ちょっとドジったんだよ。階段踏み外しちゃってさ。それだけだけど」 「……悪かった」 「なんで吉良川が謝るのさ。訳分かんない」  眉間の皺が深まる。気に入らなそうな顔をされる。彼に対してどう対応していいのか分からない。一度好い面をしておきながら、結局は手に負えないと離れた相手だ。自分の不甲斐さ、情けなさと直面しているに等しい。それを認めたくないあまり、苛立ちに変わる。 「あそこであんなことをしていなければ、櫻岬は階段を踏み外したりなんかしなかった。そうだな?」 「分かんないよ、そんなの。急に忘れ物思い出して引き返そうとしたかも知れないじゃん」  突き放すように言って、虚勢を張っても左足首はテンポより遅れ、引き摺ることになってしまう。自動販売機まではそう離れていない。湿布がびぃんびぃんと冷感を発している。 「櫻岬に迷惑をかけてばかりだ……俺は」 「吉良川は別に何も悪くないでしょ。―だって放っておいてくれって、言われたんだし」  そして2人だけの時また話したいとも言っていた。それを忘れて、吉良川を避けていた。彼は接触を試みていたのに。口の中が乾いている。パイナップルだが何のフレーバーだかも分からない鮮やかな黄色の炭酸飲料よりも水が飲みたくなった。 「言った。確かに……言った」 「だから傍に居なかったじゃん。吉良川の所為にしたくたってそんなの、吉良川、何も悪くないでしょ」  喉が渇く。喉が渇いてどうしようもない。 「言った。俺は優しくしてくれた櫻岬を突き放した。許してくれ。爛れた関係でいいから、柊みたいな関係でいいから、また俺と―」 ――トモダチニナッテ。

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